第86話
「まぁね。ヴェロニカ・ミューエ。六大会前のチャイコフスキーコンクールの優勝者。その時、一度だけブリュートナーが選ばれた」
よっぽどの実力でないとピアニストの名前を記憶に残さないサロメが、色濃く覚えているひとり。ドイツ人女性ピアニスト。映像でしか観たことないが、圧巻の演奏は鳥肌が立ったほど。そして、そのときのブリュートナーがおそらく——。
自身の母親のことであるが、どこか悔しそうにユーリは語る。
「……圧倒的な差だったそうだ。二位はおろか、三位すら……」
コンクールでは、優勝もそれ以外の順位もいない場合が稀にある。そのレベルに達していない、と判断されると、容赦なく『該当者なし』と決まる。二位と三位が存在しないということは、優勝者との差がそれほどまでに顕著だった、ということ。世界最高レベルのコンクールでだ。
二人で進む話。そこにランベールが割り込む。
「ちょっと待て、ヴェロニカ・ミューエは俺も知っている。有名なピアニストだ。いや、だった。彼女は——」
と、言ったところで口をつぐむ。今、彼女は。そして、この話の流れだと、この青年はつまり。
「……母は数年前に唐突にピアノを辞めた。その理由が知りたい。教えてくれないんだ……」
ユーリがその後の言葉を継ぐ。その声は泣き入りそうな、か細く、誇らしさなどない、ただのひとりの青年。伝説的なピアニストの子、というプレッシャーに押し潰されそうになる。
凍りついた場を溶かすように、慌ててランベールはキョロキョロと、次の話題を探す。
「そ、それで、チャイコフスキーコンクール優勝とどんな関係があるんです?」
結局深く掘り下げることになったが、やはり気になる。伝説のピアニストの息子。今が一番緊張してきた。すごい人に『ダメ』と言ってしまったかもしれない。
だが、そんなランベール不安をよそに、淡々とした口調でユーリは語を並べていく。そんな些細なことは気にしない。
「……母はプライドが高い人だ。まだ僕は……認めてもらっていない。ならば、自分が優勝したコンクールで僕も優勝すれば、少しは認めるはずだ。そうすれば、辞めた理由を話してくれるかもしれない」
ふぅー、と長い息を吐き切る。肺の辺りで溜まっていた、なにか得体の知れないモノが一緒に吐き出されたかもしれない。少しだけ、楽になる。誰かに話すと楽になる、というのは本当かもしれない、と初めて知る。それが初対面の調律師達、というのが気がかりだが。
もっと、なにか貴族的な感じで、復興だとか、メディアに取り上げられることで注目を浴びて、家の収益のためだとか、そんなイメージをランベールは持っていた。だが。
「……それだけ?」
思っていたよりも、人間らしい。
鋭く視線をランベールに向けたユーリは、眉を寄せた。
「つまらない理由だと思うか?」
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