第69話

 緊張はよくないもの。ずっとそう思いこんできた。いや、実際にいい方に転んだことはない。思い返すと、こめかみ辺りが痛くなってくる。


 (まーた、社長の変な講座が始まった。他人のフリ、他人のフリ)


 なにやら若い子を洗脳でもしようとしているのかわからないが、サロメは知らんぷりをして、社長との繋がりを断ち切る。


 だが、色々な経験をしてきたルノーの講座は熱を帯びる。


「緊張しないことがいいこととは思わないからね。実際にしちゃうし。だから、緊張すること前提で『緊張すればするほど私は力が出る』と自分に言い聞かせるんだ」


「緊張することで……」


 自身に深く刻み込み、糧としようとするブリジット。もうここまできたら、なんでもやる。


 (いやいやいや)


 聞き耳だけは立てているサロメだが、そもそも自分は緊張しないのでよくわからない。それでうまくいくようになったら、ルノーはブリジットにお金を要求していい、と真に受けない。


「ほら、やってみな」


 目を瞑って、先に例としてルノーは実践する。自分に緊張しろ、と言い聞かせ、心拍数を上げる。


 それを真似て、ブリジットも声に出してあとに続く。


「……緊張しろ……もっと緊張しろ、私……!」


 ブリジットはそのまま、ルノーは説明を付け足す。


「人間の心理でね、『するな』って言われると逆に意識してしまう、心理的リアクタンスというものがあるんだよ。『カリギュラ効果』とも言われてるね。ならいっそ、辛いことは認めてしまうほうが、心理的に楽になるんだ」


 それを聞いているのかわからないが、ブリジットは止める気配がない。


「もっと、緊張しろ!」


「まぁ、人によるから効果はわかんないけど」


 チラッと視線をサロメに向けるルノー。つまらなそうに天井を見ているが、きっとなにか気づいてくれるだろう。自分の出番はそろそろ終わりだ。


「もっと、もっと緊張しろ! もっと!」


「……それくらいでいいんじゃない?」


 止めるまでやり続けそうなブリジットの行動を制し、ルノーは次のステップへ。なにか若い子達に見せられるとしたら、技術ではない。


 ルノーの読み通り、呆けながらもサロメは、自分に言われているようだ、と少し気が変わる。自分はどこにたどり着くのか。この先、調律したピアノを思い返し、なにを思う。


 (辛いことを認める、か)


 まるで父親みたいなことを。なんであなたが。


 目線を下げて見えるルノーの横顔。心なしか楽しそうに見える。


 そしてルノーから最後の講釈。というよりも人生論。


「プロを目指すなら、色々な人と触れ合うことが必要だよ。コンクールで優勝を目指すことより、四、五○代になったときに、魅力的なプロ生活を送れていることを想像する。そのために今、先んじて緊張を経験することは、とても重要なことなんだ」


「……プロ」

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