第70話
頭で何度も想像していても、口に出すと、まるでかき氷みたいにサッと消えて溶けてしまう。かき氷て。こんな寒いのに。と、ひとりごちたところで、ブリジットは落ち着いていることに気づく。というより、自分に大きな声で言い聞かせることに夢中で、息が上がっていた。無心だった。
「……はい!」
決意の満ちた目で、ルノーに合図をする。「もう大丈夫」と。
それを確認し、ルノーも元の仕事に戻る。本業だ。
「もうすぐ調律が終わる。今日はショパンだったね。少し試弾して、なにかあったらそこの子に言ってね。きっとうまくやってくれるはずだから」
と、だらけきってイスと一体化しそうなサロメを指差す。
聞いていた話と違い、やる気の微塵もないサロメは体を起こした。
「今日は見てるだけでいいって言ってませんでしたっけ? 今なんて?」
私のほうがいい調律できる、みたいなことも。もう一回言ってもらっていい?
だが、素知らぬ顔でルノーは予定を違える。
「やっぱり来たんならやってもらおうかな。ほら、社長命令」
こういう時に社長は便利だ。なにを言っても許される。それに、調律に関してはサロメのほうが上手い。もう伝えたいことも伝えたし。老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。いや、消えないけど。ここにいるけど。
気だるげに立ち上がり、前屈したり、胸を張ってリンパの流れを改善しながら、呆れたようにサロメはピアノに近づく。
「はっ。そんなことだろうと思った」
ぐちぐちと、ルノーにも聞こえるように小言を言う。まぁ、ある意味予定通りなので、気にならない。音もルノーが調律をしているものを確認している。
「調律、みんな気づいてるよ」
キャリーケースから道具をまさぐるサロメに、ルノーは声をかける。内容は店のピアノ。
「なんの話でしょーかねー」
ふてぶてしく知らんぷりをするサロメ。いい調律をしたはずなんですが、と身に覚えがないアピール。実際、美しいユニゾンで輝きを増しているのは事実。
トゲのあるサロメ対し、真っ向から立ち向かうことをルノーはしない。認めつつ、触れないように優しく手に納める。
「責めているわけじゃない。あれはあれでアリな調律だ。ウチはそのメーカーの特徴を引き出す方針でやってきているが、その時々で柔軟に変化するべきだ」
「話が見えてきませんねぇ」
チューニングハンマーを取り出し、サロメは微調整に入る。ある程度はルノーが終えているため、あとは『今日の午前に届いた』という点、そして『このあとの温度』。これを頭に入れて、感覚を頼りに音を鳴らす。
もう調律が始まったので、ルノーは会話を打ち切る。相変わらず、いや、以前よりも確信を持ってハンマーを止めている。そして確認のためだけの打鍵。自分にはできない。おそらく『一時間後に最高の状態へ持っていく』調律。
「まだなにか?」
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