第79話

「自分のピアノは自分で調律する。お引き取りください」


 緑が少なくなりゆくパリ。その象徴的なオスマン建築のパワフルな街並みから、まるで切り取られたような、カラフルな薔薇が咲き誇る庭。門から伸びる曲がりくねった、家屋までの道の途中にある、アルミ製のパーゴラには植物が絡みつき、植物園に紛れ込んだような錯覚さえしてくる。


 そして通された大広間。凝った金細工のタッセルを有する、アーチ型の窓辺。オスマニアン建築の板張りの床。白で統一された壁紙。なんかよくわからない偉そうな人の肖像画。部屋の中央には、天井からぶら下がる豪勢なシャンデリア。防音設備。そして、ブリュートナー。


 まさに貴族。邸宅。そんな印象を持ったランベール達を待ち構えていたのは、ピアニストの男性、ユーリ・ラヴァルの先のひと言。


 ツーン、と真顔で受け止めたサロメは、回れ右をした。


「だそうなんで帰ります。いやー、自分のパートナーは自分で面倒を見る。素晴らしい」


 若干の怒りを孕みつつも、即座にやる気をなくした。興味も。一応、交通費とかは出るよね、と帰りながらスイーツを買う算段を立てる。


「バカかお前……」


 それを一応はランベールも引き止めるが、今回ばかりは気持ちがわかる。呼ばれておいてなんという仕打ち。ブリュートナーを拝めただけ、では少し足りない。


 そこに、黒一色のスーツとジレを着込んだ男性が間に割って入る。


「失礼。下がっていなさい」


 場を引き締めたのは、ユーリの父、カリム。今回の調律の依頼主でもある。


 だが、すでに帰宅の意思が固まったサロメは、そちらを優先する。


「まぁまぁ。自分で見れるものなら見たいってのは、どうしたって出てくる感情だ。尊重しましょう」


 その前に食事でも。わざわざ呼ばれて来てるんだから、それぐらい役得があってもいいでしょう?


「……お前、ここまでなにしに来たんだ」


 その一貫しないサロメの行動に、ランベールは白い目を向ける。少しくらい抵抗しろ、と暗に示す。


 出口に向いた体はそのままに、サロメは顔だけ振り向く。


「別にー。やりたいっていうんだからやらせりゃいーのよ。お客さんの要望なんだから。はい、帰るよー。頑張って調律師になってね」


 ランベールも巻き込み一路、帰宅の途へ。やらなくて済んだのは僥倖か。


 その調律師一行の態度に、ユーリは不快感を示す。


「調律師になりたいわけではない。自分のピアノだけは自分で見たいだけだ」


「なんでもいいわー。厨房どこ? お腹空いた」


 やはり貴族様はいけすかない。関心を失ったサロメは、家主のカリムに要望を通す。


「なにをする気だね? まぁ……もてなしはしよう……」


 ご足労願った方々への、労いもある。カリムは語尾を弱めて、許可を示唆した。


「隣の区とはいえ、こんな重いもの引きずって来て疲れてんのよ。なんかもらうわ」


「すみません。緊張しすぎてパニックになってるだけです」


 一応のフォローをランベールは入れるが、たぶん遅いことはわかっている。なにも問題が起きないうちに、退散することが吉と判断した。


 (なんかこいつ、反動でさらに口悪くなってないか?)


 穏やかな日々が嘘だったように、今では感じる。


 全てが元通り。これまで通りの日常を取り戻したユーリは、カリムに反論する。


「なんでもいい。父さん、このピアノは僕が調律します。以前にも言ったでしょう」


 求める音は自分でわかっている。余計な手出しをしないでくれ、ときっぱりと差し伸べられた手を払いのけた。


 だが父として、もがき苦しむ子を放っておけないのも事実。


「そういうわけにいかないだろう。コンクールはどうするつもりだ」


「このピアノを本戦でも使えるように、一時的に譲渡します」


 その親子の言い合いに、部屋のドアに手をかけようとしていたサロメは反応する。


「コンクール? なんの?」

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