第66話

「……『質の高い演奏をする。それだけ』だったはず……それが?」


 なにが言いたいのかわからず、横目でサロメは男性を追う。オペラを知っているのは驚いたけど。


「今日は何時から、なんの曲目?」


 唐突に男性の話が変わる。もはや気分で話しているだけにしか見えない。


「……はぁ。一八時からショパン。オペラじゃないけど」


 真剣に考えるのがアホらしくなってきたサロメは、さっさとこの話を打ち切るのが最適だと悟る。いちいち反論しても無駄だ。


 話の内容を理解すると、老人はすくっと立ち上がる。


「なんじゃ。オペラじゃないのか」


「……なんなの一体」


 残念そうに男性は踵を返すが、すでに興味を失って雑に座るサロメに向かって、最後にひと言。


「お嬢ちゃん、『質の高い演奏』ってなんだろね。はっはっは」


 高笑いだけ残し、ゆっくりと出口に向かって身廊を歩いていく。まるで神に懺悔し終わり、スッキリしたような、軽い足取りで。


「……」


 質の高い演奏。その言葉が、サロメを悩ませている。以前なら『あたしが調律したピアノで弾くこと』と言えたかもしれない。いや、今も言える。だが、それでも消えない胸のつっかえは、一体なんだろうか?


<つっかえるほどないだろ>


「あーもう、うっさ」


 楽しそうなランベールの幻影が見えるし聞こえる。人の、特にあたしの不幸や苦悶には敏感に反応する男。何台の調律を終えても、消えてくれない。さらに、ワケのわからないじいさんに絡まれる。きっと星占いは最悪なんだろう。


「質……質ねぇ……」


 一体、『質』とはなんだろうか。目に見えない以上、自己満足するしかない。自分で決めたラインを超えたら高い? 下回ったら低い? 誰か第三者の評価? 後世に残ったら? なにをしたら、なにを得たら質が高いとみなされる?


 グロトリアンの調律は……レダさんの調律は見事だった。どんな状況でも、たとえ共鳴雑音に囲まれていようが、最高のピアノの音を作り出すことが自分の『質』。それ以外に、調律師になにを求める?


「……あの」


「なに? あたし? 今日はショパン。オペラじゃない。帰った帰った」


 また声をかけられたサロメは、考え事をしていたこともあり、手を振り払って適当にあしらう。


「え? オペラ? なんの話……ですか……?」


 返しの言葉の意味がわからず、その少女は首を傾げた。目も泳いで、完全に困っている。


 違うのか、と諦めて少女との会話に舵を切った。


「なんか用? 今、懺悔中だから」


 早く思考を戻そう、とサロメは嘘をつく。というか、懺悔って懺悔室でやるんだっけ? 懺悔を聞かされた神様は、一体なにを思うんだろう? 土曜に教会に通う知り合いはいなかったと思うが、この子はあたしのことを知っているの?


「ピアニストの子かな?」


 一旦、調律の手を止めたルノーが、少女二人に向かって歩み寄る。すっかりこの寒い中だというのに体は熱い。集中していた証拠。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る