第40話

 そっちの困ったこと? と訝しみながらも、マチューはカフェの厨房に入っていった。


 その背中を見送りながら、カフェがあったとは。来てよかった、とサロメは頷いた。


「とりあえず今日はこれくらいにして、来週からだな」


 数分後に食事を手にマチューが戻ってきた。感謝し、肌寒いが、外のテラス席でサンドイッチとカフェオレをいただくことにする。ひんやりした風を浴びたい、今のサロメの気分だった。


 赤白青の電球が店の外の街路樹に吊るされ、遠くまで均一にトリコロールカラーで夜の街を染め上げる。目の前の石畳の道には、足早に帰宅を急ぐ人々、自転車で颯爽と駆け抜けるライダー。もう少しスピードを落とさないと危ないんじゃないかと、カフェオレで体を中から温めながら、サロメはまったりと眺めていた。


 時刻は一九時。そろそろ店も隣のパスタ屋も閉まる。ひとり、パリという大都会で取り残されたような感覚。なにもない、ただひとりの一六歳の少女として、今ここに存在しているだけの抜け殻。だが、そんな感覚がサロメは好きだった。


「きれいだな……」


 昼白色の街灯と三色の電球が不自然に混じり合い、夜のパリを照らし続ける。買い物を終えたのだろう、客が買った紙袋の中を見ながら出てきた。買った本に、お店のスタンプを押してくれるサービスがある。これを目当てに来る観光客も多い。


 きっと誰かに自慢するのかな、あたしだったら誰に自慢をするだろう。ファニー……は、自分で聞いたことでも興味なければ途端にどうでもよくなる。あとは……誰だろう。誰もいない。あたしには誰もいないのだろう。


「そろそろ閉めるよ。まだ食べる?」


 外のワゴンにもセール品の古書が山積みになっており、夜間はそれを店内にしまう。こういった安売りすら絵になってしまう、そういう魅力が古書店とパリの組み合わせにはある。


「持って帰ります」


「食べるのね……」


 誰もいなくなった店内に戻り、後片付けをし、ガラガラとキャリーケースを転がす。途中、誰かのキスマークが額縁に入れられて飾られている。知らない女優だ。だがこの店で貼り出しているということは、あたしが知らないだけできっと有名なんだろう。テレビも観ないし、最近流行りの歌も知らない。今の一六歳は食べること以外に何にこだわりを持っているんだろうか。


 ガランとした店内で、遠くにピアノが見える。きっとあたしはこの楽器に生かせてもらっている。ピアノの作者はバルトロメオ・クリストフォリ。そのピアノの起源はチェンバロ。チェンバロの作者は不明。何百年か前の名前の知らない誰か。ありがとう。ここでしかあたしは生きていけない。


 一度店内に入ってからまた外に出ると余計に寒いな、とサロメは身震いした。マチューから紙袋を受け取る。紙袋から伝わる熱が嬉しい。


「また水曜日午後に来ます。夜食ありがとうございます。美味しいです」


「うん、待ってるね。よろしくお願いします」


 手を振って、帰路に着く。一度アトリエに帰るか悩むが、ソファで寝てしまったら次の日の学校が大変だ。と計算してやっぱり寮へサロメは直帰することにした。キャリーケースは邪魔になるが、まぁ、いいか。


「さて帰るか。あ、抹茶のロールケーキ買って帰ろうと思ったのに。閉まってるよなーこの時間じゃ」

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