第85話

「もういい。やめとけ」


 さすがにオーバーキルだとランベールが諌めるが、一度火がついたサロメは止まらない。貴族や大物など関係ない。自分が正しいと思ったことを貫く。


「超一流の調律師が、調律とは『子猫のように、それでいてライオンのように』なんて言葉を残したけど、まさにそれ。強弱、剛柔、濃淡がはっきりと切り替えられるのがいいピアノ。教えてくれたっていう調律師の程度が知れるわ。そんなことも計算に入れられないんじゃ、大した腕では——」


「母さんをバカにするなッ!」


 と、サロメを遮りユーリが声を張る。そして俯き、深く深呼吸。


 いきなりのことに意表を突かれた形のランベールだが、そこで気になった単語。


「母?」


 母親? なんの話だ? とサロメに視線を送ると、全て理解しているかのように、不遜とした態度をしている。


「なんにせよ、ピアノの腕はともかく、調律は話にならない。が、自分でやるというなら止めはしない。知ったこっちゃないし。どうしても『この調律の、このピアノで』出たいわけだから。勝手にすれば?」


 あー、時間の無駄だった、と聞こえるようにサロメは愚痴を吐き出す。


 色々と叩きのめされたユーリだが、それでも内側に燻る炎は消えないでいる。


「……調律も全て自分でやる。それで優勝する」


 それでなければ意味がない。そう、意味がないのだ。


 だが、無情な現実をサロメは叩きつける。


「無理。そもそもブリュートナーがコンクールで使えるとしても、調律師は専属の人がやるはず。あんたの調律とじゃ違いすぎて、自分の音とやらは出せないわ」


 ここまでくるとユーリもヤケになってくる。頭はちゃんと回っていない。


「……それでも勝つ」


 根拠はない。ただ勝つことしか考えていないから。


「それも無理。なんとかして望み通りの調律ができても、あなたの腕じゃ優勝なんてとてもとても。腕まではあたしでも引き上げらんない」


 元々、言葉に攻めっ気のあるサロメ。強気な男を言い負かすのが楽しくなってきた。だが、これも事実。結局は腕がものをいう世界。血筋ではどうにもならない。


 トーンダウンしていくユーリの言の葉は、もはや風前の灯。消え入りそうな声で助けを求める。


「……なにが足りない?」


 が、それでもサロメは容赦なくダメ出しをする。


「全部。ピアニッシモの美しさもフォルテッシモの力強さも。ちょっと上手い、程度じゃ話にならないコンクールだってのはわかるでしょ」


 ショパン、エリザベート、ジュネーヴ、ヴァン・クライバーン、そしてチャイコフスキー。世界にコンクールは数あれど、レベルの高さでいえばトップに数えられる。幼少の頃から英才教育を受けた中の一握り、それをさらに篩にかけて、それでもようやく戦えるかどうか。


 勝ち誇ったサロメは、小さな声をユーリの耳に送る。


「偉大な母親の顔に泥を塗る前に、諦めて違う道を選ぶべきだと思うけどね」


 いらぬサロメのお節介だが、なによりもユーリには重くのしかかる。


「……気づいていたのか」


 どこで? なにがきっかけで? 様々な要因を頭に浮かべたが、全く答えに到達しない。

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