第6話

 ピアニスト。


 その言葉は今の自分に当てはめていいものなのか。


 そもそもなんなのだこの人は。今日が初対面じゃないのか。なぜそんな人にいきなりこんなことを言われなくてはならないのだ。この人は自分のなんなのだ。


 ベルの視線が七色のバラのアレンジに移るのを認め、ベアトリスはそのまま続ける。


「まず癖として、持て余した指はそこにありもしない鍵盤を叩く。お前の右手が先ほど奏でたのは、シューマンの『クライスレリアーナ第六曲』か。なんとまぁ、おどろおどろしい曲を弾くものだ」


「偶然そう見えただけじゃないんですか?」


 弱々しく噛み付く姿勢をあらわにするベルだが、噛み付きが甘いと見るや、痛くも痒くもないとベアトリスは笑って引き離す。


「いや、骨格筋の発達具合と指の曲がる角度。それらから推測して、かなりの練習を積んできたのだろうな。違うか?」


「……」


「お前は必死に隠そうとしてるが、わかるやつならわかる。筋肉まで隠しきれないからな。素の状態の手の開き具合も大いに語ってるぞ。それに――」


「姉さん、もういいよ。後は……僕がやる」


 攻め立てるベアトリスを語気荒くシャルルが止めに入る。自分自身見ていられなくなったのもあるが、それ以上の言及はもはや意味をなさない、と打ち切ったのだ。


 だが、正確には攻め立てているわけではない。花を作るために重要な事、それは『お客様を知ること』。それは時として技術よりも大事であり、基本でもある。


 しかしベル本人はそれを隠そうとしていた。理由はなにか? 粗方予想はつく。ならばやることはなにか? それに見合った花を仕立てるための情報を得る。


 ベアトリスは容赦なく抉る。なぜそうしたのか? それが一番手っ取り早いから。それは正しいやり方なのか? おそらく違うだろう、しかし弟の作るアレンジはそんなことも吹き飛ばす癒しを与えると、そう確信しているからした。


「そうか? それならバトンタッチだ」


 下がったままのシャルルの小さな掌に、ベアトリスは自分の小さな掌を合わせる。ペシッと乾いた非楽音をたて、鍛え上げられたベルの耳を目指し、それが忌々しく残る。


「……申し訳ありません、ベル先輩。姉さんも悪気はたぶん……ないんだと思います。お客様を知ることこそが、この仕事ではなによりも重点を置くべきところなんです。ですが……それでもお詫びさせてください」


 自分でもわかっていることを他人に突かれること、それは時として心を折りそうなほどに食い込む場合がある。


 シャルルは深く頭を下げ、姉の業を度を越しているのではないかとすら思えるほど気持ちの入った謝罪をする。


 しかしベルはなんの反応も示さない。聞こえているかも不明である。


 肩を震わせる、自分よりも年上の少女の顔が、シャルルにはとても淋しそうに見えた。この細い肩を守ってあげたいと、顔を上げて視認し、心からそう思う。


 花屋で働く者に、いや、接客業において、お客様とは一期一会。だからこそそれを大事に、そして花を受け取った全ての方に、ほんの少しの幸福を得て欲しい。それがシャルルの根底にある。


 シャルルはベアトリスが先ほど作った、この場においては正反対のビタミンアレンジを優しく拾い上げ、悲しげな瞳を向ける。数秒おいて、言葉を紡いだ。


「もちろん、拒否権もあります。深く知るということはつまり、心を深く抉ることと同意義です。その痛みは、場合によっては一生残る傷になる」


 ベルのだらりと垂れた腕の先の指が、鍵盤を探すように暗中模索する。薄くリップを引いた下唇は力強く噛まれ、血が滲んでいた。それは決意の重さと密接にある。軽い気持ちであれば自身への痛みはそれと同様に軽く弱い。


 沈黙が語るより多くの意味を内包し、歌うより深く心に突き刺さる。数秒とも数分ともとれる重苦さ。今度は時計の針が耳に響く。花の香りが普段よりも強く感じられる。


「……シャルル君も、気付いてたの?」


 久しぶりの時計以外の音。やけにクリアに通るベルの声。周りにはそれを阻害する障壁が少ない。


 ちらりとベアトリスと視線を交わし、シャルルはアイコンタクトを受け取る。そのサインの意味は「言え」というもの。些細なことすら神経質に考えてしまい、一度躊躇い惑うが、覚悟を決めて言うことにした。


「なんとなく、でしたが。僕は姉さんほど音楽に詳しいわけではありませんので」


「そう、なんだ……」


 この子もそれを言わなかっただけか。爪までしっかりと手入れされたベルの右手が太腿で鍵盤を弾く。二章節分弾き終えたところで微笑。


「帽子を掻き回したときだね。ほわーんとしてそうで、案外抜け目ないんだ」


「ショパンの『エチュード第七番』か。そうそう弾けるやつもいないだろう」


「右手の動きだけで曲名がわかる人もそうそういませんけどね」


 ベアトリスの本音の読めない冷めた感嘆に、皮肉で返すベル。少しずつ笑顔は戻っているが、奥に存在する雲だけは晴らせていない。

 それは自分も、そしてこの姉弟も気付いている。その瞳で店内の花を見やる。入店した時よりも、花の輝きが鈍く見える。


 花は見る者によって、そして見るときの内なる情想によって千差万別である。精神を病んだ者が比較的暗く重い音楽を好むように、その精神状態に合わせて人間の脳波は好みを変える。その例に漏れず、花はその顔を変え、その者に合った変化を見せる。


 それは唐突だった。

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