第2話
「この辺でいいはずなんだけど……ってここ、さっきも通った気がするし」
夕飯の買い物客や仕事終わりのサラリーマン、デートにいそしむ若者達。つまり、様々な客層のニーズに応えるためにある商業区画のパリ八区。
そこを紙に書いた地図を確認しながらたどたどしく、一人の少女が歩いていた。
長い時間、その白く細い指で握られていた紙は折り目が無数につき、手汗で軽く湿っている。
すでに二往復は区画内を歩き回っており、少女の足は疲れから棒のように感じられる。へばりつくような喉を潤したいが、自動販売機の絶対数が少ないため、街中で見かけることはほぼない。
「一〇月なのに……まだ暑い」
平均して最高気温一五度程度であるはずの一〇月。そんな予想もなんのその、日差しもここ最近では特に強く、汗が次から次へと吹き出る高温快晴。日が沈む気配を見せている今の時間帯ですら、日陰を影踏みのように求めたくなる。
そしてあまり降りることない駅で見つからない店。この年になって迷子か、と少女の精神にもダメージがくる。
「なんでここまでしてんだろあたし……バッカみたい」
独語しつつ、地図を持っていない右の掌を軽く開いて凝視する。握る、開くを繰り返すと、口惜しそうに下唇を噛んだ。
もう止めると心では決めつつも、長年体に染み付いた癖だけはそう簡単に抜けきるものではない。ここ数日、その癖を知らず知らずのうちにやっている自分に嫌気がさす。それと同時に、名残惜しさのような寂しさが胸を苦しめる。止めて失って初めて気付く、本当の気持ちというものがある。今まさにそれをひしひしと体全体で感じていた。
ベルが探しているのは一軒の店だった。その店の名は〈ソノラ〉というらしい。今の自分自身の揺らぐ気持ちを見かねた、彼女の友人から勧められた店だった。なんの店なのかは、訊いても教えてくれなかった。ただ一言「今のお前にはたぶんピッタリだ」とだけ言われたのだ。
彼女は怪しい店ではないとは言い張ったが、それでも溢れ出る不安をベルは拭いきれないでいた。地図がかなり適当なので、見つけるのも一苦労。今いるあたりで『この辺』と書いてあった。
そして、道行く人々に訊いてみればすぐにわかるのだろうが、ベルが敢えてそれをしないのは、内なる葛藤からだった。もしその店に行ってしまえば、もう止めると決めた信念が揺らいでしまうかもしれない。「お店が見つからなかった」という言い訳を作りたいのかもしれない。
そんな彼女の内心など知る由もないパリジェンヌ達は、コンコルド広場から凱旋門の間の歩みを止めない。
行き交う道の真ん中で力なく立ちつくすベルの心に浮かぶ空虚。
ふと、世界にひとりぼっちになった気がして、目の端に涙が浮かんできた。それが頬に流れ落ちる前に手の甲で掬う。
「もう、いいかな……探したよね、うん。一時間探して見つからないんだから、よく頑張ったあたし――」
「あの、なにをしてらっしゃるのですか、ベル先輩」
紹介してくれた友人に対する、そして自分に対する言い訳をベルが考えていると、最近聞いた気がする声が、これまた最近聞いた方向から耳に飛び込んできた。潤んだ瞳で振り向くと、最近見た人物が二メートルほど先から怪訝そうに見つめている。シャルル、彼はそう名乗ったはず。
「シャルル……君?」
「? はい?」
「ジャルルぐーん!」
「わ、あの、その、眼鏡が壊れますってば!」
その二メートルを人知を超えたスピードと濁点だらけの叫びでせまられ、シャルルはベルの抱擁を公衆の面前で許した。微妙にあるらしい胸に当たった、プラスチック製の眼鏡のフレームが彼の目元に食い込む。痛みよりも恥ずかしさで、見る間に顔が赤らむが、ベルには見えないし気にもしない。
行き交うパリジェンヌ達も、ちらりと一瞥した程度で通り過ぎていくため、誰も助け舟を出す気配がない。
一○秒ほどの再充電ののち、磁力を失ったかのように二人は、というよりもベルから飛びついてきたときとは正反対に、ゆっくりじっくりと離れる。
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