地獄の沙汰も君次第

正野 心

 day 26


 あいが家出をした。

 原因は昨日の喧嘩なのだろう、としょうは考えた。


 翔は頭の後ろで手を組み直した。

 白くて長い指と指の間に、手触りの良い金髪が溶け込む。髪は昨日切られたばかりのように、毛先がギザギザとしていた。


 翔は深呼吸をしながらゆっくりと顔を上げて鏡をみた。自慢の金髪は肩くらいで、大きい目は空の色__何も変わらないが、確かに何十年も老けた自分がそこにいた。


 その鏡の端、黄土色の瞳の延長線上に、日めくりカレンダーが映る。翔はほとんど無意識にそちらに向かった。


 ビリッ

 小さな雷の音とともに、一日限定の免罪符がちぎられる。それから翔は後ろを向いてそれをゴミ箱に捨てた。その中には何十枚にも及ぶそれによく似た、過去のものが入っている。きっと、何日もそれを繰り返したんだろう。その一連の動きはとても滑らかだった。


 今日は木曜日か、とまるで自分に言い聞かせるように、翔は呟いた。というのも、それは正確な日付を示す訳ではなかったからだ。翔がどこかの廃ビルから拾ってきたものだから、いつのものなのかよくわからない。だから、去年も言ったこの言葉を、おそらく来年も同じことを言うだろうことを、翔は知っていた。翔に必要だったのは正確な日付ではなく、また一日生き延びたんだ、という実感だったから、それでよかったのだ。


 しかし、一年前の今日と今とでは随分と条件が違う。まず、家がある。以前はリュックの下に丸められていたそれは、いま家の壁に掛けられている。辺りを見渡すと申し訳程度ではあるが、家具がある。しかし、翔には人間らしい生活を営むに必要なものだけでも十分だった。


 翔はカレンダーをじっと見つめていた。その瞳の中には、次に何をするか定まっていないというように、小さな波が揺らいでいた。


 翔は、何もかも分からなかった。

 どうして自分だけがこの廃れた地球で__少なくともこの大陸のうえで__独り寂しく生きなきゃいけないのか、なぜが選ばれたのか、それからいったいどうして彼女はこの家を出て行ってしまったのか、などなど。翔にはそれらの何一つわかっていない。



 昨日の喧嘩の始まりは、「私も連れて行って」という藍の一言だった。


 翔はその言葉を聞いた時、動揺して上手くいえなかった。思い出していたのは、独り旅のことで、それはあまり良い思い出ではなかったからだ。




 海の上に浮かぶ大陸は三つ。そのうちの一つを、翔はずっと転々としてきた。一年中、自分の足だけで旅した翔にとって、この大陸の上で行ったことがない場所なんてなかった。というより、本来は半年程度歩いても十分知り尽くすことのできるであろう小さなこの大陸の上で、翔はわざとゆっくり歩いた。


 その場所の植生や河川の位置などの地理的条件、建物の間隔や道路の整備などという非常に細かいところまでを見て回った。もしかして自分が見逃しているかも知れない、という気持ちが、翔の足に蔦のように絡んでいたのだ。


 あちこちを見て回る姿はまるで生まれてはじめてこの世を観察する子どものようにも見えたし、あるいは親とはぐれて不安になった雛鳥のようにも見えた。翔は、少しでも誰かの気配が感じられるような場所ではいつもの倍くらいの時間をかけた。そして、とうとう翔の自信がすり減ってなくなりそうになった時、初めからそう決まっていたみたいに、翔は藍に出会ったのだった。


 翔は他人ヒトよりも圧倒的に記憶力が良いおかげで、もう一度その場所に行って思い出を振り返らなくても藍に伝えることができた。子どもに絵本を読み聞かせるように、自分の記憶の中のその場所を丁寧に、ときには大袈裟に描写する。あるいは、廃れた地球でみた景色をそのまま伝えるにはもの寂しすぎると判断したのかも知れない。


 相変わらず藍は、どこからやってきて、なんのために翔と一緒に居るのかについては話してくれなかった。それでも、自分が旅の話をするたびに目を輝かせながら聞くものだから、翔は追々聞けば良いと思っていた。しかしこうなれば、無理矢理にでも聞いたほうが良かったかも知れないと考えるのが、人の性というものなのだろう。


