第16話

 すっかり夜も遅くなり、閉店となったアトリエ・ルピアノだが奥に灯りはついている。様々なピアノが店内に並び、販売もされているため、防犯もバッチリ。そんなお店の扉がカードキーで承認され開いた。入ってきたのはサロメである。


「おかえり。大掛かりな仕事が入ったな」


 奥から老いてはいるが、元気はつらつとした男性が、手を上げて労った。社長のルノーである。


「ただいま。ただ低音弦の一本うなりはあたしじゃどうにもならない。注文するしかないわね。何度か調律に行かなきゃ」


 台所のエスプレッソマシーンを稼働させ、ボケーっと出来上がるまでマグカップを置いてサロメは待つ。疲れた。まず最初になんであんなに走ったのか。あれが一番無駄だった、と今日一日を朧げに振り返っていると、エスプレッソ完成。苦い。


「わかった。一度行こう」


 と、ルノーもメラニー宅へ行くことを決めた。


 気のない返事をして、一番近くのピアノのイスにサロメは座った。マグカップから立ち上る湯気と香りに包まれながら、音を思い出す。


「……で、どうだった?」


 見積もり書に目をやりながら、ルノーはサロメに問う。


 感情を失ってしまったかのように、機械的な声色でサロメは返した。


「煌びやかで深みのある音。近いとは思うんだけど……違う。ガヴォーのモデルT、これじゃない」


 二〇秒ほど沈黙。サーっとなにか男が書き込む音だけが静寂に響く。


「そうか……また次だな」


 ルノーが言う。


 次。次はどんなピアノだろうか。どんなピアノに出会えるのだろうか。


 なにも答えず、サロメはエスプレッソを飲み干した。

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