第84話

「ブリュートナーというメーカーの最大の特徴は倍音の輝き。アリコートシステムの最大の恩恵と言っていい」


 まず、基本的な部分をサロメがおさらいする。世界四大、とも称されたことのあるブリュートナー。


 鍵盤を叩いた時に出る基音。例えば、『ド』を押した時に、オクターブ上の『ド』や、さらに五度上の『ソ』などの音も、聴こえにくいが実は鳴っている。その共鳴した音が倍音。倍音を生かして響かせることが、美しい音を引き出す調律のポイントになる。


「知っている。だからなんだ」


 そんな初歩的なことを、とユーリは吐き捨てる。


 さらに、少し踏み込んだ解説を付け加えながら、サロメは核心を突いていく。


「そして一番の違いは音の『飛び方』なのよ。スタインウェイすらも凌ぐ響きが、あんた『達』の調律じゃ殺しちゃってんの。本当はわかってんでしょ? この調律では無理だって、自分が一番」


 顎でユーリを指す。甘やかされ過ぎて、大事なことが見えなくなっている、という意味を込めて。


「飛び方……?」


 そこまでは考えていなかったユーリは、難色を示す。ただ弾くことだけを意識していた。その先の音については、範疇から抜けている。


 だが、ランベールはそれ以上に気になった点を見つけた。


 (……『達』ってなんだ? なんの話をしている? 相変わらず、底の見えない女だ……)


 まるで調律した人物が他にもいるかのような、そしてユーリもそれを認めているかのように流した。置いていかれている焦燥感に襲われる。


 弱気を見せたユーリにサロメは近づき、講釈を述べる。


「コンクールでは、大人数の入るホールで観客ありありで審査される。さらにホールによって反響が違うから、ピアニストによってはピアノ選択に時間をかける。それほどまでに繊細なもんなのよ。ピアノ弾きながら片手間で務まるような安い仕事じゃないの」


 見上げながらさらに顔を近づけ、右手人差し指でユーリの胸元をトントンと叩いて挑発する。


「……ちっ」


 先に顔を逸らしたのはユーリ。舌打ちをしながら、少しずつ敗色濃厚を悟る。


 だが、追撃の手をサロメは緩めることはない。


「さらに、コンクールではモスクワのホールで行われる。そのホールの形、わかってる? はっきり言って、審査員席の位置は、聴くのに適しているとはいえない近さ。そこに合わせた音作りをするのが調律師なの。それでいて観客には、また違ったいい音を提供できるような」

 

「……」


 ユーリには耳の痛いことだが、たしかにそういったことを考えてはいなかった。サロメの言葉が刺さる。


「だからこそ、そのメーカーから派遣されたコンサートチューナーは、一次や二次や本戦なんかで調律を変えなきゃいけない。さらにホールの反響具合。温度や湿度を一定にしていても微妙に変わってくる。『ホールの声』を聴いて、さらにプログラムに合わせるなんてこともする」

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