第6話 第五章 神を知る
第五章 神を知る
神愛が去って行った屋上では残された恵瑠と天和が扉を見つめていた。しかしそうしていても仕方がないと恵瑠は隣人に振り向いた。
「あの、天和さん天和さんッ!」
「なにかしら」
焦る恵瑠を余所に天和は平然としている。慈愛連立の恵瑠と無我無心の天和としての差がある。
「どうしましょう、このままじゃ大変ですよ!?」
「なにが」
「なにがじゃないですよ! 大変じゃないですか!」
「そうね」
「まだ何も言ってないですよ!」
温度差が激しい会話を繰り返すがいっこうに進まない。
「神愛君のこと、天和さんは心配じゃないんですか?」
それで、心配になった恵瑠が恐る恐る聞いてみる。彼女よりも少しだけ背の高い天和の横顔へ尋ねるが、そこで天和が初めて振り向いた。
「恵瑠さんは心配なの、宮司君のこと? 彼、無信仰者なのに」
「それは……」
口籠(くちごも)る。鋭さはないがどこか重たい天和の問いに俯いてしまう。答えぬまま言葉を探すが、顔を上げたのはすぐだった。
「はい! 正直に言うと、最初はなんだか怖かったんです……。一体どんな人か分からない、っていうだけで、怖かったんですよね」
恵瑠も初めて出会った時は逃げ出している。自分とは違う、というのはそれだけで好奇と不安の対象になる。しかし、話せば分かることもあった。
「でも、接してみて怖かったこともありましたけど、優しいところもありました。信仰する神理がなくても、仲良くなれました」
同じところもある。恵瑠は嬉しそうに笑い、恵瑠の笑顔を、天和はじっと見つめていた。
「だから助けたいって思うんです。天和さんはどうですか?」
「そうね。宮司君は数少ない仲間だし、見捨てるにはもったいないかな」
「なら、一緒に神愛君を助けましょう!」
相変わらず朴念仁(ぼくねんじん)のような天和だが、彼女なりに神愛を気に入っているようで素直に首肯する。
しかし助けるとしても問題は山積している。まず頼みの警察が働いてくれないことと、犯人を捜すにしても手がかりが赤の腕章くらいということ。天和の同意を得て舞い上がった恵瑠だが、またも表情を暗くした。
「ねえ、ちょっといい? さっきから気になってたんだけど」
そこへ、天和から声を掛けてきた。
「宮司君、命狙われてるの?」
「今更何言ってるんですか!?」
この状況で呆れる発言だが、天和は続ける。
「じゃあ、今宮司君、ミルフィアさんがいるとはいえ一人よね?」
「え?」
天和の指摘に呆気に取られると同時に理解する。神愛が一人ということは犯人からして見れば絶好の機会だ。
「天和さん、そういうのは気づいたらすぐに言ってくださいよ~!」
「そこには気づけなかったわ」
「気づいてください! じゃあ早く神愛君を見つけないと!」
恵瑠は一刻も早く駆け付けようと走り出すが、天和はその場を動かずフェンスの向こう側を指さした。
「宮司君ならそこにいるわよ」
「え?」
指さす先を見れば、正門の前に神愛とミルフィアの姿がある。
「良かった。まだ無事みたいですね」
「見張っていれば犯人がやってくるかも」
「そうしましょう!」
二人は正門へと急ぐ。全速力で駆け付け、玄関口まで来ると遠目に神愛の姿が見えてきた。
「あれ、ミルフィアさんがいませんよ!?」
「きっといつものように消えたんじゃないかしら」
玄関口の扉から顔だけを出して神愛を監視する。二人の視線の先には神愛が寂しそうに佇(たたず)んでいた。事情を知っているだけに恵瑠の表情が落ち込んでいく。反対に天和はいつも通りだ。
そこで、赤い瞳が動いた。
「あ、人影」
「どこですか!?」
天和の視線の先は校舎の角であり、見れば確かに影がある。しかし気づかれたのかすぐに消えてしまった。
「追いかけましょう!」
「犯人は一人とは限らないし一人は残っていた方がいいと思う。けれど面白そうだから私も行くわ」
消えた人影を追って恵瑠と天和は走り出す。姿は確認出来ないが足音は聞こえていた。校舎と校舎の間を通り、渡り廊下を超え、その先は体育館だった。足音はすでに聞こえず、見れば扉にうっすらと隙間がある。
「扉が少し開いていますね……。ここに逃げ込んだんでしょうか?」
見渡しても隠れられる場所はここしかない。恵瑠は近づき、「うーん」と扉を開いてみた。重たい鉄扉がギギギと擦れながら開き、二人は中に入る。
電球は点いていないため暗い印象があるが、天井付近の窓から差し込む光が全体をほのかに照らしている。使われていない空間はひっそりとして寂しさを覚えるほど静まり返っている。
しかし、そこに一人の人物が立っていた。驚きに恵瑠が堪らず叫ぶ。
「加豪さん!?」
そこにいたのは赤髪を垂らす加豪切柄(かごうきりえ)の背中。恵瑠からの呼びかけに加豪は振り向いた。
「あんたたち……」
少しだけ意外そうに驚いた表情。それを除けばいつも通りの、知っているままの彼女がそこにいた。
だがここにいるという事実、それが持つ意味に恵瑠の顔は強張(こわば)った。
「どうしてですか加豪さん! 一緒にミルフィアさんの誕生会に参加した仲じゃないですか!? なのに、どうして加豪さんが神愛君を殺そうなんて!?」
「え!? 私が?」
恵瑠が訴える。しかし、加豪はそれこそ意外そうに驚いていた。
「ひどいですよ!」
「ちょっと待って、私は違うわよ」
「この卑怯者! 裏切り者! ボクが神愛君の仇をとってやる!」
「いや、まだ神愛死んでないでしょ?」
「死んじゃえ~!」
恵瑠が拳を握り締めて加豪に突撃していく。
「止めなさいッ」
「いて!」
それを見事に躱し、加豪は恵瑠の頭を叩いた。叩かれた頭を抱えて恵瑠がうずくまる。
「落ち着いて、私じゃないわよ」
「だって~」
涙目で見上げる恵瑠に加豪は肩を竦(すく)める。
「最近私が学校に来てなかったから疑ってるんでしょうけど、違うのよ。私も事件を調査してたの。他には警察に調査を再開するように掛け合ってみたり。事件が最初に起きた日は先生から頼みごとがあったから遅れただけよ」
「え、そうだったんですか!?」
「そうよ。といっても、信用しないだろうけど」
容疑者が証拠のないことを言っても信憑性(しんぴょうせい)は低い。それが分かっているだけに加豪は苦笑する。だが、そんな加豪を恵瑠は真顔で見上げた。
「信用しますよ! 一緒に誕生会に参加した仲じゃないですか!」
「あの、さっき死んじゃえとか言ってなかった?」
切り替わりの早さについていけない加豪だった。
「でも、どうして加豪さんがそこまで?」
瞬間、恵瑠の問いに加豪は照れたように視線を外し、赤い髪で遊び始めた。
「まあ、あいつとは喧嘩したこともあったけど、一度助けてもらったことがあるからさ。だから今度は私の番かなって……。それだけよ」
もじもじと、彼女らしくない返答に恵瑠は小首を傾げた。
「えっと、それじゃあ。加豪さんは犯人じゃなくて、ここにいるのは」
「あなたたちと同じね、私も犯人を追ってきたの」
加豪の目つきが真剣に変わる。ここには三人しかいないが加豪は辺りを見渡した。鋭い視線を周囲に走らせ、体育館の側面、扉を覆うカーテンで止まる。そこにひと一人分の膨らみがあることに気づいたのだ。
「そこにいるのは誰!? 出てきなさい!」
気勢(きせい)が乗った加豪の声がカーテンに突き刺さる。そこに誰かがいるのは明らかだがすぐには出てこない。加豪だけでなく、全員の視線が一点に集中する。
神愛を襲った連続事件。その犯人を逃すまいと力が入る。出てこないなら引っ張り出すかと加豪が一歩を踏み出した、その時だった。
カーテンが揺れ、中から人が出てきた。
途端に言葉が零れる。出てきた新たな人物に、加豪は呆気に取られた。その人物は、
「ヨハネ先生?」
「これはこれは。巻き込んでしまいましたか」
そこから出てきたのは、頭を下げ申し訳ない笑顔を浮かべるヨハネだった。何故ここにいるのか恵瑠が質問する。
「え、どうしてヨハネ先生がここにいるんですか? あ、もしかして!」
尋ねていて気が付いたのか、恵瑠は途端に得意気になり腕を組んだ。
「ふふん、ボク分かっちゃいましたよ~。名探偵栗見恵瑠の推理はズバリ!」
「ヨハネ先生も犯人を追って来たんですか?」
「加豪さん!?」
しかし先に答えを言われ「う~」と俯く。
「はい。お三方の会話は聞こえていました。私も出ようかと思ったのですがタイミングを逃してしまいまして」
ははは、と苦笑する。しかしすぐにいつもの笑顔に切り替わった。柔らかい表情だが気配から真剣な様子が分かる。
「こうなっては仕方がありません。生徒を巻き込むのは不本意ですが、このまま全員で探しましょう。警戒してください、ここには宮司さんを狙う犯人がいるはずです」
ヨハネからの言葉に恵瑠は顔にやる気を入れる。加豪は辺りを見渡し、天和はヨハネをじっと見つめていた。
「とりあえず扉は閉めておきましょう。逃げられては厄介ですので」
ヨハネは三人の間を通り扉へと歩いていく。柔らかな声は温かく、いつもの笑顔は緊張を軽くしてくれる。
だが、ヨハネが通り過ぎた後で加豪がハッと体を震わし、急いで背後に振り返った。
「待って! 扉は――」
ガチャリ。扉が閉められ、ヨハネによって鍵がかけられる。鍵の取っ手を回すが、ヨハネはつまんだ取っ手をへし折った。
「しまった、閉じ込められた!?」
「え? え!? どういうことですか!?」
「…………」
加豪が焦りを露わにする。恵瑠は理解が及んでいないようで驚きながら二人を交互に見遣っている。天和だけが平静(へいせい)を貫いているが、ヨハネを見る目に棘を生やしていた。
加豪が前に出る。ヨハネを見る瞳は親愛な教師を見る目つきではなく、警戒と不安の眼差しだった。
「ヨハネ先生、質問があります」
「はい、なんでしょう」
不安を気丈にも隠して加豪は問う。対してヨハネは余裕と温厚(おんこう)な態度で返事をした。そこに動揺は見られず笑顔には陰もない。
しかし、だからこそその笑顔が恐ろしいと、加豪は睨みつけ、ヨハネに核心(かくしん)を突き付けた。
「何故、神愛を殺そうとしたんですか?」
加豪の問いに恵瑠が声を上げる。驚いた顔を向けてくるが加豪は無視して話を進めた。
「普段からヨハネ先生のことは見ています。今のあなたは左に重心が少しずれている。それに上手く隠していますが、左腰にわずかな膨らみがあります。おそらく警棒の類を携帯しているのでしょう。私たちは犯人を追ってここまで来ました。私が言えたことではないですが、それでもヨハネ先生がここにいるというのはやはり不自然です。犯人の手掛かりである赤の腕章も犯人にしては軽率(けいそつ)過ぎます。むしろ誘導の可能性が考えられる。あのまま私たちが気づかなければ神愛を叩き、気絶させた後別の場所で殺害に及ぶ予定だった。そんなところですか?」
「はい、その通りです」
返事によどみはない。潔(いさぎよ)いと表現するのも抵抗があるほど、ヨハネはあっさりと認めてしまった。
「いやー、参りましたね。加豪さんと、おそらく天和さんもですか。どうやらバレてしまったようですね。生徒の優秀さを喜ぶべきか、教師としての信用のなさを嘆くべきか迷います。ちなみに天和さんの根拠を伺っても?」
「なんとなく。目が嘘を言っていたから」
「ははは……、完敗(かんぱい)ですね」
ヨハネは笑顔を崩すことなく頭を掻いている。物腰の柔らかさはいつもの彼で、何度も殺害に及び、さらにその事実がバレてしまった男とは思えない。
「どうしてですか、ヨハネ先生……?」
反対に恵瑠は怯えと言葉では表せないほどの疑問を顔に出していた。小さな胸に両手を重ねている。恵瑠だけでなく、皆が知るヨハネとはまったく違う行動、その内容に恐怖をありありと滲ませていた。
「栗見さん。心優しいあなたには酷でしょうが、事実です。それは認めます」
ヨハネは姿勢を正し、教壇に立っているように背筋を伸ばした。柔和(にゅうわ)な笑顔で生徒の質問に応じる姿は教師として堂に入った佇まいだ。それだけに、続く言葉は凄惨(せいさん)だった。
「ですが、この場で理由を話す必要はありません。それに、知られた以上は……。この先は言わなくても分かりますね?」
「本気ですかヨハネ先生!?」
すかさず加豪が声を荒げる。理由が分からない凶行(きょうこう)に戸惑い、疑問が口から飛び出した。正気を疑うなという方が無理な話。それだけヨハネの行動は理解の範疇を超えている。
「ふ、ふふ」
「?」
聞こえてきた笑い声に加豪と恵瑠の体が強張った。加豪の必死な質問に、答えたのは毒のような笑い声だった。
「本気? 本気かですと? この私に? 生徒を殺そうとし、今も三人の教え子を手にかけようとしていて? 冗談ではない」
そう言うと、仮面のようにヨハネから笑顔がなくなった。表れた素顔は能面(のうめん)のようだが、一点、いつもは細められている彼の両目が開かれた。そこから覗く蛇のような眼光が、真っ直ぐな狂気を孕(はら)んでいた。
「本気ですよ、私はね」
「まさか、……狂信化してる?」
ある種、理性すら振り切るほど純粋で強い思い。狂気が持つ純真な瞳に加豪はもしやと声に出す。
次の瞬間、訪れたのは激痛だった。
「ぐっ!?」
「加豪さん!?」
ヨハネは一足で加豪へと接近すると胸部へ殴りつけてきたのだ。咄嗟に加豪は腕を交えて防いだものの、吹き飛ばされ背中から地面に落ちる。痛みに表情が歪む。ヨハネの細身から放たれたとは思えない、俊足(しゅんそく)で強烈な一撃だった。
「いい反応です。あなたでなければ防ぎきれなかったでしょう」
「止めてください先生!」
ヨハネは倒れる加豪を悠然(ゆうぜん)と見下ろし、加豪は痛みを堪えながら叫んだ。
「あなたの言う通り、私は狂信化しているのでしょう。いえ、間違いない。ならば問答は無意味だとも分かるはずだ。加豪さん、私を止めたいなら、力づくしかありませんよ」
「二人とも下がってて!」
「でも、加豪さん一人じゃ!」
加豪は奥歯を噛み合わせて立ち上がる。殴られた箇所に手を当てて調子を測るが、骨にヒビが入っているのか、痛みは退くどころかますます腫れあがっていく。尋常ではない痛みを感じている加豪に恵瑠が走り寄るが、片足をすさまじい衝撃が襲った。
「きゃあ!」
「恵瑠!?」
ヨハネが黒の法衣から警棒を取り出し投擲(とうてき)したのだ。直撃した衝撃に恵瑠の小柄な体が宙に浮き地面に叩き付けられる。
「これで栗見さんは動けない。もたもたしていると悪化する一方ですよ、このように」
「うっ」
「天和!?」
即座に近づき、ヨハネは天和の首を片手で締め上げた。細い首に五指(ごし)が食い込み、そのまま体が持ち上がっていく。
このままでは天和が窒息で死んでしまう。
迷っている時間はなかった。
「我が信仰、琢磨追求の祈りここに形(けい)を成す。我が神の威光よ、天地に轟き力を示さん」
神に乞う。信仰の証を示し、奇跡を要求する。
「神託物招来(しょうらい)。雷切心典光(らいきりしんてんこう)!」
友を助けるために、加豪は神に力を申請した。
加豪を中心にして猛風が吹き荒れる。雷雲に包まれたような炸裂音と閃光が加豪を覆い、神から貰い受けた神器、神託物を手に取った。
「ほう、神託物。ですが切れるのですか、この私を」
神託物を前にしかしヨハネは悠然としていた。理性が低下している狂信化のせいか、顔は挑発的な笑みすら浮かべている。
加豪は睨み付けたまますぐには動かない。狂信化しているとはいえ相手は担任の教師。親愛(しんあい)の情はある。
だが、加豪は琢磨追求の信者。他の者なら足を取られる迷いを振り切った。
「出来ないなら、初めから鍛えたりしない!」
加豪は駆け出した。狙いは天和を掴む片腕。自身の身長ほどある巨大な刀身を加豪は全力で振り下ろす。
「やはりあなたは素晴らしい」
「そんな!?」
「ですが、信仰心が足りないようだ」
しかし、攻撃が当たった瞬間驚愕が起こる。
斬れないのだ。腕を怪我しているとはいえ、目の前の現実が信じられない。
「どうして!?」
「どうして? 聡明(そうめい)なあなたには不似合な台詞ですね。分かっているはずだ」
驚愕する加豪をヨハネがたしなめる。天和から手を放すと、押し付けられている神託物を振り払った。押し返された加豪が地面に着地する。視線の先には、傷一つ負っていないヨハネが平然と立っていた。
「あなたの神託物を、私の神化(しんか)が上回っているのですよ」
「そんな……」
加豪は唖然(あぜん)となる。このようなことあり得ないが故に。
神託物がダイヤモンドならば神化(しんか)とは炭素の塊。両者をぶつければ砕けるのは炭素の塊が道理だ。しかし、炭素の塊をかき集め、強大な質量を用いればその例にはならない。
圧倒的な信仰心。加豪を以てしても到底及ばない神化(しんか)の恩恵(おんけい)。加豪が手に持つダイヤモンドでは、ヨハネの山のような炭素を断ち切れない。
量が質を凌駕(りょうが)した瞬間だった。
「加豪さん! 私たちのことはいいから、加豪さんだけでも逃げてください!」
「でも!」
「いえ、誰も逃がしません。皆さんにはここで死んでもらいます」
恵瑠が加豪に言うもののヨハネは許さなかった。残酷な言葉が三人に告げられる。
「時間がありません。残念ですが、そろそろ終わりにしましょう」
そう言うとヨハネは両腕を広げた。まるで誰かを受け入れ抱き締めるように。慈(いつく)しみの心を表すようにして、ヨハネは語り出した。
「全ての、疲れた者よ、苦しむ者よ、私のところへ来るがいい」
「これは」
反応したのは恵瑠だった。しかしこれがなんなのか、他の二人も理解する。
「争う者よ、剣を捨て、悩める者よ、責めるのを止めよ。私は、汝(なんじ)らの嘆きと悲しみがなくなることを、誰よりも願う者。この地上から、全ての痛みが無くならんことを祈る者」
それは神へと捧げる祈祷(きとう)。己の信仰を神へと示し、認められた者のみが手にできる奇跡の具現(ぐげん)。
「故に我らが天主(てんしゅ)イヤスよ、我が祈りに応えたまえ。救済の光にて照らしたまえ」
まるで聖書の朗読(ろうどく)を思わせる声調(せいちょう)でヨハネは言い終え、背後で無数の光が集まり像を作り出す。
「神託物、招来(しょうらい)」
結ばれた像は実体を伴って、ヨハネの信仰を称え上げるように出現した。
「神を見つめる深紅の天羽(スカーレット・エクスシア)」
光が弾かれる。そこから現れたのは羽を持つ女性だった。天井に届きそうなほどの体が宙を浮き、右手に巨大な剣を、左手には円形の盾を装備している。血に濡れたようなセミロングの髪はウエーブがかかっており、女性の顔立ちながらも瞳は戦意に満ちていた。純白の翼は広げれば体育館の端から端まで届くほど。全身を包む白衣が聖光に輝き、羽を持つ者の威厳を発していた。
「これが、ヨハネ先生の神託物?」
「そんな、大き過ぎます」
「……へえ」
脅威を目の前にして、しかし三人の口から出たのは称賛(しょうさん)だった。狂信化しているとはいえあまりに巨大。
紅白の羽を持つ者が加豪を睨む。瞬間、片手で扱う大剣が襲ってきた。大きさは三メートルを優に超えている。
「きゃああ!」
神託物で防ぐが勢いに吹き飛ばされる。地面に激突してからも引っ張られるようにして滑った。
「う……」
「では、お別れです」
ヨハネの言葉を合図に神託物が剣を振り上げる。斬るという表現では生易しいほどの破壊の一撃。照準は加豪に定まり、攻撃の合図を待っている。
「加豪さん、起きてください!」
「起きないと死ぬわよ」
二人が加豪を急かす。加豪も立ち上がろうとするが、腕を地面に突き立てるだけで体が持ち上がらない。加豪を助けようとするが恵瑠は足を負傷し天和にも術がなかった。
絶体絶命の窮地(きゅうち)。加豪は剣を構える神託物と、寂しそうに笑うヨハネを睨み上げた。
「さようなら……。許して欲しい、などとは言いませんよ」
「っく!」
ついに神託物の剣が動く。防ぎようのない一撃に加豪は震える拳を地面に叩き付け、悔しさの中で目を閉じた。
しかし。
それは訪れた。
「止めろぉぉおおお!」
ガラスを破る音と同時に叫び声が響き渡る。見れば差し込む光の中に人影があり、ガラスの破片と共に加豪とヨハネの間に降り立った。突然表れた人物に目が離せない。全員が注目し、現れた男子に三人は名前を呼んだ。
「神愛?」
「神愛くぅん!」
「宮司君、来たんだ……」
地面に着地した男子が起き上がる。その後ヨハネに正面を向け、怒号(どごう)が体育館に轟いた。
「俺の仲間になにしてんだテメエェエエ!」
驚愕と歓喜と期待の眼差しを受けて。天下界の無信仰者(イレギュラー)、宮司神愛は登場した。
「宮司さん……」
俺を見つめ、ヨハネ先生は驚いていた。いつも笑顔を絶やさない男が意外そうに見つめてくる。だが、反対に俺は怒り心頭だった。
「言っておくがなぁ、俺は今ブチギレてるぜ。なんだよこれはぁ!?」
目の前にはヨハネと武装をした巨大な女性がいる。そして周りには加豪や恵瑠、天和が倒れている。ここで何が行われていたのか一目瞭然だ。
「なんでこんなことをしてるんだ!?」
「神愛、逃げてぇ!」
そこで背後から加豪の声が聞こえてきた。振り向くとうつ伏せの加豪が顔を上げている。
加豪。ずっと学校に来ておらず姿を隠していた。もしかしたら加豪が事件の犯人かもしれないと思ったことがないと言えば嘘になる。
だけど、こうして出会って俺が思ったのは、怒りなんかではなく久しぶりに出会えた喜びだった。今も、加豪が犯人とは思えない。
そんな気の抜けた俺に、加豪が訴えた。
「早く逃げて! ヨハネ先生が、事件の犯人だったのよ!」
「え?」
その言葉に、頭を殴られたようだった。
ちょっと待て。ヨハネ先生が事件の犯人? 加豪の言葉に怒りも忘れる。否定しようとして、だけど出来なかった。そうだ、そもそもこの状況で何故その可能性を思わなかったんだ?
それは確信があったからだ。あれほど人に優しくて、俺にも接してくれたヨハネ先生が殺すはずがないって。
俺はヨハネ先生を見つめる。違うよな? 口にはせず視線だけを送る。
そんな俺に、ヨハネ先生は苦い表情を浮かべた。
「宮司さん。出来れば、あなたには知られたくなかった」
「嘘だろ……」
胸の中で、なにかが砕けていく。本人から肯定される。最悪の事態だった。それでも信じられない。いや、信じたくない!
「うそだろ? なあ!?」
返事はない。答えは無言。言外(げんがい)に伝えられる意味が、俺の抵抗を易々と打ち砕く。
「なんで……、なんでだよ! なんでよりにもよってあんたなんだよ!?」
信じられなかった。考えたこともなかった。
誰よりも初めに温かく接してくれた人。無信仰者の俺にも平等で、恩師という存在があるならそれはあんただ。黄金律を教えてくれたのもあんただった。
なのに、殺そうとしてきたのもあんただって!?
「なんで、だよ……!」
怒りの目で睨み付ける。だけど心は悲しくて、両手は悔しくて拳を作っていた。どうして? 元から無信仰者を敵視していた人間ならまだしも、どうして!?
そこで、質問したのは恵瑠だった。
「分かりません! どうして先生が? ヨハネ先生は慈愛連立の信者じゃないですか? それが神愛君を殺そうとするなんて!」
「その疑問、主張、ええ、よく分かります」
微笑みを保っているがヨハネの声は寂しそうだった。己の矛盾を自覚しているのか弁解すらしない。
「狂わなければ分からない。いえ、もとより仕組みが狂っているのですよ」
「……どういうことだよ?」
「あなたには、説明しなければなりませんね……」
ヨハネ先生の様子はおかしい。冷静そうに見えるが実は狂信化しているのかもしれない。その男が語る『狂っている』とは一体どういうことなのか。なによりどうして俺を殺そうとした? 俺たちは黙り込み、ヨハネの言葉を待った。
しかし、続いて出てきたのは、まったく予想外のものだった。
「宮司さん、あなたは『輪廻界(りんねかい)』をご存じですか?」
「輪廻界?」
言葉の意味でなら知っている。しかしそれはあくまで知識という話であって、俺は輪廻界を体験したことがなかった。何故ここでそんな話題が出てくるのか分からない。
答えようとするが、その前にヨハネは小さく首を振った。
「いえ、知らないでしょう。しかし我々、あなたを除くすべての人は知っています。輪廻界。それは始まりの地。まだ生まれる前、魂の時に誰しもが寄る場所なのです」
人々が生きている天下界。神々がいる天上界。その中間にある世界が輪廻界だと聞いている。
人は天下界に生まれる前、輪廻界で魂として誕生の準備を整える。それから晴れて人として生まれる。俺という例外はいるが、全ての人はそうした経緯があるらしい。
「そこには名もなき案内人というのがいましてね。その時の私たちは魂ですから、当然目もなければ耳もない。そのため印象は人それぞれで、ある者は男だとか、またある者は女性だとか。他にも老人、若者、子供と様々ですが、まあ、そうした存在がいるのです。そこで案内人は神理を説明してくれます。これは親や環境に左右されず、神理を自ら選べる配慮(はいりょ)である、と言ってね。なるほど親切。ですが、騙されてはいけない」
「騙される?」
穏やかじゃない。世界の仕組み、ひいては神にケチをつける言い方だ。どの神理の信仰者であれよろしくない発言だろう。そんな言葉、ヨハネが言うとは思わなかった。
「ええ。三つの神理を選べる、というのは逆を言えば、『三つしか選べない』ということなんですよ。私たちは三つの神理から一つの生き方を強要されているんです。しかし、選択肢を自ら選んでいるためにそこに気づけない。これが性質が悪い。神は神理を広げ、自らのことわり以外を認めない。宮司さん、あなたのような無信仰を許さない。では、神とは果たして寛容か?」
生き方を選択しているのではなく、強要(きょうよう)されている? そんな考え聞いたことがない。
だが、その視点から見れば神とは導く存在なんかじゃない。支配者だ。自分が認めたもの以外認めないとするのは我がままで、傲慢とさえ言える。
「思ったのですよ。神とは、もしかするととても我がままなのではないかと。そんな存在が広げる神理とは一体何か。不備(ふび)があって当たり前だった」
善意ではなくあくまで我意(がい)。愛他(あいた)ではなくしょせんは利己(りこ)。もしそうなら、建て前が救済だろうとボロが出る。完璧であるはずがない。
「慈愛連立。他者を皆が助け苦痛を無くす思想。私が信仰し、今も崇めている神理だ。だが、これも完璧ではなかった」
誰かが苦しんでいれば皆で助けるという神理。聞こえはいい。優しくて慈愛に満ちたものに感じる。だが、それでもヨハネは否定した。
「たとえばですね、皆で話し合って決めたのに、それで負担になっている者がいたとします。彼を助けるためには、彼以外の全員と敵対することになる。しかし、そうと分かっていても慈愛連立は他人の苦しみを助ける思想。目の前にある苦しみを助けざるを得ない。たとえ大きな問題の引き金になろうとも。それが慈愛連立。平和のためなら戦争も辞さない平和主義者。宮司さん、私はね」
ヨハネ先生は片手を胸に当て、心苦しい声で俺の名を呼んだ。いつもの笑顔は弱々しく、まるで懺悔室での告白者のようだ。
「あなたを救いたかった。皆から愛されるとまではいかずとも、受け入れられ、認められる世界にしたかった。だが、私には出来なかった……」
顔色を辛苦(しんく)に染め上げ、悔恨(かいこん)の思いが滴り落ちる。
ヨハネ先生が明かした言葉。そこに込められている思いに、俺は、胸が締め付けられた。聞いていて、地面に沈んでいくようだった。
知っていたんだ。保健室で話してから、ヨハネ先生が俺のために他の生徒へ注意をしたり指導したりしていたこと。俺を庇ってくれたこと。
『私なりにもっと努力しなければ』
そう言ってくれた、あんたの笑顔を今でも覚えてるッ。
だけど、変わらなかった。そうそう人の意識は変わらない。でも、それはヨハネ先生が悪いとか努力が足りないとか、そんなんじゃない! 人を変えるってことは、それだけ難しいんだ。仕方がなかったんだ!
なのに、真面目なあんたは、そんな自分が許せなかったのか?
「出来なかったんですよ! 説明しても説得しても、あなたを恐れる人はいるんです! それも大勢! では、皆の不安は、どうやって取り除けばいい……?」
初めは声を荒げ、最後にはすぼめる。情熱と諦観(ていかん)が入り乱れた心情を表すように、声が揺れていた。
「それで、ですか……」
これまでの話で全てを理解したらしく、恵瑠の悲しそうな声が響く。
ヨハネ先生の動機(どうき)。それは、あくまでも人助けの延長だった。皆の恐怖を無くすためだった。
「宮司さん……、あなたに、消えていただくしかないではないですか」
邪魔者をすら救いたいと願った。けれど周りはそうじゃなかった。ならばみんなのために、邪魔者は消しましょう。
それが、人を助け平和を作りたいとする、ヨハネの答えだった。
「私は慈愛連立の信者。平和こそが最優先事項だ。私はそのためならばなんでもしよう! 平和を維持するために死体がいるというのなら、私が用意しよう。私が殺そう。平和のために、犠牲を出そう! くっ、くくっ、はっはははははは! 平和のために犠牲がいるなど、なんという滑稽! 愚昧(ぐまい)! あっはははは! ハッハハハハ!」
そして、ヨハネ先生は壊れたように笑い始めた。だが、同時に泣いていた。きっと本人も気付いていない。心の奥底で号泣しているもう一人の自分に気づいていない。
人を助けるために人を殺すという矛盾。狂気としか言いようがない。
いや。
狂信。狂った信仰者が陥る暴走状態。善悪ではなく、神理で行動する狂気の傀儡(かいらい)。
そんな姿に、俺たちの誰一人掛ける言葉がなかった。
「なんだよ、それ……」
拳が震える。奥歯を噛み締める。目の前にいる、以前とは似ても似つかないヨハネ先生の姿に。その理由に。
『やはり、あなたは怒っているよりも、笑っている時の方が素敵ですよ』
いつも笑顔でお茶らけて、誰かの笑顔のために頑張ってる人だった。
『黄金律という思想の下、宮司さんは自らの道を手探りながら進んでいるのです。では、それを続けることです』
無信仰者の俺でも真摯(しんし)に相談に乗ってくれた。
優しい人だった。誰よりも尊敬できる人だった。こんなの本当のあんたじゃない!
なのに、なのに、なのにッ!
「あんたがそうなっちまったのって、ようは、俺のせいかよッ!?」
俺を助けようとしてヨハネ先生は頑張って、結果狂信化してしまった。俺がいなければ、こうなることはなかった。
俺が、狂わせてしまったんだッ。
「なあ、俺のせいなのかよ……?」
感謝してる。恥ずかしくて口には出来なくても、返せるものなら返したいとさえ思っていた。なのにこんなことになってしまった。無信仰者の俺は、自分だけじゃなく大切な人まで不幸にしてしまったんだ。
なんだそれ? 俺の人生ってなんなんだ? いつも嫌なことばかりで、それだけじゃなく、周りまで不幸にするってか?
「ふざけんなぁあ!」
思いを爆発させて、力の限り叫んだ。
「俺の人生は最悪だよ! 生まれた時から親には冷たい目で見られ、周りのガキからは石を投げられた。辛くて泣き叫んでも、誰も聞いてやくれない! 親しいやつなんか一人もいなかったんだ! 分かるか? 一人もだぞ!?」
孤独の世界で疎外感(そがいかん)と憎しみだけを植えつけられた、そんな存在。それが宮司神愛ってやつだった。
「最低の人生だ! 公園の便所の底よりも居心地が悪い! ずっと一人で、周りは嫌がらせしかしてこない。唯一傍にいてくる女もいたが、そいつは友達にはなってくれないし。だけど友達になるために頑張った」
ずっとそばにいてくれて、俺を支えてくれる人がいた。その人を救うために頑張った。
「自分なりに努力して、したこともない愛想笑い浮かべてさ。だけど不気味だと批評食らって苦笑いさ。それでも頑張って頑張って頑張って。そしたらどうだ? 気づいたら、いつの間にか仲間がいたんだ。嘘みたいだろ? 俺みたいな人間でも、誰かを信頼できたんだ! 信仰者とは分かり合えないって信じてた俺が! ……だっていうのにそいつらときたら、ハッ、なんだ? 刃物を振り回すヒステリック女に真性のアホ、セットにはウサギに欲情する変態女だぞ! 俺の人生どーなってんだ!?」
「ちょっと! 誰がヒステリック女だって!?」
「神愛君、それはひどいと思います!」
「宮司君……、もっと言っていいわよ」
「おまけにだ! 何が最悪かって!」
最悪だと思っていた人生でも、輝いていた時間はあった。出会いがあった。それは加豪や恵瑠、天和だけじゃない。人生を変えるほどの素敵な出会いはもっと前。
「俺の人生の中で、唯一の良心と言ってもいい!」
その出会いに感謝した。これほど素晴らしい人はいないと思えるほど尊敬した。だからこそ辛かった。想いは溢れて、涙がこぼれた。
最悪の人生で、それは奇跡のような出会いだったから。
「あんたが俺を殺そうとしていることだ! これはなんのクソジョークだよ! 俺は、俺はあんたならいいと、本気で思ってた! なのに、くそったれ……! 俺の人生っていうのは、いつだってこんなんかよ!」
胸に収まりきらない思いが頬を伝って地面に落ちる。感謝していた。それだけに、現実は残酷だった。
「ありがとうございます、宮司さん。しかし、あなたには消えていただくしかない」
思いを受け取ったヨハネ先生が感謝を述べる。だが、方針までは変わらなかった。
「……他の三人はどうするつもりなんだ?」
「私があなたを殺したことを口外(こうがい)されれば平和が乱れる。ならば、あなたと共に殺すしかありません」
「あんたの目的は俺を消すことだろ? ならこいつらは関係ないはずだ! …………俺が退学する」
「神愛!?」
「神愛君!」
「宮司君……」
俺のセリフに三人の声が聞こえる。でも、これしかない。
「待ちなさいよ神愛! あんた、それでいいわけ!?」
しかし加豪が大声で止めてきた。許せないのか、必死な声が背中にぶつけられる。
「仕方がないだろう! 無関係なのに、これ以上他人のお前らを巻き込めるか!」
「ふざ、けるなあ!」
「なっ!?」
返ってきた加豪の叫び声に驚いた。こっちは心配で言ってんのに、なんで怒られたのか分からない。
振り返れば、加豪は今も倒れている。痛々しい姿だが、加豪は動き出したのだ。さらには体を持ち上げ、立ち上がった。
「あんた、今までなんのために頑張ってきたのよ? どれだけ我慢してきたのよ? それが、全部無駄になってもいいわけ!?」
髪は乱れ表情は痛そうに引きつっている。重傷の有様だが、加豪は一歩を踏み出した。
「私たちのこと、どう思ってるの? あんたが犠牲にならないと守れないほど、弱いって思ってんの?」
ゆっくりと加豪が近づいてくる。まるで赤ん坊のようにゆっくりと。驚く速さじゃない。だけど目を奪われた。怪我を引きずり歩く姿が、一歩を踏み出す足が、熱い思いを伝えてくるから。
動けない。その気迫に、気圧される。
加豪は挫けそうな体を支えて、再び叫んだ。
「もっと信じなさいよ! 無信仰者だって、『友達』なら信じられるんでしょう!」
「!?」
気づけば、加豪は目の前にいた。ここまで来るまでどれだけの痛みに耐えたのか。それでも加豪は辿り着き、神託物を持った手とは反対側。負傷している腕を振り上げた。
「無関係とか言うな! 他人なんて言うなこの、バカァッ!」
それは平手などという可愛ものじゃない、本気の拳骨だった。頬に拳がめり込み体が傾く。だが、すぐに胸倉を掴み引っ張られた。顔が近づく。息が鼻に当たるほど、加豪の顔は目の前にあったんだ。
「私たち、友達なんじゃないの?」
真っ直ぐ加豪が見つめてくる。痛みも忘れて、見入る。
「とも、だち……」
そう言われた時、胸が震えたんだ。
無意識に使うのを避けていた。だってそれは、絶対に手に出来ないと思っていたから。
昔から、ずっと友達が欲しいって思ってた。周りが羨ましくて、憧れて。俺もあんな風に笑えたらどれだけ楽しいだろうって。だけど俺は無信仰者で周りは信仰者ばかり。だから思っていた、俺に友達なんて絶対に出来ないって。
なのに。
「違うの?」
「それは……」
言葉に詰まる。俺は加豪の視線から逃げて、二人に振り向いた。
「おい、お前らはいいのかよ! こいつにこんな勝手言わせてて!?」
倒れている二人に聞く。無信仰者で、誰からも嫌われてて。ずっとこうだと思ってた。そんな俺でもいいのか?
「神愛君、なにか誤解してませんか?」
そう言う恵瑠は、足の痛みに耐えながら笑っていた。ものすごく痛いはずなのに。
「仲良くなれたって、言ったじゃないですか。あれ、友達って意味なんですよ?」
「て、天和はッ!?」
「ずっ友」
相変わらずの無表情で、天和もそう言ってくれた。
加豪が俺から離れる。それで三人を見渡した。俺のためにここに来てくれた、三人の顔を見つめる。
「お前たち、俺を友達だと、言ってくれるのか……?」
質問に、加豪は不敵に笑い、恵瑠は微笑み、天和は頷いた。
「当然でしょ」
「神愛君、ボクたちもう友達ですよ!」
「宮司君、……私たちは愛の同志よ」
この際天和の言葉は無視しよう。
嬉しかった。手にしたかったものが、いつの間にかできていたんだ。出来ないと思っていたものが、出来ていたんだ。
「ねえ神愛、あんたがどれだけ頑張ったのか、私は知ってる。みんな知ってる。だから諦めるな! ねえ、あんたの望みってなに? 本当は、どうしたいの?」
「俺は……」
「これでいいの?」
問いに俺は悩んだ。自分はなにがしたくて、なにが欲しかったのか。
「友達になりたかったんでしょう? なら、あんたがするのはこんなことじゃない。神愛の望みはなに!?」
「俺はッ!」
俺が欲しかったもの。ずっと願っていたもの。それは友達だ。では、誰に友達になって欲しかったのか。誰よりも身近にいて、最も親しく接してくれた人とは誰なのか。
それは、彼女だ。
金髪のショートカットをした女の子、ミルフィアの姿が頭の中に現れた。聖女のような気品があって、微笑む姿は誇らしそうで、たまに幸せそうにはにかむ少女。彼女と、俺は友達になりたかったんだ。
しかし、ミルフィアとどうやって友達になればいいのか。俺でも出来ることとはなにか。思いつくものは少ないが、しかし決してないわけじゃない。俺にもできて、友達を作れる唯一の方法。
黄金律。
自分がされて嬉しいことは相手にもしてあげる。それをすればミルフィアとも友達になれるかもしれない。では、ミルフィアが望んでいるものとは?
「あ」
そこで気づいた。初めて気が付いた。こんなにも簡単。答えは初めから知っていたのに、ずっと気づけなかった。
そう、答えなど分かり切っている。ミルフィアの望んでいること。それはたった一つ、昔からたった一つだけだった。
奴隷になること。ミルフィアはそれだけを願い続けていたんだから。
でも、ミルフィアを奴隷にしようとはしなかった。それはひどいことだから。
友達になって欲しかった。ミルフィアは奴隷として扱って欲しかった。互いに相手を思いやり、結果すれ違って叶わない。まるでコインの裏表だ。相手を大事に思っているからこそ、二人はずっとすれ違ってきたんだから。
「そろそろよろしいですか?」
俺と加豪の問答が終わった頃合いを測り、ヨハネ先生が声を掛けてきた。背後から聞こえるそれは攻撃の合図でもあり、死刑執行の告知(こくち)でもあった。
「宮司さん、あなたはどこまでいっても無信仰者だ。あなたを野放しにすればその場で争いが起こりかねない。残念ですが、私の結論は初めから変わりません」
ヨハネ先生の後ろで神託物が大剣を振り上げる。天井に当たるすれすれまで持ち上げ、殺意に満ちた目が睨み付けてくる。
「それでは、さようなら」
「神愛!」
「神愛君!」
「宮司君?」
剣が振り下ろされた。一撃必殺の重量が頭上に落ちてくる。
「俺は!」
その最中、俺は悩んでいた。見つけた答えをどうすればいいのか。奴隷の肯定、認めがたい望みを叶えてしまっていいのか。
しかし、それこそがミルフィアの願いなんだ。俺が友達を望む気持ちと同じように、あいつも奴隷を望んでいるはずだから。望みを叶えてあげれば、人は喜ぶ。
自分がされて嬉しいことは、人にもしてあげる。
それこそが、黄金律の教え。
「命令だ!」
俺は、叫んだ。大声を轟かせ、目前まで迫る大剣を見上げて命令する。
「俺を助けろ、ミルフィアぁあああ!」
腹の底から声を張り上げて言葉を発した。ここにはいない者に向けたその命令。虚空(こくう)に発せられたそれに、本来ならば返ってくる答えはないはずだ。しかし――
それは聞こえた。澄んだ声音(せいおん)は鈴のよう。救済に応える声は福音のようで、俺の前に現れた。
「我が主、あなたがそれを望むなら」
瞬間、鼓膜(こまく)を震わすほどの爆音がした。さらには地震のように体育館が揺れたのだ。なんとか姿勢を正すと、視線のその先。そこには大剣を片手で防いでいる、ミルフィアの後ろ姿があった。
「ミルフィア……」
華奢(きゃしゃ)な体には傷一つなく、それどころか何トンあるかも知れない大剣を悠々(ゆうゆう)と片手で受け止めている。地面は衝撃にへこみ床が割れていた。
「馬鹿な!?」
ミルフィアの偉業にヨハネが驚愕する。それは俺たちも同じだった。神託物の一撃を受けて無傷なんて、本来ならあり得ない。しかし起きた。なら考えられるのは一つしかない。
上回っているんだ、ヨハネの神託物を、彼女の神化(しんか)が。
圧倒的信仰心。狂気を超えた、神域とさえ言っても過言ではない究極的な信仰。それによって体現(たいげん)する神化(しんか)。
ミルフィアが掴んだ大剣を押し返す。それだけで爆発でもしたかのように刀身が弾かれた。
俺はミルフィアを唖然(あぜん)と見つめるが、ミルフィアは振り返り近づいて来た。優雅(ゆうが)な足取りに淀みはなく、この状況でも平静は揺るぎもしない。そのまま俺へと近づくと、その場に片膝をついた。
「我が主の命により、ミルフィア、参上しました」
平然と、それが当たり前のようにミルフィアは俺へと告げる。
ミルフィアは跪(ひざまず)いている。誇りすら感じているような微笑みも、美しいほどの金髪も、立派な臣下(しんか)の姿勢も、何一つ変わらないミルフィアがここにいる。
そんなミルフィアを見下ろして、だけど、俺は、我慢出来なかった。
「どうして、出てきたんだよ……」
ミルフィアの顔が、ゆっくりと表を上げる。
自分で命令しておいて矛盾した発言だが、それでも言わずにはいられなかった。
悲しかったんだ、悔しかったんだ!
「どうして出てきたんだよ! お前、俺にあれだけひどいこと言われて、俺のこと憎かったんじゃないのか? 殴りたいほど怒ったんじゃないのかよ! なのに、呼ばれただけでまた出てきやがって。そんなんじゃお前、お前……、本当に奴隷だぞ……?」
俺の言葉を静かに聞いている。その様子に怒りも憎しみも見られない。そんなミルフィアだからこそ、心が痛んだ。
「分かってんのか!? 奴隷ていうのはな、むごくて辛くて、悲惨で。なにを思っても踏み躙(にじ)られて。生きてるのかも死んでるのかも分からない、最悪の生き方なんだぞ! おまけに、お前が主だと言ってる男は無信仰者だぞ? 信仰してる神もなければ取り柄もない。出来ることなんかなんにもない、そんな奴の奴隷だぞ!?」
訴える。目の前の少女に向かって、奴隷の意味を教える。
「お前、そんなんでいいのかよ!?」
「はい」
返事に、絶句した。何故なら、ミルフィアは最高の微笑と共にそう言ったのだ。
ミルフィアの表情は輝いている。瞳はきらきらと光っているようで、主である俺に思いを伝えてくる。
「我が主。あなたのために生きる。あなたのために死ねる。これほどの幸福がありましょうか」
それは悲しいほどに真っ直ぐで、憐れなほどに眩しくて、息が苦しくなるほどに純粋だった。
「私にとっての幸福とはあなたへの忠信に他なりません。故にどうか我が主、私に命を。この身が砕け消えようと、私はずっとあなたの奴隷でいたいのです」
支配されれば自由を求め、隷属(れいぞく)されれば平等を訴えるのが人間だろう。しかし彼女は心のある人でありながら奴隷を選ぶ。俺を主と崇め、真摯(しんし)かつ全霊の誓いを示す。
「そして」
するとミルフィアは言葉の途中に間を置いて、再び畏(かしこ)まって目線を下げた。
「畏(おそ)れ多くも古の王、我が主に、ミルフィアから進言(しんげん)申し上げます」
普段とはどことなく雰囲気の違う言葉に、つい身構えてしまう。
「我が主に、出来ないことなどありません」
それはかつて、以前にもミルフィアに言われた言葉だった。俺ならなんでも出来るとミルフィアは言う。気休めとかではなくて、そうであると確信しているように。
「かつて、この世界には一柱(いちはしら)の神がいました」
「ミルフィア?」
突然話題が変わる。
「神は一人のために退屈でした。そのため、神は退屈を紛らわせようと、自分がいる世界とは別の世界を創り、そこに自分と似せた人間を創り住まわせます。そうして神は人々の生活を見て楽しんでいました。ですが、いつしか自分も人となって生きてみたいと思うようになりました」
ミルフィアの話し方は作り話を聞かせるというよりも、思い出話を聞かせるようだった。口調は温かかく、懐かしむように頬が緩んでいたのだ。
「神は人である自分が困らぬよう、女性の付き人を創ります。また、何度も人生を繰り返せるよう転生(てんせい)の仕組みである輪廻界(りんねかい)を作りました。その後、神は人となって、付き人と共に別世界に下りたのです。そこで人としての生を楽しみ、死んだ後、魂は輪廻界(りんねかい)へと昇り、また新たな命として誕生します。そうして神は何度も人としての生を楽しんでいたのです。……ですが」
しかし、急に口調が冷たくなった。ミルフィアの表情は険しくなり敵意すら滲(にじ)ませていた。
「そうして神が別世界にいる間、神の留守をいいことに、三人の人間が神の世界を横取りしたのです」
「それって」
ミルフィアの話す内容はよく分からないが、最後の言葉には心当たりがあった。三人の人間が神の世界にいること。それは天下界の人間ならば常識だ。
ミルフィアが起き上がる。そして視線を天井へと向けた。けれど見ている先は天井ではなく、天井を突き抜け空より高く、宇宙すら超えたその先――天上界(てんじょうかい)を見ているようだった。
「見ているのでしょう、イヤス、リュクルゴス、シッガールタ。人の身で神を気取る不届き者よ。古(いにしえ)の王は帰還した。これが、貴様ら偽神(ぎしん)の終焉(しゅうえん)と受け取るがいい」
言葉の矛先はここにはいない者へと向けられ、その相手へと痛烈(つうれつ)な批判を突き付ける。天上の神に対してあまりに不遜(ふそん)。畏(かしこ)まるどころか、侮蔑(ぶべつ)すら露わにして言い切った。
「我が主」
視線が俺に移る。親愛と敬意の情を乗せた瞳が見つめている。
「あなたに前世の記憶はありませんが、私は覚えています。あなたに、出来ないことなどありません」
そう言うと、ミルフィアは右手を伸ばしていた。
「いえ、あるはずがないのです」
「ミルフィア、俺は」
ミルフィアの言葉に戸惑う。それでもミルフィアの右手は手の平を向けて、今も近づいてくる。
俺には分からない。自分が何者なのか。何故無信仰なのか。それでも近づいてくるミルフィアの手に合わせて、躊躇いながらも手を伸ばした。
二人の手が近づく。そして、指は触れ合った。
「何故なら、あなたがこの世界を創ったのですから」
瞬間、脳裏(のうり)で何かが爆ぜた。大容量の知識が脳を圧迫し、すぐにどこかえと消えてしまった、瞬間的な再起(さいき)記憶。何が起こったのか分からない。けれど、己の深奥(しんおう)で、確かに何かに触れたのだ。
目の前には、ミルフィアがいる。
「我が主、私に命を」
口にするのはそれだけ。でも、それだけで十分だった。
「ミルフィア」
力強く彼女の名を呼び、するべきことを告げる。
「ヨハネ先生を止めるぞ」
「はい、主」
ミルフィアが頷く。俺も頷く。やるべきことを確認し、達成するために行動する。
ミルフィアは頷いた後、身体が光の粒子となって散っていった。無数の欠片が空間を駆け巡る。この現象に驚きの声が上がる中、俺は当然のことのように受け止めていた。
そして、ミルフィアの光が俺の背後で結集していく。みるみると元のミルフィアが復元されていくが、身体は半透明で宙に浮いていた。俺を守護する聖霊のように、見守り威光を発している。
「いくぞミルフィア!」
片手を突き出す。同じようにミルフィアも前に出す。動作は連動しておりシンクロ率は百パーセント。
俺は己を世界に広げるようにして、神威(かむい)を宿した言葉を上げた。
「至高(しこう)の信仰。それは神と出会うことである」
『おお、古き王よ。我らが主は舞い降りた。古の約束を果たすため』
それは屋上でミルフィアが歌った詩だった。俺の言葉にミルフィアが続く。二人で紡ぐ約束の歌(デュエット)が世界を変えていく。
「信じることはない。ただ感じよ、神はここにいる」
『我らは仰ぎ天を指す。己が全て、委ね救済をここに願おう』
俺にミルフィアの光が集まる。すると髪が変色し服装まで変形していった。髪はミルフィアと同じ金髪。学校の制服は純白の外套へと姿を変える。
この変化に当然三人も驚いた。目は驚愕に見開き口は唖然(あぜん)と閉じる。加えて、
「神は聖者(せいじゃ)と愚者(ぐしゃ)の区別なく、愛し汝(なんじ)らを率いらん」
『天が輝き地が歌う。黄金の時は来たれり』
ミルフィアの言葉の後、俺たちを包むようにして黄金の炎が出現したのだ。一面に広がり壁を作る様は金塊のようであり、舞い上がる火の粉は金粉を思わせる。
「嘘!?」
「神愛君たちから炎が。でも、不思議と熱くない、むしろ」
「……温かい光ね」
三人は、現れた奇跡の御業(みわざ)に魅入っていた。それは万人に通じる至高(しこう)の輝き。
「原初(げんしょ)の創造が汝を導く。謳(うた)え、黄金の威光を!」
『おお、我が主。あなたがそれを望むなら!』
大気は歓喜にうねり、大地は喝采(かっさい)に震えた。四人はこの時、神を知る。
天下界に新たな理(ことわり)が誕生する。普遍(ふへん)の思想が世界を覆う。ここに、第四の神理が顕現(けんげん)する――
「『王金調律(おうごんちょうりつ)・思想統一(しそうとういつ)』」
第四の神理――王金調律(おうごんちょうりつ)。自分がされて嬉しいことは相手にもしてあげ、自分がされて嫌なことは相手にもしない思想。誰しもが相手を喜ばせ嫌な思いをさせないことで、苦しみはなくなり皆が幸せとなるでしょう。
それが第四の神理。王金調律(おうごんちょうりつ)。
