第89話

 パリ四区のオシャレな街並みに混ざる、植物園を思わせる貴族の邸宅。廊下の淡いパステルグリーンの壁布や、一八世紀のシャンデリア。レッドカーペットを歩くと、その途中にある曲線美の美しい家具。大きな窓からは、庭園部が覗ける。


 それらを楽しみながらキッチンを探す影あり。サロメだ。

 

「さて、こんだけ広いと、どこになにがあるやら」


 お目当てはキッチン。だいたいの場所はわかる。廊下の一番奥まったところにあるはず。


 オスマニアン建築ではよく、リビングやダイニングは壁で仕切られており、部屋ごとに壁の色やカーテン、家具に絵画などをコンセプトに分けていたりする。特徴である繊細なレリーフ装飾を至るところに配置。バロック時代のウィーンなどの飾り棚など、こだわりを持つ人は多い。


 例に漏れず、ひとつひとつ見かけたドアを開けながら、サロメは雰囲気を楽しむ。ピエールフレイのファブリックを使用したソファー、アールデコ時代の家具。見学料を払っていないのが申し訳ない、という気持ちは持ち合わせていない。


 そのうちのひとつ、観音開きになるドアを開けると、内装にはファイエンス製の陶器を使ったタイル。壁には銅製の鍋やフライパンが多数かかっており、大きめのオーブンやシンクなどもある。貴族の家では、部屋ごとに作る料理を分けている場合も存在し、ここは焼いたり洗い場であることがわかる。


「? なにかご用ですか?」


 これから料理に取り掛かる予定なのか、コックコートを着た年配の女性にサロメは声をかけられた。


「……なにもない。まぁいいや、この屋敷の奥さんてどこにいるの?」


 残念がりながらも、頭を切り替える。


 怪しみつつも今、この邸宅内にいるということから、女性は目の前の少女を推測する。


「調律師の方ですか? 奥様は……めったにご家族以外にお会いすることはございません」


 申し訳ありません、と慇懃に断る。


 だが、そんなことで引き下がるサロメではない。


「いやー、大ファンでさぁ。なんとかして握手だけでも」


「……お聞きして参りますから、少しお待ちください」


 正体に気づいている、ということに多少の驚きはありつつも、極めて冷静に女性は態度を軟化させる。何か思うことがあるのか、固辞するというわけではないようだ。その場から離れ、ドアから出ていく。


「言ってみるもんだね」


 ひとり残されたサロメは、キッチンにある部屋を様々に物色する。冷蔵庫室や保管室などもあり、「本当に必要?」と疑問を持ちながらも、棚で寝かせているショコラを勝手にひと切れもらう。さすが貴族様。クーベルチュールを使用しているので、口溶けがいい。

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