day 33


 夏の朝は早い。五時半頃には日がのぼりはじめ、そのうち辺りが明るくなってくる。まだ日が上りきっていないこんな時間から活動を始めるのは、熱心に鳴いているセミくらいだ。翔はその音を聞き流しながら、暑い空気の塊の中に進んでいく。太陽に背を向けて、しかし時折後ろを振り向きながら、翔は走り続ける。

 

 前の方に錆びた校門が見える。陽光に照らされているそれは、いつもより赤く、遠目では燃え上がっているようにすら見えた。翔は、朝日が赤色の絵の具で黄土色を潰していくのがたまらなく好きで、それと同じくらい怖かった。毎日朝がやってきて去っていくのに、自分は何もしていない__そんな思いを振り払おうと頭をブンブンと振り回す。どれだけ走っても、翔は息があがらないないし、胸も熱くならない。そんな体質を活かして、翔はここに滞在している間は、毎朝走ろうと決めていたのだ。


 その日は久しぶりの晴れだった。ぼんやりと眺めた空は、いつもの黄土色に水色でアクセントをつけた色で、翔はなんとなくそこから目を離せずにいた。朝日が昇る時刻からずっと走り続けていたせいで、もう何時間も外に出ていることになるが、藍のいる学校には戻れずにいる。


 保健室のベッドにいる藍のことを思うと、翔は足元に夕暮れ時の影のようなものが伸びて来たように感じるのだった。白い布団が、彼女の病弱さを引き立ててしまう。目を覚まさない彼女の穏やかな寝顔に、勝手に何度も死というフィルターをかけてしまうくらいなら、と翔はそこから目を背けるようにして外に出たのだった。


 翔はそっと目を閉じて、深呼吸をした。夏の空気は、ピリッとした痛みとともに胸いっぱいに広がる。それは、獣の爪で治りかけの傷をやさしく掻かれたような痛みだった。疲労感ではない、蔦に引っかかっているような錯覚に陥りながら翔は重い足を学校まで運んだ。期待しない、期待しない、と自分に言い聞かせながらも、ココロの隅には彼女からの「お帰り」を期待している自分がいた。


 翔は、無数に降り注ぐ陽光につむじを向けたまま、校門をくぐった。頭の後ろをガシガシと音を立ててタオルで拭きながら、教室に戻って着替えてそれから何をしよう、と考えていると目の前にひとの影がさす。翔は顔をあげて相手の顔を見た。灰色の髪、白い肌、海よりも青い瞳。間違いなく、彼女だった。翔は、何故か初めて会った時のことを思い出した。


 長い灰色の髪、海の青色を散りばめたような瞳、日焼けとは無縁の真っ白な肌、それらは確かに美しかったが、まったくもって生を感じさせなかったが故に、翔が彼女のことを幽霊だと思った、あの時のことを。


 おそらく、あの時の翔は疲れていたのだ。夏は暑くて動けなかったし、冬は寒くて頭がまわらない。天気が良い時には一所懸命前に進んで、進んで、また進んで。ずっと独りで歩いてきて、これからどうしようと悩んでいるあの時間は、とても寂しいものだったのだ。


 翔は、ベンチの上に寝転んで、自分のココロの中の、小さな穴のことを思っていた。翔のからだが故障していて、それがのどを通って鼻を通って身体の外に出るように、翔の信念もまたダダ漏れになっていたように思えた。翔はその時、陽射しから自分を隠すようにして、額の上に腕を置いていた。体のあちこちがギシギシと音を立てて悲鳴をあげているようだった。どうにかしてこのベンチまでやってきたものの、指一本動かす力もない。視界の端に、建物や公園が映る。人間が地球を破壊しはじめた頃と、なんら変わりはない。そびえ立つビルと、人工的に植えたであろう植物や木がちらほら。そのほとんどは光合成がしづらいせいで元気のない藍色をしていたことを、翔は藍の目を見つめながら思っていた。


