第11話
「……前にやってくれた調律師さんとは、ずいぶん違うわ」
音叉を取り出したサロメを見ながら、二人は会話を続ける。
太ももに音叉を叩き、震わせる。基音は世界基準の四四〇ヘルツ。
ロングミュートという消音のフェルト持ち出し、弦に蛇腹のようにはめていく。鍵盤はニから三本の弦を叩くことで音が出る。なぜ一本ではないかというと、単純に音が小さいから、二倍三倍にするのだ。低音域は、そこまで大きく出す必要はないので二本、中音域以上は三本となっている。
まずは割り振りをする。中央の『ラ』の音を四四〇ヘルツの基音とする。そこを中心に、一オクターブを整える。フェルトで三本のうち右と左の弦の音を消す。中央の弦を張るピンにハンマーを取り付ける。
体が溶けてピアノと一体になる感覚。境目がなくなり、融合して新しい生き物として誕生する。
サロメにとって、調律に入る瞬間はそのように感じる。一音、一セントの狂いも許さない。
足で音を感じろ、肘で音を、背骨で、眼球で、血管、心臓で。細胞のひとつひとつが音を取り込む。
「ご理解いただけましたか? このレベルに達するまでに何百、何千というピアノに触れてきています。技術にはしかるべき対価が必要だと我々は考えています」
なんとなく、わかってきた気がする。メラニーは、プロフェッショナルというものを今感じている。ピアノといえばピアニスト、もしくは指揮者や演奏者などがスポットが当たることが多い。だが、そのためには裏で支え続けるもの達が必ずいるのだ。主役は人の数だけある。
前のめりに作業を見つめるメラニーは、ハッと気づく。
「あらやだ、お紅茶が空ね。おかわりはいるかしら?」
サロメは、ダーン、と鍵盤を二つ同時に叩きながらハンマーを調整する。
「?」
ピンを変えてまた二つ叩きながらハンマーを調整。
サロメちゃん? と近づこうとするメラニーをランベールは止める。
「もうピアノの音以外聴こえていません。仕上がりまでもう少しかかりますので、どうぞおかけになってお待ちください」
そう言ってソファーへの着席を提案する。ピアノとサロメだけになった世界。それを見ながらランベールは唇を噛む。
(まだ俺は、ここまでには達せていないか……)
割り振りを終え、調律に入っていくサロメ、どこか悔しそうな目でその背中をランベールは見つめる。ランちゃんもどうぞ、とメラニーはソファーに促す。自分は立って見守りますと伝えたが、なんとなく居心地が悪くなり、言葉に甘える。
「本当に孫がいたらこんな感じだったのかしらね」
作業をもくもくと続けるサロメの横顔を見ながら、メラニーは優しく微笑む。そこには先ほどまでの、憎しみの炎は宿っていない。自分のピアノのために汗をかく、そんな六〇以上も年の離れた少女の一生懸命な姿を見ていたら、詐欺師などと騒いでいた自分がバカらしくなってきていた。
「さっきはごめんなさいね」
「いえ、とんでもないです」
そこからしばらくの間、無言でサロメを見つめていた二人だが、メラニーが違和感を感じ出す。最初は小さく、だがどんどんと大きくなり、ついにランベールに問う。
「……でも、なんかおかしくないかしら。鳴らしながらあのハンマーを回したり戻したりして、弦の張り具合を変えるのよね?」
「はい、それで三本同時に叩いた時に、うなりが出ないように揃えることが調律になります。それを二三〇本繰り返す」
「そうよね、でも……」と、違和感の正体にメラニーは気づく。
「見たことあるけど……あの子、一回鳴らしたらもう次にいってるじゃない。何度も鳴らして微調整するものじゃないのかしら」
調律は、音を出す、調整する、音を出す、調整する、を繰り返す。それでピンの位置を決める。ゴルフでいう、『スイートスポット』からズレないようゆっくりと。そのハマる瞬間を追求する。
しかしサロメは先に回し、『確認のためだけに』音を鳴らす。彼女曰く、「一点が光って見える」とのこと。スイートスポットのさらに〇・〇一ミリ以下の調整。
「それでもオクターブは……完璧です。問題ありません」
「だいたいいいかな。あ、おばあちゃん紅茶入れてくれたの。ありがと!」
こちらの世界に戻ってきたサロメは、紅茶を一気に飲み干す。すっかり冷めてしまっているが、熱いよりも冷たいほうが今の彼女には心地いい。
目を瞑り、紅茶が体全体に行き渡る。血管に乗って全身に巡るような。よく見ると、体から湯気が立ち上りそうなほど、体が火照っている。日本の『将棋』のプロなどは、頭脳を使い過ぎて一回の対局で数キロ痩せるとまで言われている。それほどまでにカロリーを、熱量を消費する。
目をカッと見開きサロメがまたもスイッチを入れる。
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