 今考えてみれば、彼女の中ではもう決まっていたことなのかも知れない。翔は今更ながら気づく。旅の話を聞くたびに目を輝かせたのも計算のうち、と思うのは考えすぎなのだろうか。翔は薄く開いた唇から言葉にならない音を漏らし続けていた。その脳裏に浮かぶのは昨日のことである。


「なんで今は旅をしないの」という声は普段通りだった気がする。最初は気をつかって自己主張を控えていた彼女に、意見を積極的に言わせようとしたのは他でもない翔だった。だから、自主的に質問をされたことが、翔はとても嬉しくて彼女に向き合ったのだった。


「どうかしたの」藍の透き通るような声とは違って、翔の声は掠れていて、しかもどこか無機質だった。


「私も旅に連れて行って欲しいなぁ、って思って」彼女が言う。ビー玉を転がすような、芯がしっかりした声だと翔は思った。その声が紡ぎ出した言葉に、翔は曖昧に言葉を濁した。それで、彼女は怒って__家を出て行ってしまった。


 こんなところまで人間らしくなくてもいいのに。


 翔は、今は誰もいないのをいいことにそれを声に出していた。ずっと声を出さなかったからいつもよりも低くて、聞き取りにくい声が喉を通って空気に触れる。翔は、思わず眉間に皺を寄せた。傷つく相手がいないにしても、あまりいい気分にはなれなかった。


 これから、どうしよう。

 翔は起きてから数時間、何度も脳内で繰り返した言葉を声に出した。そうしたところで、誰もいない空間ばかりが強調されてすぐに自分のため息で埋める。ひとりだった頃はこんなことはなかったのに、とどうしようもないことを考えながらベッドを手で触る。数時間前までそこにいたはずなのに、全く温もりを感じられないことが不安でしかない。


 答えは随分と前から翔の中では決まっていた。

 探しに行く。いまの翔にはそれ以外の選択肢がない。

 しかしその一方で、翔は怖かった。

 __もし、彼女が見つからなかったら。


 彼女が、今まで翔がずっと繰り返した行為の中の一つになるのが、翔はたまらなく嫌だった。会える、会えない、次は会えるかも、ああ、もう会えないかも。そんな言葉で埋め尽くされたココロのページの中に、彼女は存在してはいけないのだ。


 やっぱり、あのとき藍と出会ったのは神のいたずらなのかも知れないと翔は思う。自分の願いを聞いてくれたわけではなく、ただの気まぐれなのだとしか言いようがないように思えた。


 翔は色々なことを胸に抱えながら、外につながる階段を登った。夏の朝は早く、時計の針は5時をさすのに、一歩踏み出すほどに太陽の光が強く入り込んだ。翔は、部屋の中に砂が入らないようにすぐに入り口を塞いでから、大きく咳き込んだ。慌てて左手で押さえると、血液よりも黒く、ドロッとしたものが手についたのを確認して、翔はズボンにそれを擦り付けた。きっと、水で流しても消えないのだろう。すでに何度もそれを繰り返したように見えるジーンズの上に、また一つ跡が増えた。


 翔は、周りをぐるっと見渡して場所を確認した。黄土色、茶色、それから少しだけの藍色。翔は、目で見たものを忘れられないという性質たちで苦労したこともあったが、いまのような生活では随分と役立っている。翔はとりあえず11時方向に歩き出した。あの日、藍に出会ったのも11時方向だったことと何かしらの関係があるのかも知れない。


 旅に連れて行ってほしい、と彼女が言った言葉は昨夜からずっと翔の耳のところに残っていた。固く結ばれた唇。わかった、と言って落とした視線。諦めたような目。その全てが自分のせいだと思うと、翔は居た堪れなくなるのだった。


 翔には彼女を絶対に旅に連れて行きたくない、と強く思う理由があった。




 ここに生まれた瞬間から、人間は様々な間違いを犯し続けた。いや、もっとずっと昔からそれは始まっていたのかも知れないけど、その間違いが地球の健康悪化につながる確率は断然後者のほうが高い。黒い煙を出し続け、川や海を汚し、山を切り開いても地球は怒らなかった。オゾン層に穴が空いた時も、それをすぐに元に戻そうという動きが活発になり、地球はそれを許したように思えた。しかし、相手は自然そのもので人間の考えなんかで定まらない。__とうとう、地球は争い続ける人間を捨てた。


 もちろん、これもまた人間側の視点であり、それを客観視することはできない。人間は自分が体験したわずかなものでしか物事を判断できないのだから、どこかしら間違っているかも知れない。それでも、貪欲な人間が地球に捨てられてから異星に移住した、という事実だけは消えなかった。もちろん、全ての人間が安全に移動できたわけもなく、宇宙船に乗る夢を見ることも許されずに怒り狂う自然に喰われるしかなかった人もたくさんいるはずだ。それから何年もたった今では、もうそんなお話を語り継ぐような人間だって一人残らずして消えてしまったけれど。


 そして翔は、過去の人間たちが犯した罪を償うべくしてうまれた存在だった。人間は勝手に縋りついて、恨んで、祈りを捧げる生き物だから、その中に地球に対して謝り続けなければならないと考えた人間がいてもおかしくない。翔はそのような複数の人間を父や母として持つが、彼らに関する記憶はなかった。


 翔は人間がいた頃の話をあまり知らない。父母ちちははから聞いたもの、自分の目で見たものがツギハギになって翔の脳内に残り続けるのだ。自分がどこからやって来たのかを知りたがっている、という点において彼は過去の人間と非常によく似ていた。知るはずもないことを知ろうとする。これはこういうものだから、という一言で済ませようとしない性格が翔に一年も旅をさせたのだった。


 いつか、どこかで何かが見つかる。

 いつか。


 翔はそんな不確かで薄暗い気持ちで、ずっと今まで生きてきたのだ。自分が過ぎ去っていく歳月の一部になるということは、恐ろしながらも安心することだ、と翔は思う。しかし、自分の所属する場所のない翔には、それを作り出すしかなかった。正しいのかどうかもわからないが、翔はそれを大陸各地を飛び回る「旅人」というカテゴリーの中に入れた。16になる年のことだった。身体条件、適性、他からの目線など。かつての人間ならば考慮しなければいけないことがあまりにも多く、すぐに踏み出せなかったであろう一歩も、翔は戸惑うことがなかった。どうせ独りなのだから、という考えが根付いていた故の判断だったかも知れない。


 何も知らずにいきていくこと。自然の中の一部として、自分の姿も知らずに、ただただ生きていくこと。そんな簡単なことが、なぜか翔にはできなかった。父母の願い通りの良い子になったかどうかなんていまの翔には知る術もなかったが、頭を空っぽにして受動的に生きることは翔の本望ではない。旅を続けるうちに、その想いは余計に強まって行ったのだった。


 翔は、独り勝手に生きてもよかったのだ。こんな、訳も分からずに舞台に乗せられていきなり踊ることを強制されているような状況で、いくらの父母でも翔のことを責めることはないだろう。翔に言わせてみれば、「演出も監督もいないし、低予算の音響と照明と衣装だけがあるのに、観客のためにキャストだけが頑張るのはおかしい」のだ。


 どれだけズボラでも__ティッシュを使わずにジーンズに汚物をつけようとも__誰も怒らない。怒ってはくれない。まだまだ指導が必要な年の翔には、それがとても嬉しかった。いや、厳密に言うと、独りだった頃の翔はそれでよかったのだ。怒ってくれたり、悲しんでくれたりする人__翔にとってはたった一人の仲間__がいる今では、もうそんなことはできない。


 あの時はどれだけ身軽だったことか!翔は思い出して苦笑した。懐かしい色で満ちた心の中で「ああ、戻りたいなぁ」と思う気持ちは、なぜかなかった。あれこれ考えすぎると、独りであることが浮き彫りになるのだから、無意識にそれを良いものとしてだけ捉えようとしていたのかも知れない。翔は他人事のようにそのことを扱った。


 怒られないことは、悲しいことだ。ということに気がついたのは、いつ頃なのか翔にも正確にはわからなかった。藍を見るとどこか悲しくなるから、だったのかも知れない。


 初めて会った時のことはいまだに忘れられなかった。ほっそりとした体にはあちこちに深い傷が残っており、到底誰かの手によって大事に育てられたとは思えないような様子だった。彼女を見た時、翔のなかで一番初めに浮かんだ感情は「苦しみ」だった。胸がギュッと締め付けられるような痛みは、彼女のことを知れば知るほど大きくなっていくばかりだった。新しい傷はないから、ということは慰めにもならないほど、翔は彼女よりも心を痛めていた。どこかで「この子を守りたい」という気持ちが波打つのを翔は全身で感じながら、彼女の手当をした。自分のからだだって動かしにかったはずなのに、翔のココロの奥のどこかの部屋が、そんな行動を取らせたのだった。




