第67話

 視線の先の少女は、丁寧にルノーに向き直り、身を硬直させた。


「は、はい! よろしくお願いします!」


「よろしく。アトリエ・ルピアノの社長のルノーです。モンフェルナ学園の子だね。こっちの子も」


 クイクイ、と親指で、他人を装うとしていたサロメを指す。


 はぁ……と、サロメは深くため息をついた。知らぬ存ぜぬを通そうと思ったのに。


 直立不動のまま、少女は少し震える。手はしっとりと汗ばんでいた。


「はい、この教会のリサイタルは、ピアノ専攻で持ち回りで弾かせていただきます。こちらも、よろしければ……」


 と、フライヤーを手渡す。内容は、来月のノエルに開催されるリサイタル。そのピアニストや作曲家などが記載されている。


 一枚ずつ配られ、面倒ながらもサロメは確認する。一応、自分の職場が調律するワケだし。


(いや、あんま知り合いとか会いたくないのよね、誰がいるのかしら)


 一二月二一日 ブリジット・オドレイ『ショパン』


 一二月二二日 イリナ・カスタ『シューベルト』『モーツァルト』


 一二月二三日 ヴィジニー・ダルヴィー他『バッハ』『ブラームス』


 一二月二四日 ベル・グランヴァル『リスト』『パッヘルベル』


 一二月二五日 カルメン・テシエ『ドビュッシー』


 全てに目を通し、ひとまずは安心する。


(よかった、誰も知らない。焦って損したわ。てか、『他』ってなによ。連弾でもやるの?)


「あんたどれ? ショパンの人?」


 とすると、今、目の前にいるこの子はどれだろう、とサロメは推測した。今日はショパンて言ってたし、これか?


「あ、ごめんなさい。ブリジット・オドレイ……です。お願い……します」


 自己紹介を忘れていたことに気づき、ブリジットは慌てる。そしてなぜか意気消沈。細く長く息を吐く。


「緊張してる?」


 心配そうにルノーが見つめる。この寒さもある。なかなかに難しい状況だ。今日が本番じゃなくてよかった。まぁ、試弾も本番といえば本番だけど。


「い、いえ、頑張ります!」


 微妙にズレた返しのブリジットだが、瞬きが多い。かなり緊張していそうだ。頭が働かない。


(あ、やばいわこれ。別に今日は本番でもないのに。人前で弾くことに慣れてないのかしらね)


 かたやサロメは不安そうに目線を逸らす。もはや調律以前の問題だ。学園の音楽科の試験には、どうやって受かったんだろうか、と呆れ気味。


 フライヤーを手に取り、読み込みながらルノーは質問する。


「これって学園の講師の人達も聴きにくるの?」


 これ、とはノエルの本番。もちろん、一般客も多いだろう。クリスマス気分に浸りながら、教会でリサイタル。神秘的だが、演奏者の心境はどうなのだろうか。


 思い出したように、ブリジットは目を白黒させる。


「あの……というか……コンセルヴァトワールの講師の方々も……聴きに来られるんです……」


 コンセルヴァトワール、とはいっても、フランスには数多くのものがあり、地方などにも存在する音楽学校。しかしここで言うのは最高位に位置するパリ国立高等音楽院。ここに入るためにはもちろん実技試験があるのだが、試験官の講師を指定することができる。


 そのため、その講師に入学前に弟子入りすることが、一番の近道になる。試験官としても、知らない人を合格させるよりも、弟子のほうがなにかと都合がいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る