第12話
「それじゃあラスト!」
「ま、まだあるの?」
心配そうに、メラニーはランベールに解説を求める。
「次で最後です。『整音』と呼ばれる調整になります。弦を叩くハンマーの調整です」
「あの卵みたいな部分?」
「はい、フェルトでできているのですが、これも繊細な調整が必要です」
羊の毛でできた弾力性のあるハンマー。かつては羊の毛はやめようという運動も起きたが、結局は音の質の悪化により、羊の毛に戻ってきたという過去がある。ベートーヴェンの時代は鹿の皮だった。
「大雑把に見て、ウチのはどんな状況なの?」
「それは……」
「めっちゃくちゃだねー。硬さも当たり方もバラバラ。これじゃこのピアノ本来のパワーは出せない」
ひとつアクションごと取り出し、サロメはハンマー部分を指で弾く。明らかに固く、これでは無機質な音になる。
「ガヴォーはフランス三大ピアノに数えられるくらいの名器だからね。シャンゼリゼもこのままじゃ相当廃れた通りになっちゃう」
フェルトピッカーを刺し、弾力を取り戻す。また取り付け、鍵盤を叩き、弦との接触を見る。
「キミは……こんなもんじゃない」
そう小さくこぼすと、アクションメカニックをピアノから引き出し、板ヤスリでハンマー微量に削る。こちらも本来は、弦にアクションを当てながら、弦を指で弾き、音の伸びを見て、ハンマーと弦の当たり具合を調整するのだが、先程もう一度グリッサンドしてみて目星がついていた部分を削って終わる。そしてピッカーで柔らかさも足す。
「終わり! 一時間半! 最高記録!」
自分で自分に拍手し、作業終了。よほどカロリーを消費したのか、サロメはお茶菓子を頬張り出す。取られないよう、ハムスターのように詰めていく。
しかし、実力を認めているはずのランベールは、不思議な顔をして納得がいっていない様子が見える。
(終わり……? こいつにしては、低音域の調律や整音をすっ飛ばしていないか?)
ハンマーアクションと鍵盤を戻し、体裁は元のピアノに戻る。ガヴォーの完成だ。
「おばあちゃん、オー・シャンゼリゼ弾いてみて」
バリバリとお菓子を噛み砕く音と共に、サロメはメラニーに演奏を要求する。
(オー・シャンゼリゼ……低音域……そういうことか……!)
ランベールがサロメの方を向くと、全てを見透かしたかのように、サロメは悪い顔をしてニヤリと笑った。気づくの遅いわよ、と。
(この……詐欺師が!)
口には出さない。だが、こいつはやっぱり危ないヤツだと再認識した。
「すっごいよ」
深呼吸をし、ゆっくりとメラニーは指を走らせる。
「あぁ……」
まるで吸い付くような指のタッチに、煌びやかな音の響き、澄んだ空のような音の広がり。一気にシャンゼリゼ通りに人が押し寄せてきたような、明快でキャッチャーな音の粒。自分の腕前を錯覚してしまうほどに伸び、同じピアノなのかと疑ってしまう。
「私が今まで弾いてたのはなんだったの……」
感嘆の息を漏らしながら、メラニーは弾き続ける。鼻歌混じりに指が勝手に動く。軽くもあり、弾き応えもある。
弾き終わると、十五秒ほど余韻に浸ったあと、鍵盤を優しく撫でる。
「……あなたのその声、私のピアノもかき消してしまうくらい、大きく歌う……あなたの声が」
鼻をすする音が聞こえる。
「ずっと、好きでした……」
その姿を見て、サロメは満足した。お菓子も食べたし紅茶も飲んだ。ピアノも最高。
「めでたしめでたし」
少しの間、二人きりにさせてあげよう。そう、サロメとランベールが離れようとすると、またしても、
「好きだった……好きだったのに……」
『怒り』が込み上げてくるらしい。
「なんで若い女に貢いでんじゃコラぁ! 案の定捨てられて、結局泣きついてきたけど知るか!」
バタン! と鍵盤蓋を閉めて、メラニーは突っ伏してしまった。
また地雷を踏んだか、と二人は罪をなすりつけ合う。
「あー……あとは任せるわ。そういう役割で来てんでしょ」
「逃げるなよ。最後まで責任持て」
至近距離で睨み合い、バチバチと二人は火花を立てている。
ゆっくりとメラニーは立ち上がり、正面に立った。
「ごめんなさいね。それでお見積りの金額ね、お支払いします。このピアノをよろしくお願いします」
激怒していたのが嘘のように、真っ直ぐ前を向いている。真剣な眼差しだ。
嬉しいはずなのだが、しかしランベールはバツが悪そうに、言葉を返す。
「いえ、お客様。実はですね」
「ごめん、おばあちゃん。まだそのピアノの調律は終わってない」
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