第78話
とはいえ、フランスにおいて貴族というものは、公式的な形では存在していない。フランス革命以降、廃止されたこともあったが、その後一時的に復興。紆余曲折あるが、血筋を受け継ぐ家の中には、それを踏襲する者、全く無関係に働く者など、様々な形でうつろっている。
お気楽なサロメに対して、仕事前からランベールはムカムカする。いつものことだが。
「ならお前がやれ。ブリュートナーの特徴わかってんだろ? 他との最大の違い」
はっ、と鼻で笑ったサロメが解答を述べる。
「高音部の四本弦。倍音が増幅する『アリコートシステム』。特許技術ね」
なぜか自慢げに。だが、それほどまでにこのピアノメーカーの最上位は、規格外の力を持つ。なにせこのメーカー、ピアノが完成しても『ピアノの声がまだ聴こえない』と製作者に判断されると、聴こえるまでドイツから発送すらしてくれないほどに厳格。
受注自体に一年以上かかることもあり、さらにプラスして数ヶ月。並の調律師では手が出せない、とまで言われている。最上位『モデル1』。
「二〇世紀最高の指揮者とも言われる、あのフルトヴェングラーに『本当に歌うことができるのはブリュートナーだけ』とまで言わしめたほどだ。煌びやか、それでいて力強い。プロのピアニストにも選ばれる珠玉のピアノ」
本来なら三本の弦であるはずの部分を四本にすることで、より響きを豊かにするブリュートナー。だが、それでもランベールは生で聴くのは初めて。ワーグナーやブラームス、ラフマニノフなど、挙げればキリがないほどに、愛用していたピアニストは多い。
いつもは気の抜けたサロメも、今回ばかりは脈拍が速くなる。いや、ポゴレリッチの言葉を借りるなら『速度じゃなく、脈動』とでも言うべきか、と気持ちが昂ぶる。
「同じドイツのベーゼンドルファーの、あのインペリアルに引けをとらない、って言われてもいるね。化け物かっつの」
世界三大ピアノの中でも、特に怪物と称されるものと同格。今後、何がきても恐れることはなくなりそうだ。
マレ地区のオシャレな人々をかき分け、進んでいく両者だが、特にランベールは瞬きの回数が多くなる。
「正直、普段より気が重いのは確かだ。弾くのは子供らしいが、相当気難しいって話だしな。お前とぶつけたらやばいことになる、って判断、わかってんだろ。てか、少し前までのしおらしい態度はどこいったんだよ」
数日前まで、真面目に調律をこなしていたサロメ。穏やかな日々。戻ってからのその後はお察し。
窮屈な振る舞いを思い出したサロメは、舌を出して苦々しい記憶を吐き出す。
「必要ないって気づいたからやめた。慣れないことするもんじゃないわ。気難しいだか貴族だか知らないけど、あたしはケンカ売られたらそのまま買うわよ」
「やめとけ」
気だけでなく足も重くなるのを感じたランベールは、興味本位でこの仕事を引き受けたことを後悔しだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます