第44話
「あれ? 今日って休みじゃないの?」
食べ終わり、イスを片付けようとしたところに、サロメは声をかけられた。若い女性だ。店員と間違われたか、と思い即座に否定する。
「えーっと、お客さんですか? 今日は中でピアノの調律やってるんですよ。ですけど、お店の人はいないので、お休みですね、はい」
残念そうに帰る、かと思いきや、その女性は目を見開いて手を叩いた。どうやら喜んでいるらしい。
「ここにあったピアノって気になってたんだけど、弾けるようになるの?」
ピアノを知っているということは、何度も来ている人のようだ。そりゃ気になるだろう、グロトリアン・シュタインヴェークが突然書店にあったら。サロメは「いえ」と言い、言葉を続ける。
「まぁ、調律さえ終わればですけど。とはいえ、書店の中に設置してあるので、思いっきりは弾けないですけどね」
「本当に!? 絶対いいピアノだから、もったいないと思ってたのよね。私はそんなに上手いわけじゃないけど、ここで弾けるってのが最高よね。期待しちゃう!」
興奮気味に早口で喋る女性に、驚いてサロメは尋ねた。たしかに名器だが、音量や雑音を加味すると、他で弾いた方がいいんじゃないか。ここで弾くことにそれほどの魅力があるのだろうか。
「ここって書店ですよね? ピアノ弾きたいって方って結構いるんですか?」
たしかに世界的に有名な書店らしいが、わざわざ書店という、明らかなピアノには似合っていない場所であることに変わりはない。そもそもなんでここにピアノがあるんだろう、サロメは不思議でしかなかった。
「もちろん! 世界中の人達がここに来るわけだけど、ほら、音楽って世界共通じゃない? そういう垣根を越えて、世界一有名な書店でピアノで通じ合うなんて素敵でしょ? エッフェル塔とか凱旋門でもいいかもしれないけど、あそこってなんとなく観光でいくじゃない? でもここは、ちゃんとした目的があってここに来て、そういう仲間? みたいな感じがあるのよ」
「世界……」
相変わらず早口で一気にまくし立ててくる女性に圧倒されつつも、サロメは自分にはなかった価値観を知った。
「ピアノって世界が繋がるの。そんな場所に立ち会える。プロになるだけがピアノじゃないって思うのよね。いや、私は実力不足なだけだけど」
きっとこの女性は、狂った調律のピアノでもここでならば喜んで弾くのだろう。自分ならば「なんだこの変な音は」と思うかもしれない。だがきっと、この人やここで繋がる人には、それも思い出になるのだ。「ちょっと弾きづらかったね」や「鍵盤重いなー」など、笑いながら仲間と語り合うのだろう。そこからまた会話に花が咲く。
知らない誰かと繋がるためのピアノ。そういうものがあるのだと、初めて知る。いい悪いを超えて、これもひとつのピアノ本来の姿なのかもしれない。もしかしたらストリートピアノってそれもあるのかもしれないと少し反省。いや、やっぱあれはダメだ。反省なし。
「そっか……そうなんだ」
やっぱりピアノっていいなぁ、とサロメは再認識した。だが残念ながら、私が調律するなら「弾きづらかった」「鍵盤重い」など言わせない。違う感想で会話に花を、胡蝶蘭でも咲かせてみせる。
「期待しててください、最高の状態にしてみせます」
やることは変わらない。ピアノの調律。しかし、やる目的は明確になった。『弾いた人々が幸福になるピアノ』を完璧に仕上げる。それだけ。なにも変わらない。
「よろしくね! みんなに伝えなきゃ! 盛り上がるわよきっと!」
最後まで早口で女性はそそくさとどこかへ行った。きっとSNSで拡散しようとしているのだろう。責任重大だな、とサロメはため息をついた。
「……盛り上がるのはいいんだけど、逆に来なくなるお客さんとか大丈夫かしらね」
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