 あの時の、胸いっぱいに広がる苦い感情を、翔は思い出していた。「どこかで、きっと、誰かが生きている」という思いと、「いつか彼らに会いに行く」という強い信念は、嵐の中で砂の城のように崩れていった。そもそも、初めからそんなに強くはなかったのかも知れない、と翔は目を瞑って思っていたのだ。


 いつか。

 それは予想ではなく、確信だった。

 あるいは希望的観測というべきなのかも知れない。それは、口の中に入れれば溶けてしまうようなラムネよりはかたく、りんごをかじるよりは脆い、そんな思いだった。


 長い前髪がカクカクと揺れる。鼻の奥もそれと一緒に揺れた気がして翔は慌てて上半身を起こして鼻と口を触った。やはり、と思いながら翔は左の手のひらの黒い液体を見つめていた。何度もつばを飲み込む度に刺激臭が鼻孔についた。いくら口元を隠そうと、カラカラの喉にへばりついた不快感はごまかせない。翔は、それを必死に取り払おうと鼻を擦り続けていた。そしてそこではじめて、目の前に誰かが立っていたことに気がついたのだった。


 とても美しい彼女が、砂埃の舞う都市を背景に立っている。

 背中に針金を入れたようにまっすぐに立っている彼女は、射抜くような目線で翔をみつめる。翔はその幻想が少しずつここまで歩いて来るのをじっと見ていた。そのうち、その幻想が消えるだろうなぁと推測したのに、スピードが落ちないことを不思議に思った。彼女はそういう命令を受けたように、重い脚をしっかりあげて前に進んでいる。肩に食い込むカバンの感覚もいつの間にか分からなくなっている、そんな感じだったのに、彼女は決して進むのをやめなかった。やがて彼女が翔の前に立った。手を伸ばせば届く距離で、先に手を伸ばしたのは彼女の方だった。


 いつか、きっと、誰かに出会えるはずだ。

 いつか。

 そう信じて疑わなかった「いつか」が、いま目の前に立っている。


『君、ひとりなの』


 本当に久しぶりの、質問だった。

 彼女のいう「君」が翔自身のことであると知ると同時に、翔はその白い手を握った。

 彼女の右手に爪を立てるほど強く握る。彼女は瞬きもせず、翔の手を見下ろす。その目は真冬の海のように冷たかったことを、翔ははっきりと思い出していた。



 __あの時と違うのは、翔の方が彼女を見下ろす構図になっていることだけだ。



「おはよう」

 

 そこで、翔は永遠のように彼女を見つめていたことに気づく。なんとなく気まずくなって、タオルに顔をうずめた。ずっと首にかけていたタオルからは陽光の匂いがした。


 

 彼女の話し声は、ビー玉のように透き通っていて凛々しい。翔のものとは違って、そこにはダイヤモンドよりも細かい煌めきがあった。翔は、走りたくなる気持ちを抑えて、出来るだけ彼女を客観的にみようとして、ゆっくり近づいていく。そうすると、湖のような静けさをまとった彼女の目に翔の全身が映る。どうせタオルで顔を拭いても、汗らしきものは出てこないのに翔は何度も口元にタオルをあてた。ぎゅっ、ぎゅう。まるで小動物がマーキングをするように、何度でも。



「何時間寝ていたの、わたし」

「……今日で一週間だよ。」


 タオル越しの翔の声はくぐもって聞こえる。それでも翔はわざと腕を降ろさなかった。身体中から空気が抜けていくようなため息を、彼女に聞かせたくはなかったからだ。


「ねえ、翔。わたし、魔法使いになったの」


 ほら、といって彼女は両手をぱっと広げる。いつも通りの白い手だと思ったら、そこから緑色の生命が芽吹きはじめた。翔はその様子を網膜に焼き付けるように、じっと見ていた。いつの間にか、あの森の中にいた時と同じ目になっていた。


