第74話


 本当はワインを飲みたいが、車で来ているため我慢をしているルノー。同様にリサイタルを思い返す。


「あれでまだ、成長するのびしろしかない。間違いなく名器だ」


 ブリジットの腕もある。自信はなさそうだったが、残響すら味方につけたような、新たなショパン。サロンでしかほとんど弾くことがなかったショパンも、もし聴くことができたら、教会で弾いてくれたかもしれない。


「あの子、緊張がいい方向に働いてた。硬すぎず柔らかすぎず。あれが本来の実力なんじゃない?」


 調律次第でピアノもピアニストも化ける。リサイタルを聴いていたお客達の表情を、サロメは思い出した。


 今回の仕事の出来に、ルノーは満足しつつ、教えることができる数少ない訓戒をする。


「調律するだけじゃダメなんだ。演奏者と同じ方向を見ないと、さらにいえば本番では音響や、照明のスタッフとも関わってくる。ピアノがいい音だけでは、コンサートピアノは作れない」


 家庭のピアノとはまた違った難しさ。柔軟に対応する力。希望する音を引き出す会話も、時には大事になる。全ては信頼関係。


 それを悟ったサロメは、早々に降参する。


「ま、たしかに意固地になってたかもね。認めるよ。明日にでも店のピアノは直しとく」


 うげ、とそのエネルギーを考えて表情を歪めた。なかなか骨が折れる。


 しかし、ルノーは寛容に物事を見つめる。


「いや、いい。言ったろ、あれはあれでいい音だ。少なくとも私は好きなユニゾンだ。あぁいうのがたまにあってもいい」


 調律師の数だけユニゾンがあり、ピアノの数だけ音がある。それらが混じり合う一期一会。それらは何ひとつ間違いじゃない。サロメの音を、ルノーは好きだ。


「はぁー、どっちよもう」


 相変わらず読めない社長の発言に、なんとも言えずサロメは天を仰いだ。アーチ型の石が見える。


「音の好みは人それぞれだ。人の数だけ好きがあっていい」


 調律しなきゃ


「無理してたつもりはないんだけどね。あー、あたしもまだまだだぁ」


 調律しなきゃ


「また調律に来るぞ。まぁ、あまり直すとこはないだろうが、自由に弾けるとなると、また動画配信者が来るかもな」


 調律しなきゃ


「アイツらねぇ。余計やる気なくなったわ」


 調律しなきゃ


「じゃあ、帰るか」


 ルノーが座席で会計を終え、立ち上がる。コートを羽織り、キャリーケースを持った。


 携帯で調べ物をしながら、サロメは待ったをかける。


「そうね、でもその前に」


 近くでまだやっているお店。スイーツ。


「みんなのぶんのエクレアでも買って帰りましょうかね」


 調律しなきゃ、『あの』音が、この耳の奧から消える前に——。

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