第33話

《では聴いてください》


(……ん? あれ、なんだ、これ)


 弾いてすぐに気づく。音が濁っている。


(なんだ、これ、音が狂ってきてる!)


 ふらついた、安定しない音色。不協和音にも聴こえてくる。


(なんで!? さっき弾いたときは、あんなに……まだ、たった三〇分だぞ!? いくらなんでも、こんなに、まさか調律に細工が……いや、最高の弾き心地だったのは間違いない……なぜ!?)


 遠くから、群衆でごった返すパスカルの演奏を聴いているスーツ姿の女がいる。調律を施したサロメだ。冷ややかな視線を投げかけている。


「ピアノの感受性を舐めすぎ。非常に繊細な芸術品なの。一気にピアノの温度が下がれば、弦は即座に縮み、張りは強くなり、ピッチが高くなる。温度と湿度がある程度一定でないと、ピアノは最高の状態からでも一気に崩れる。勉強しとけっての」


(もう少し、もう少しで終わる……耐えろ、耐えろ、僕!)


「こうなることを予想して少しピッチを低めにしといたけど、また温度が戻れば、それなりにいい調律に戻るはず。しかし、貸し出した店も、屋内だし問題ないとでも思ってたのかしらね。甘いっつーの。せっかくのいいピアノが」


 興味をなくしたサロメはそそくさとパリ北駅から、逃げるように退散する。スタッフに見つかったら面倒だ。もう仕事は十分したし、問題はないだろう。お店の名前は売れた、調律の技術は披露できた、アイツに痛い目を見せた。


「はぁ、はぁ!」


 写真を撮ったりしていた観衆達も「なんか微妙?」と、首を傾げて帰路につく。それほどまでにピッチの崩れは、ピアノに明るくない一般人が聴いてもわかるのだ。


(もう……二度と、こんな寒い外で弾かない……!)


「わかってたけど、エラール『No.0』。これも違う。ま、レアなピアノに触れさせてくれてありがと」


 一日に七〇万人が利用すると言われるパリ北駅。その群衆のなかにサロメは消えていった。

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