 藍の言っていた瞬間はすぐにやって来た。彼女の白い指の一本一本に見えない糸が結び付けられたみたいに、手を動かす度にそこに草色の絵の具がぼたぼたと落ちる。彼女は両手の手のひらを下にして地面にむけた。ゆっくりとそこに息を吹き込んでいくと、一面が緑色に染まる。地面に生えた草木が校舎を覆っていく。その根が壁を突き破った時、「あ」という小さな声を漏らして彼女は手を引っ込めた。その手は、いつもより健康的にすら見える。


 彼女は、自分の超能力を確かめるように、何度か手を握ったり、のばしたりしていた。翔は、何も話せずにただそれを見ていた。何を言えば良いのか、まったく分からなかった。



「とりあえず、学校に戻って、話し合おう。」


 翔は、目をその手に釘付けにしたまま呟いた。その言葉が声になっているのかさえ自信がなかった。





「何が聞きたいの」


 透き通った声が問う。

 翔は、教室の真ん中で地面に胡座をかいて座っていた。頭の中の、でこぼこした言葉たちを無理矢理ひとつの枠に入れてから、体重をぐっと前に移動させる。なんとなく、話したい内容は決まっていたのだ。


「まず、君の家出の件について話して、それから、これからどうするか話そう。できれば君のそれについても話したい」


 最後、翔は藍の手を顎でさした。まるでその手を恐れているかのような目だった。


「何でって、そりゃ気を悪くしたからね。あんたの態度に」


 同じく胡座をかいて座っている藍は、右、左、という具合で規則的に体を揺らしていた。落ち着きのない様子だが、それは同時に彼女が元気であることもしめす。


「ああ、僕が悪かったのか」


 翔は自分の言葉にどこか機械的な冷たさを感じた。本当に悪いと思っているわけじゃないが、場を乗り切るためだけに吐き出した言い訳は、余計に質量を増して翔の耳まで戻ってくる。


 昨日までは寝顔を眺めながら、起きたらこういうことを話そう、と考えていたはずなのに、今となっては何も言葉にならない。しかも翔は、それは純粋に彼女が起きられたことに感動しているから、ではないことを知っている。だから余計に、翔はもどかしい気持ちを抑えようと努めた。まるで農家が良い種子を選び取るかのように静かに神経を尖らせて、慎重に言葉を発したのだ。


「どうして君は、他の大陸に行きたいの。好奇心?それとも暇だから?」


「分からないけど、行きたいの。だって、そうしなきゃいけない気がするの、私」


 ふうぅ

 からだの中の空気を全部吐き出すかのように長いため息をついた翔は、手を後ろについて再び彼女から距離をとった。黄土色の目は瞼の後ろで、思考の海深くまで沈めておく。そうでもしないと、「は?」と口に出してしまいそうだった。


「……もっと論理的に話してくれないか。例えば、僕の話したことを聞いて自分も行ってみたいと思った、とか。そういう甘い考えじゃなくて、僕を納得させるほどには説明してほしいんだ」

「確かにそれもあるかも知れないけど、もっと違うの。なんというか、わたしとこの地球が繋がっているように感じられるというかぁ……」


 彼女はまるで小動物が威嚇するかのように、ぐぐっと自分の両手を丸めた。


 ああ、もう

 さっきまで思っていたことを自分で覆すところだった。翔はガシガシと音を立てて強めに後ろ頭を擦る。夢ばかり語る彼女と話していると本当に腹が立ってくるのだ。翔は、自分の胸下辺りでなにかがフツフツと湧いてきて、しばらくしたらそれが冷めて滝のように下に向かって勢いよく流れるのを感じた。そのうち、こんなことも思わなくなる頃には自分はもう彼女と口を聞かないだろう、と考えながら乾燥したタオルを首に巻き付ける。


