第65話
(それにしても、社長の調律はゆったりしてるけど無駄がないというかなんというか。悪くいうと普通すぎるんだけど、あたしってもしかして邪道?)
調律をするルノーをボケーっと観察しながら、自分だったら、と考えてしまう。考えるな、と言われたが、それは無理だ。あ、今のユニゾン少し嫌い。
現在の時刻は一六時。土曜ということ、無料ということ、そして今日のリサイタルの演目がショパンということ。それなりに混むだろう。こんなまったりやっていて大丈夫なのだろうか。
「はー、暇」
ショパンで思い出したけど、ドイツだとあんまりショパンて人気ない。アイツらはベートーヴェンだのバッハだの、自国の作曲家以外認めない、みたいな頭の硬いダイヤモンドヘッドばっかりだから、リサイタルもほとんどないだろう。まぁ、関係ないか。
「キミ、余裕のない顔をしてるねぇ」
当然、一般の礼拝客も入ってくる。ピアノの調律をやっていると、もの珍しそうに最前列で見学する者も当然いる。
「はぁ? あたし?」
声のするほうへサロメが顔を向けると、一心不乱に調律するルノーを見つめる人物。厚着で準備のいい老人男性が、二人ぶんほどの隙間を空け、同じイスに座る。
「あの人のこと嫌いなの?」
男性が指す『あの人』というのは、調律を進めるルノーのこと。
「まぁ、どっちかといえば」
「おい、聞こえてるぞ」
肯定するサロメに対しツッコむルノーの声は、ピアノの音と混じり、残響を残して消えていく。
「なんで嫌いなの?」
グイグイと抉るように深掘りしてくる男性。人の悪口を聞くのは好き。というより、無駄話が好き。
特にやることもないので、サロメも男性の暇つぶしに付き合う。
「別に。まぁ、強いて言うなら、あたしが嫌だって言ってんのに、車にぶち込まれたことかな」
パリは路上駐車が蔓延している。もはや警察も取り締まりを諦めるほどだが、そもそもの原因はパーキングがあまりにも少なすぎるゆえ。暗黙の了解でみな停める。
「人聞きが悪すぎるぞ。普通に仕事で来ただけでしょ」
まるで誘拐のように捉えられかねない発言を、ルノーは訂正する。お客さん兼聖職者のクロードの姿をルノーは探すが、ひとまずは今はいない。よかった、聞かれていたら面倒なことになっていたかも、と安堵する。
「そうかそうか。大事にされてるねぇ」
「……ボケてんの? なにをどう解釈したらそうなんの?」
的外れな男性の理解に、ただでさえイライラしているサロメは難色を示した。あー、話に乗らなきゃよかった、と後悔しだす。
厳しい指摘をされた男性だが、顔色ひとつ変えずにただ笑うのみ。
「こんな言葉を知ってる? オペラ歌手のマリア・カラスが『オペラが普及するにはどうしたらいいか』を問われた際のひと言」
かなり高齢で杖を突いているが、背筋はピンと伸び、目の前にいるであろう神に対して真摯に向き合っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます