Sonora 【ソノラ】
@jundesukedomo
オーベルテューレ
第1話
「あの、信号変わりましたよ」
「――え?」
背後からの声に反応し、少女がまだあどけなさを残した顔を上げると、その瞳には緑色の光が流れ込んでくる。人間が歩く動作をした形の緑。
それが歩行者の進行を許すサインだと認識するのに、少女は約五秒要した。そして横から自分を追い越して足早に歩く人々。
雑踏。
認識したものの、その制服のスカートからすらりと伸びた足は、一向に前に進む気配を見せずに立ち尽くしていた。地に根を張り巡らせたつもりはなかったが、そう考えてしまうほどに重い。
自分は一体どのくらいこうしていたのだろう、そう考え、また数秒の時が止まる。呼吸音がいやに大きく、行き交う人々の声にかき消されず、普段の倍以上の重低音で耳まで泳ぐ。
瞳の虹彩から得る情報によると、信号がまた点滅している。もう少しすると赤く変わるそのサイクル。それが脳に刺激として与えられ、少女はハッと我に返ると、勢いよく背後を振り向いた。
「すいません、ぼーっとしちゃって……て?」
視線は、数メートル先の、よく磨かれたショウウインドウ越しにポーズをとるマネキンを捉えた。今年の流行を先取りしたのか、前衛的な服に身を包み、感情を感じられない表情で佇んでいる。最近の人形はここまで、とそこまで考えて否定した。いやいや、あれは喋らない人型だ、と。
「あの、こっちです」
薄く自己主張の少ない少女の胸元よりさらに下、そこから変声期を迎えていない特有の高さを持った声。頭を三○度ほど重力に任せると、そこには不思議そうに、大きな眼鏡の奥で垂れ気味の目を丸めた少年。
成長すると見越して頼んだが、まだその域には達していない大きさの濃紺ブレザーと、ちょこんと頭に乗っかったこれまた同色の帽子。白いショーツ。そして、リュックタイプのカルターブル。
少女はこの制服を知っていた。知っていたというよりは、自分もかつて着ていた、と表現する方が正しい。性別は違うが、それでも高等部の学生となった今でも、よく見かけることに変わりはない。自分の着ていた数年前の妄想を心の隅にしまい、少女は笑顔を作った。
「ん、ありがと。その制服、初等部よね? ちょっとぶかぶかだけど……」
そのまま軽く屈み、帽子越しに少年の頭を撫でた。少年が頬を赤らめ俯くその姿に、少女は思わず抱きついてしまいたくなる衝動を抑える。一人っ子で育ったがゆえに、弟が欲しいと母親に駄々をこねた。もしいたらこんな風に接しよう、と計画まで立てたりもしていたのだった。
「はい、CM2になったばかりです。そちらの制服は……高等部のですよね。僕の姉も着ていましたし、よく高等部の方々にはお世話になっています」
少女の眉根がピクリと揺れた。ということは十一歳くらい……それにしては身長が……と思考するが、それを遮って少年に笑んだ。
「お姉さん、いるんだ」
「それはもうズボラな姉なんですけどね。本人に聞かれたら怒られそうです」
くすり、と少年が笑う。
二人が通うモンフェルナ学園は初・中・高等部のエスカレーター式であり、合同で行う行事も多く、顔を合わせる機会も当然多いことで上下の結びつきが強い。特に初等部は中等部や高等部の生徒に対し、理想の兄や姉のような親近感を持つこともよくある。そういった関係が、初対面の気負いや躊躇いを忘れさせるのだ。
「そういえば、どこか具合が悪いのですか?」
「え?」
少女は声を上げつつ少年の顔を見つめた。
「先ほど、立ったまま意識が飛んでいるようでしたので。もし体調がすぐれないようでしたら、どこかでお休みになられた方がよろしいのでは」
心配そうに、眼鏡越しの上目遣いで見上げる少年の瞳にドキリとしつつも、顔を背け少女は曖昧に応じる。
「うん、あのね……」
しかし言いよどみ、少女はその細い首を横に振った。
「ううん、やっぱりやめとく。でも気分が悪いとかじゃないから心配しないで。ごめんね?」
「あ、いやその、僕も無理に訊くつもりはありません。話したくないことを無理矢理話させるわけにもいきませんから」
言い辛そうに言葉を探す年上の女性に、少年はあえてそのようなことはさせない。小さいながらも、紳士的な心構えはお国柄で身についていた。
その少年の、謝らせてしまったことに慌てふためく姿も、どこか少女には小動物のように可愛らしく見えた。思い詰めていた嫌な気を振り払えたように胸がすく。もう一度笑顔を作って、無理矢理にでも気持ちをプラスへ持っていくことに決めた。
「? 先ぱ――わあっ!」
帽子越しに今度は、くしゃくしゃと力強く、少年の淡く光るブロンドの髪を少女は掻き毟った。
慌てふためく少年の小さな頭は小刻みに揺れ、大きな眼鏡もせわしなく揺れる。
「充電完了。あ、青に変わるみたい」
車用の信号はオレンジ色で、二人の会話中にも黙々と仕事をこなし、そして先ほどと同じ状況を作り上げる。
一斉に人々は歩き出し、それを確認すると少女はなにかを決心したような、力強い眼差しを進行方向に、そしてすぐに優しい微笑を少年に向ける。
「あたしはベル。君は?」
少年は乱れた髪を整え帽子を被り直し、眼鏡を自分のベストポジションに置くと、微笑みを返した。
「シャルル・ブーケと申します、ベル先輩」
「シャルル君、か。次は指名させてもらうね」
「なんの指名ですか……」
不平を意味する溜め息をつくシャルルをよそに、ベルは右手をゆっくりと持ち上げた。
その動きに対して、脊髄が危険を察知し、反射でシャルルは両手で素早く帽子を抑える。
「惜しい」
「だからなにがですか!」
ベルのニヤついた頬を見、髪同様に柔らかそうな頬を膨らませたシャルルはそっぽを向いた。
それと同時に歩行者用の信号機に緑色の光が灯る。ゴーサインを確認し、
「それじゃあたし、急ぐから。またね」
ベルは返事を待たずに、ハニーブロンドの髪をなびかせ風のように去っていく。人ごみの中を突き進んで行くその足取りは憑き物が落ちたように軽い。
少しずつ小さくなるその背中を見つめ、自分にだけ聞こえるようにシャルルはそっと呟いた。
「カルミア……いや、ブーゲンビリアやラークスパーも合いそう。デンファレかな? 姉さんならどんなのを選ぶんだろ」
その想念は尽きない。
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