「外の世界は危ないよ。他の大陸には、今まで出会ったことのない生き物がいるのかも知れないし、二人のうちのどちらかが死ぬかも知れないんだよ?分かってないだろ、君」


 翔は半ば呆れていた。「さっきから聞いていると__」と自分の意見を語ろうとした翔に被せる形で、藍は話し始めた。


「……あなたって本当に人間に似てるよね。ずっとわたしの意見を自分の方に似せようとしてるじゃん。そんなに、誰かの意見を認めるのが嫌なの?まるで自分だけが正しいというような、そんな態度まで、びっくりするくらい人間にそっくりよ」


「わたしの言うことを信じられないっていいたいんでしょ。わたしの話をまともに取り合ってもくれないくせに。そんなの、エゴよ。『ひ弱な女の子を守ってあげている』という自分に酔ってるだけじゃないの。」


「それに、どうして世の中に正しいことだけが必要だというの。無駄なことは全部要らないって言いたいわけ?じゃあ、無駄なことを排除し続けたあと、そこに幸せはあるの?」


 矢継ぎ早に語り終えた彼女は、最後に翔のほうを睨みつけた。翔は、こんなにも早口で話す彼女を知らなかった。そして同時に、彼女について知っていることは、ほんの一部に過ぎないのかも知れないとココロのどこかで思うのだった。


「……君のいう、幸せの定義って何なんだ」


 翔の質問を聞いた彼女は一瞬痛みを堪えるように顔を歪ませてから、とても悲しい顔をした。雨の降ったあとの海のように、その目の中に入っている様々なものが今にも溢れ出しそうになっていた。


「……少なくとも、何もしないで諦めることよりは、悲しくないと思うよ」


 彼女の目線が翔の顔を伝って、床に落ちる。彼女と翔の間の、目に見えない境界線がきっと彼女にこんなひどいことを言わせている。それを知っていながらも、翔には何もできなかった。その場所に根を張った樹木のように、翔はただその場で固まって彼女を見ているだけだ。


 ちょっとそといってくる。言葉になっていたのかは怪しいが、藍が顔をあげない間に翔は這うようにして教室から出た。劣化したドアがきちんと閉まったのかも確認せずに下まで降りていく。壁、手すり、階段。手にあたるもの全ての感覚はいつも通りで、なにも変わらないはずなのに、翔のココロは激しく波打っていた。


 一階のところの鏡に映った翔はひどく咳き込んだあとのように、左手でしっかりと口元を封じていた。そこで初めて、自分の手が意思と関係なく動いたことに気がつく。翔は、鏡を見つめながら、ゆっくりと指を離した。なにも、ない。喉仏をゴクッといわせながら、右手でそれを擦る。生臭い油の感じは、ない。翔は何度もその動作を繰り返す。手で喉を握り潰すようにぐっと抑える。鏡の前で右手と左手を交互に。絶対に赤くならない皮膚を、ゆっくりと締め付けていくように。自分自身にそれを見せつけるように。__まるで言えないものを隠すように。翔は何度も何度もそれを繰り返した。



 __無駄なことを排除し続けたあと、そこに幸せはあるの?


 無駄なこと。幸せ。

 彼女の透き通った声で紡がれた、一見全く関係のなさそうな二つの言葉を反芻する。繰り返すほど翔の瞳の揺れは大きくなる。あまり考えないようにしていたことを暴かれた時のような動揺が、そこで眠っていた。


 こほっこほっ。翔は咳き込むと同時にすぐに口元を隠す。やはり、なにもついていなかった。綺麗な手のひらを無意味にズボンに擦りつけながら、朝日の入り込む窓に目をやった。太陽に熱せられて熱いアルミの枠で、太陽はキラリと光っている。廊下の端っこ、男女トイレの前の壁に貼られたポスターらしきもの。原形もとどめていないそれは、ずっと前から規則的にのぼっている太陽によって色褪せていた。翔はそれにそっと触れる。窓ほどの熱はなくとも、見た目相応の脆さをしているそれは少し力を込めるだけで破れてしまいそうだった。


