第43話
屋根と鍵盤蓋を開け、鍵盤とアクションを引き出す。いつものルーティン。何度繰り返しても、この瞬間は緊張する。浅い呼吸をサロメは何度か繰り返した。
「じゃ、やりますか」
まずは掃除機でホコリを取り除き、バランスキーピン、フロントキーピンの掃除。ここが汚れていると鍵盤の動きが悪くなる。終わったらグリッサンドで鍵盤の遊びを確かめつつ、適度に修正。もう何度繰り返したかわからない、目を瞑っていてもできそうなほどだ。とはいえ、ピアノ一台一台違い、同じものなどない。一音一音集中する。
(なにも問題はない……はずなのに、胸騒ぎがする……)
なにかが違う。いつもとなにかが。このピアノは間違いなく高級品ではあるが、今までにはもっと高級なものも調律したことあるし、クセの強いものもある。サロメは雑念を振り払い、ピアノと自分だけの世界に戻る。
「弾くのに支障がある程度の共鳴雑音は取り除きたいところ。それ以外は味よ、味」
全ての共鳴雑音は取り除けない。できる限りでしかない。だが。
(なんか、いやに疲れる。一個取り除いてもまた新しい雑音が出てくる。イタチごっこじゃん)
周波数を合わせるチューナーのような、便利な道具は共鳴雑音発見にはない。ただひたすら見つけて直すしかないのだ。ただでさえ多い共鳴元。合わさって不快になる。
(気持ち悪い……)
耳が異常なまでに鋭敏なサロメにとって、拷問のような空間だ。普通の人には聞こえないような小さな音まで、その鼓膜と三半規管に襲い掛かる。車酔いに近い状態だ。所有者の自宅に赴いて行う調律でも、当然どこの家も共鳴雑音は存在する。だが、この場所は台風のように雑音が暴れ回っている。
「あーもう! さっさと整調終わらせよう!」
塞ぎ込んでいると気が狂いそうになるため、誰もいない店内をいいことに、サロメは声を出してストレス発散する。雑音を自分の声でかき消す。完全に消えるわけではないが、こっちのほうがまだ被害は少ない。
「あー、お腹空いたなー! 今日はどこ寄ってから帰ろうかなー!
「しっかし、さすがグロトリアンというかなんというか、古いけどいいピアノだわー!」
「『ドイツでピアノが十あって九、響板が割れたとする。残ったひとつはグロトリアンだ』って名言があるくらいだものね! 耐久性は他のピアノを超えてるわー!」
と、はたから見ればすでに発狂しているかのようだが、本人は至って真面目。人目がないからこそできる。
「『シンギングトーン』、出来上がりが楽しみね。まぁ、ここで鳴るのかわかんないけど」
ひとまずの終わりが見えてきて気が楽になったのか、周りを見る余裕が出てきた。サロメは近くにあった本をペラペラめくって読み出す。うん、フランス語じゃない。読めない。
「とりあえず整調はこんなもんね。休憩ー」
厨房でクロックムッシュを温め直す。ついでにエスプレッソまでいただく。静まり返った店内でオーブンの音とエスプレッソマシーンの音がする。不思議な光景だ。ついでに、誰かが食べようと思ってたのかパリブレストも発見。
「まぁ、後で謝ればいいか」
迷うことなく誰かのお菓子をサロメはいただく。店内にしまわれたイスをひとつ外に持ち出し、パリの街を眺めながらお腹を満たす。無料だとなお美味しく感じられる。先ほどまでの雑音とは違う街の喧騒を感じながら、何も考えずただ揺蕩う。今頃マルセイユとかはどうなってるのか、少し気になる。
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