 だんだん進んでいくうちに、翔は所々草や花が生えていることに気がついた。藍色ではない、強い生命力を感じさせる緑色は、そこに存在するだけでも眩しく感じられるのだ。


 翔はそれまで自然の緑色を見たことがなかったから、時々立ち止まりながらそれを観察していた。手のひらにすっぽりおさまる程度のものから、大きいものでは大木の幹ほどまであった。後ろを振り返ってみると、なるほど、段々とその緑色の斑点が大きくなっている。翔はかかとをあげて遠い所まで見渡した。やはり、前方に辺り一面を覆い尽くすほどのものがある。翔はそこを目指して早足で歩いていった。途中で緑色を踏み潰しそうになると、わざとゆっくり歩きながらも着々と前に進んでいった。


 その場所に着いた時、翔は二重の意味で驚いた。まず、翔は今まで見てきたどんなものよりもその場所を美しく感じた。その小さな林の中がとても美しかったあまり、翔は子供のように目をキラキラさせて、辺りをゆっくり見て回った。一瞥しただけでも暗記できる才能を持っているというのに、その雰囲気までを網膜に焼き付けるかのように翔はそびえ立つ樹木を眺めた。その一瞬だけは、黄土色の空のことも、藍のことも忘れてしまうほど、翔は夢中になっていた。


 それだから余計に、それからしばらく歩き続けて、緑色の絨毯の上に突っ伏していた藍のことを見つけた際には、翔は声も出ないほど肝を潰した。ぴくりとも動かない藍は、まるで自分の命を絵の具として使い果たしたかのように見えた。


「藍、しっかりしろ!どうしたんだ!」


 身体を揺さぶっても、藍は目を覚まさない。息はあるし、胸も規則的に上がったり下がったりを繰り返している。まるで死んだかのように深い眠りについた藍のことをじっと見つめた翔は、以前にも似たようなことがあったのを思い出した。


 申し訳程度の家具だけが置いてある家の入口からは、中のことが一目で分かる。その日、藍はテーブルのすぐ横で倒れていたのだった。今と同じような体勢で深く眠っていた彼女は、結局何時間か後に呑気に起きて来たのだった。一体何があったのかと問い詰める翔に「お散歩したら疲れちゃった」と言って、懐から名も知らない花を渡した藍はとても元気そうだった。いつもより少し掠れた声だったこと以外には、あまりにもいつも通りで翔はそれ以上強く言えなかったのだった。


 しかし、今はどうなのだろうか。__翔は腕の中の藍を見下ろした。あの頃と比べて、何が違うのかを比較しようとしても上手く結びつかない。その代わり、翔は冷たくなって動かない藍のことを今の藍のうえにそっと重ねてみた。小雨が大地に別れの口づけをするような場面を思い浮かべ、翔は藍の腕辺りをギュッと掴んだ。藍の死は翔にとっては自然そのもので推測することができない分、余計に想像することが難しかった。あるいは、翔はまだ藍の死を受け止められるほど大人にはなっていないのかも知れない。


 翔は、必死に考えた。今から藍のからだを抱きしめて、何時間も歩いて家まで戻るのは現実的ではない。ならば、どうするべきか。翔は、瞬きをすることも忘れて、藍のためにできることが何一つもない自分自身を責めていた。藍のことを眺め続ける姿はまた今にも藍が起き上がって、いつもの透き通った声ではしゃぐのを待つ人のようにも見える。


 ドクンドクン


 翔のココロが閉塞した場所から出せと言わんばかりに、大きな声で喚き始めた。それと逆に翔自身はこれ以上ないほどに冷静だった。


 白衣を着た神様は翔に「ヒト並外れた記憶力」と引き換えに「年相応の臨機応変さ」しか与えてくれなかったのだから、翔はただ藍が起きるまで待つしかできない。翔は、ぐったりとしている藍のからだを自分のほうに寄りかからせて、来た道を戻っていった。とりあえず、道の途中にあった学校に泊まることにしよう。翔は藍と、緑色の斑点を交互に見ながら慎重に前に進んでいった。


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