 いつか、誰かに会えるかも知れない。

 いつか。


 いまの翔にはそんなことを考えられるほどの余裕がなかった。現実はもっとずっと過酷で、無彩色の風景が広がっているだけだ。__そう、まるでこのポスターみたいに脆い。彼女がみたいと言っているのはそんな景色じゃないことくらい、翔にも分かっていた。しかし、海を超えるということは翔にとっては単純な言葉通りの意味以上のものを持っている。今までになかった障壁を一つ超えるということは、翔に無限の恐怖を与える。


 砂埃が舞う中で飛んでいく帽子のごとく、自分の意識がなくなることが、翔は怖かった。それすなわち翔にとっては、死を意味するからである。そんな恐怖を乗り越えて到着した場所で、彼女の望み通りの景色が見られなかったら__そう思うと、なかなか前に進めない。自分のココロの奥の深いところの、死への恐怖をも断ち切るためにはあといくらかの勇気が必要だった。


 どうするのが正しいのか、やはり16の翔にはわからなかった。






 day 39


 その日は、翔と藍が出会ってちょうど一年になる日だった。本来、一緒に街に出かけることを計画していたけれど、冷戦状態が続く今じゃ誰もそんなことは言い出さなかった。藍が元気になった今では地下室の家に戻ってもよかったのだが、ここ数日間続いている雨のせいでそれは叶わなかった。


 翔は雨に弱い。濡れた体では何も出来ないし、ただでさえ不安定な体をこれ以上壊したいと思えないから、雨の日には極力何もしないで休んでいる。翔は、数日前まで藍が寝たきりになっていたベッドの横にあるベッドで、天井の模様を眺めていた。いくら体が動かないからって、ずっと同じ体勢でいるのはつまらなかった。視線の端に、灰色の髪の毛がこちらに背を向けているのが見える。翔は、彼女には聞こえないくらい小さなため息をついた。


 彼女はずっとこの調子なのだ。地下室にいた頃は、図書館から借りてきた本を渡すとその全部を頭に入れようとする勢いで読んだり、新しいものを教えると実践してみたくてたまらないという感じを隠せない、天然で純粋な彼女のことが好きだった。しかし、こういう日がずっと続くと、ふたりの生活にもヒビが入るに違いない。そう思って、翔は小さな背中に声をかけた。


「どうして君までここにいるの。外に出かけたほうがマシなんじゃないのか」


 ぴくっと動いた背中からは、何も返って来ない。翔は、普段よりも掠れている声でもう一度話しかけてみる。


「おーい、僕が悪かったよ。機嫌直しなってば。天気はよくないけど、君なら十分楽しめるだろ」


「なんで一緒に行くって言わないの」


 彼女がそう言った瞬間に、窓の外で雷が鳴った。ガバっと起き上がってこちらを見てくる彼女は、顔色の悪い翔のことを見て、その目線を緩める。


「あら、ごめんなさい。体調がすぐれなかったの、あなた」


 大丈夫だ、と言おうとした翔は急いで口元を隠す。ゲホッという音とともに、黒い液体が手のひらを覆う。彼女は更に驚いた目をして、翔の顔を覗き込んだ。


「大丈夫?どうしたのよ、本当に」


 変ねぇ、顔色はいつも通りなのに、と言いながら翔の額に触れた彼女はその死体のような冷たさに驚いて、またすぐに手を離した。


「大丈夫。僕はいつもこんな体なんだから」と翔は言った。

「だめだよ、あなた。このままじゃ死んでしまうわ」とすぐに藍が言う。今にもどこかに飛び出して解決策を求めようとする背中はとてもたくましかった。


 僕は、遠くなりそうな気分を味わいながら、藍の手を掴む。その手にはもうあまり力が残っていなかった。僕は、ぐちゃぐちゃの脳内で色々なことを考えた。藍とのケンカのことや、雨に打たれたあとから咳が止まらなくなったことや、どうしても海が怖くてたまらない卑怯な自分のことを、必死に考えていた。人間でいうところの走馬灯に近いものを翔は一つ一つ丁寧に拾って行った。その最後のものは、初めて彼女に会った日のことだった。ボロボロの体で出会ったふたり。それでもふたりなら、やっていけると信じて疑わなかったあの日のことを、翔は大事なもののように扱っていた。


「……雨が上がったら、君の言った通り、海を渡ろうか」


 まるで昔からずっと練習していた決め台詞をいうように、それはすっと口から出てきた。

 怖いのは確かだが、彼女に最後までつらい顔をさせるよりはマシだと思えたのだ。そう考えてしまうと、もう自分の思いを話さずにはいられなかった。


「…………まずは予行練習からしようよ。それまでに体調を整えなかったら、」


 彼女の最後の言葉は聞こえなかったが、翔は満足した顔で眠りにつくことが出来た。本当に、久しぶりの甘い眠りだった。




 day 45


「晴れて良かったね」

「あなたも、元気になれて良かった」


 彼女は、灰色の髪を大きく揺らしながら、車のドアを開けて翔の隣に滑りこんできた。その瞳にはいつもの落ち着きがなく、ずっと揺らいでいる。彼女の髪は、楽しみで仕方がない、という彼女の気持ちを代弁するように、さっきからずっとなびいている。


「そんなに楽しみなのか」

「当たり前でしょ!自分自身を知るチャンスなのよ!」


 彼女は自分の体質を、地球と繋がっている、とまとめることにしているみたいだった。確かに、数日前から彼女の機嫌が悪いときは必ず天気のことにも関係があるように思えた。そして、何の変化もないように思える翔もまた、以前の彼とは変わっている。彼女のいうことを穏やかに受け止めることが出来たのが、一番確かな証拠なのだろう。


「僕が言ったこと、忘れてないね?」

「あったりまえだよー」

「じゃあ、言ってみて」

「勝手に居なくならない、約束は守る、嫌なことはその都度話し合う」


 翔は、満足そうに藍の口元を見つめていた。自分のとは違って、緩やかな弧線を描くそれはそういうものだ、とココロの中の翔は言っている。最後に、と僕はわざと単調な声で話し始めた。



「どうして、僕と行こうとしたの」


 翔はレジスターをじっと見つめながら、彼女の藍色の目のことを思った。その目がときと場合によってだいぶ濃淡が変わることを、翔は知っていた。いまの彼女の目がどちらよりなのか僕にはわからない。


「なんだろう。とても、寂しそうだったから、かなぁ」


 彼女は首をかしげながら、自分の腕に頬を擦り寄せた。随分と女の子らしい仕草をすることが増えたのも、最近のことだ。


「……寂しかった?僕が?」

「うん。そう見えたよ」


 寂しい目だったよ、といいながら自分の目を指でさす。翔は、その目をまっすぐに見つめられずに右窓に顔を向けて胸いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。


「私の目はごまかせないよー」


「ああ、そうだね。君は目が良いからね」


 その声は僕のものじゃないみたいだった。


 言われてみてはじめて気がつくことがある。


 例えば、自分の癖とか表情とか、無意識に出てしまうからこそ、自分自身では気がつかないことが多い。そして、彼女の言ったあのときの翔の目もきっとそのような類のものなのだろう。確かに、僕の心は疲れていた。からだだってボロボロだった。だからつまり、僕の目も空の色と対して変わらなかったのかも知れない。ということに今気づく。死んだ湖のような目をしていた彼女の目に他の色が混ざりはじめたように、翔の目もまた変わりつつあるのだろうか。青がほんの少しでも混ざっていたらいいな、と考えながら横の彼女をみる。あいにく、その目は伏せられていて分からない。




「ねえ、翔」

「ん?寝ててもいいよ。長い旅になるからね」

「うん……あのね、怖い」


 クエスチョンマークのついていない質問だった。心なしか、彼女の声がずっと細かく揺れている気がする。翔は窓枠に左腕と顔を出した彼女を見つめた。まんまるい頭と、なびく髪の毛。翔がこの角度で彼女を見たのは初めてなのに、どこか懐かしく感じる。僕は何も言わずにその頭を撫でる。彼女はゆっくりと顔をこちらに向け、翔の顔を見た。数秒、あるいはずっと。日に照らされて金色に光る翔の目と、緑色が混じった藍の目が、虚空でまざる。


「怖くなんかないよね。だってわたしがいるんだもん」


 彼女が、リュックから手榴弾を取る。僕は安全ピンを抜く。


 それを見た彼女が、運転席側の窓を開ける。僕はそれを後ろに投げつける。


 一瞬、世界から音が消える。僕はアクセルを踏む。彼女は燃えているところを振り返って見ている。片手でお腹辺りをさすりながら、いってぇーと叫ぶ声は、どこか濁っている。


「ねえ、学校まで届いてないよ。ビビったでしょ」


 彼女は心底楽しそうに、校門近くの太い桜の木が燃えているのを見ている。翔は今の衝撃で変貌した右手を見つめた。あはは、彼女につられて笑うと、その上に赤よりも遥かにどす黒い、酸化したガソリンがが吐き出された。


「ああ。ビビったせいでタイミングミスったわ。ほら見て」


 黒くてドロドロしたもので汚れた手を大きく開いて、ひらひらと彼女にみせびらかす。やっばいじゃん、彼女はまた笑う。まだお腹辺りをさする手は止まらない。翔はわざとそれから目を逸らした。


 いつか、きっと彼女は元気な声を聞かせてくれるに違いない。いつか。__そのいつかに僕がいなくても。


 僕たちは間違っているのかも知れない。人間に役立つように設計されたものが人間を裏切る最後を選んじゃダメだ、と責められるかも知れない。しかし、それはあんたたちだって一緒だ、と叫ぶ翔がそこにはいた。僕たちが必要としていた時には助けてくれなかったくせに、置いて逃げようとしたくせに。僕はクソガキだから、非論理的なことしか言えない。大人に怒られながら生きるはずだった、翔が逃げ出さなきゃいけなかった理由が、確かにそこにはあったのだ。


「いつか後悔するかもね」

「うん」

「そう思うんだ、あなたも」

「爆発させなくったって良いじゃん、とか?」

「いーや、爆発してるところが見たかったんだもん。すっきりしたー」

「投げたの、僕だけどね」

「うん、でも……後悔、するんだろうねぇ」


 多分、絶対。開け放たれた窓から身を引いてわざとらしくシートに体重をかける彼女の、言葉にならない声はきちんと翔の耳に届いた。うん、僕もそう思うよ。前方を注視しながら、無言で頷く。鏡に映った翔も、彼女も、本当にひどい顔だった。


「大丈夫だ」と翔は言う。


 やっちゃいけないようなことばっかりしている僕たちにはいつか天罰が下るかも知れない。これから先のことなんてわからないけど、きっと地獄をみる時だってあるだろう。僕たちにはお互い地獄までついていく義理はないけれど、その手前まで一緒にいることくらいは許してほしい、と僕は神に願った。



「最高だよ、あなた」と、彼女が言った。

「うん、最強だよな。僕たち」と僕は言った。


 僕たちは二人でいきていくしかない。もう逃げ場もない。二人で一緒だからこそ大胆なことができるし、普段は恥ずかしくて言えないようなことも言える。


 いつか何かの違いで、ほんの小さな小さな間違いで、僕たちが分かれて進むことになったとしても、そのいつかはきっと今日じゃない。僕は強くそう思いながら、右に曲がった。砂埃が舞う世界を、二人で抜け出す。


 ドクン

 急カーブで斜めに浮いた体が、元の位置まで沈む。心臓が、高鳴る。頭の中ではずっと警報が鳴り続けている。今日という日を、ずっとどこかで待っていたような気がして、僕は微笑んだ。相変わらず口角は上がらなかったけれど、は今までで一番人間らしい表情かおをしていた。






no. 17


year2, day 45

~ year___, day___







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地獄の沙汰も君次第 正野 心 @shin_47

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