目覚める神の息吹(いぶき)がこの場に充満する。空間すら震える様子はまるで胎動。生まれ出る鼓動に合わせて金色の炎が揺らめく。
さらには、左腕にまかれる腕章に変化が生じた。無印の生地に新たな信仰が刻まれたのだ。
それは第四の神理を表す印。富と権力の象徴、ダイヤを浮かべ、宿す色は王の証である黄金の輝き。
赤でも白でも緑でもない。王金調律(おうごんちょうりつ)の加護を受け、俺は新生(しんせい)していた。
「なにが、どうなっているのだ……?」
この場の誰しもが驚愕していた。狂信化しているヨハネですら目の前の事態に困惑している。
俺は金髪で白の外套を羽織り、黄金の炎を一帯に纏っているんだ。何より、無信仰者だった腕章に、見たこともないダイヤの印が輝いている。
「王金調律(おうごんちょうりつ)? 聞いたことがない。第四の神理? まさか、ある訳がない!」
俺が口にした新たな神理の名前を否定する。これが神理であるはずがないと。
そもそも、神理のでき方とは思想を神域にまで高めることで神になること。この一つしかなかった。しかし俺は黄金律を本当の意味で理解した瞬間に神理にしたのだ。順序がおかしい。
これではまるで、『思想がなかった神が、思想を得たことで神理になった』かのよう。
「あなたは、初めから神だったというのか?」
信じられないが可能性はある。ヨハネ先生は怖気(おじけ)ついた様子を見せるも、狂った信仰心が逃げることを封じていた。
「だが、相手がなんであれ私がやることは変わらない。平和のために、異物は世界から消えるがいい!」
ヨハネの号令(ごうれい)と神託物の咆哮(ほうこう)が合致(がっち)する。彼女の一刀が狂気と共に襲いかかる。
だが、同時に俺も動いた。
神理とは人を導く真理。そのために自分ではなく他者へと強制するものであり本来とは真逆の現象が現れる。通常ならば自分がされて嬉しいことは人にもしてあげ、嫌なことは人にもしないというのが黄金律だが、神理になったことにより、自分がされて嬉しいことを『しろ』、自分が嫌がることは『するな』に変わる。
黄金の炎が俺を包み込む。『嬉しいことをしろ』を行なうために。黄金の炎は俺を覆い強化していった。強度が、硬度が、速度が、際限なく上昇していく。
目前にまで迫る羽を持つ者の一閃(いっせん)。直撃を前に、一瞬でヨハネ先生の側面に移動していた。瞬間移動すら思わせる高速度に、ヨハネは目でも追えていなかった。
「そこかッ」
俺を見つけ二撃目が振るわれる。即座に刺突が放たれるが、今度は満足に振るうことすら出来なかった。
「なに!?」
黄金の炎はツルのように神託物に巻き付き、鎖のように束縛(そくばく)していた。攻撃を妨害(ぼうがい)され動きが鈍る。
「遅すぎるぜ」
俺は余裕で回避し元の位置に戻る。
表情には高揚(こうよう)も憐憫(れんびん)もない。ただ黄金に輝く火柱が俺を称賛(しょうさん)していた。
ここにきて、ヨハネ先生も黄金の炎の正体に気づいたのか顔を苦くする。
黄金の炎は王金調律(おうごんちょうりつ)の体現(たいげん)に他ならない。敵がいれば妨害し、存在するだけで俺を無限に強化していく。
俺はさらに黄金の炎を体育館中に広げた。ヨハネ先生だけでなく加豪たちも炎にさらされるが、黄金の炎に熱はなく、むしろ温かい。光に抱かれるように加豪たちからは安堵(あんど)の表情が漏れていた。それだけでなく、起こった変化に加豪と恵瑠が反応した。
「腕の怪我が、治っていく?」
「すごい! 痛みが引いていきます!」
王金調律は他の神理とは違い二つの属性を持っている。嬉しいことをして、嫌なことはしない。強化と妨害。強化は治癒(ちゆ)としても働き怪我を治していった。
それだけじゃない。俺は腕を天に翳(かざ)し、攻勢(こうせい)に転じる。
「我が神造体(しんぞうたい)、ミルフィアに命ずる」
ミルフィアは神託物じゃない。神託物とは神が信者に与えるもの。神が自分のために作ったものを、神託物とは呼ばない。
「はい、我が主」
俺からの呼びかけに幸福そうに返事を行ない、ミルフィアは腕を上げる。そして、神を補助するために作られた、神造体(しんぞうたい)としての力を発揮(はっき)する。
「異教徒に、我が理(り)を布教(ふきょう)せよ」
「我が主の、命ずるままに!」
神理を補助するための真理。ミルフィアが抱く絶対の信仰であり信念が力となって発現する。
思想(しそう)統一(とういつ)。多神(たしん)世界において俺しか崇めない、それ以外を認めない一神教(いっしんきょう)的信仰。それがミルフィアの思想だった。そして思想を広める方法など古今東西、二つしか存在しない。
すなわち、『布教』か『弾圧』。
ミルフィアの指先から金色のベールが幾重(いくえ)にも重なり上空に広がっていく。波紋(はもん)が伝わっていくようで宙が震えているようだ。
ミルフィアは布教を行ない金色の輪が広がる。それはヨハネ先生の頭上にも及び、瞬間、ヨハネ先生が苦悶(くもん)を浮かべた。さらには神託物、巨大な羽を持つ者が小さくなっていく。
「これは、まさか、私の信仰心が低下している!?」
信仰心が強くなればなるほど神託物は強くなる。反対に弱くなればその分弱くなる。ヨハネ先生は布教の影響で、『弱体化』していた。
神託物の彼女はヨハネ先生と変わらないほどの大きさまで縮まり、攻撃はおろか、妨害の炎で身動き一つ取れない状況にまで陥(おちい)っていた。
まさに格好の的。勝負の趨勢(すうせい)は決し、神の一撃が幕を下ろす。
「ミルフィアに命ずる」
王金調律による強化と妨害の二重属性。思想統一による弱体化と弾圧による攻撃の二重属性。二つを合わせて今や四重属性。その最後の力を振り下ろす。
「我が理(り)に反する愚者を、弾圧せよ!」
「我が主」
命令に、ミルフィアは一度深く瞼を閉じた。黄金に輝くこの時を胸に刻み込んでおくように。俺に命じられ全うする。幸福の一瞬を噛み締め味わい尽くすように。極まった至福(しふく)の時間に身を震わせて、ミルフィアは瞼を開いた。
「はい。あなたがそれを望むなら!」
前に伸ばしたミルフィアの手に黄金の粒子が収束してく。球体を作り大きくなっていく。
頭上にはいくつもの金の輪が広がり、地面は黄金の炎が覆っている。すでに、この空間そのものが金で染め上っていた。この光景に見る者は言葉を失い神の偉大さを知るだろう。
天が輝き大地が歌う。黄金の時は来て、世界は神の威光を謳う。
俺は力強く、拳をヨハネに突き出した。
「いけぇええ!」
狂気に捉われた信仰から解放するべく、黄金の輝きが異教徒を弾圧する。ミルフィアがかき集めた黄金は巨大な円形となっており、弾けるようにしてこの場を覆った。
炎熱の爆発。破壊の業火。建物や他の三人に被害はなく、俺の望むものだけを燃やし尽くす。
視界は黄金一色に染まり、俺は温かな光を全身に浴びていた。次第に音も熱もなくなっていき、自分が黄金と一つになっていく。世界と同化し、自分も黄金の一部になっていく錯覚を感じていた。
そうして、気が付けばいつしか視界から炎が退いていた。目の前には炎どころか黄金の欠片もなく、気絶しているヨハネ先生が倒れていた。神託物は消えたようでどこにも見当たらない。脅威は去り、勝負は終わった。
「終わった、んだよな……」
両手を見つめてみる。服装は元の制服に戻り髪も黒くなっていた。
終わった。ようやく追いついた実感に疲れもが襲い掛かる。
「主」
「え?」
声を掛けられ振り返る。そうか、そうだよな。俺が元に戻ったんだから、お前もそうなるよな。
俺の背後には、片足をつき胸に手を当てている、ミルフィアが頭を下げていた。表情は微笑んでいる、俺の命令を果たせた幸福を感じているように。
まったく嫌になる。お前を笑顔にしてやろうといろいろ頑張ってきたというのに、こんなことであっさり笑いやがって。
そう思っていると、ミルフィアはゆっくりと俺を見上げてきた。
「私はあなたの奴隷。ですので、いつでも命令してください」
殊勝(しゅしょう)な奴隷だ。でもなミルフィア。俺は諦めないぜ。
俺はミルフィアに近づくと、肩を掴み、跪(ひざまず)くミルフィアを立ち上がらせた。そして、抱き締めたんだ。
「主!? いけません!」
「いいから!」
華奢(きゃしゃ)な体を今一度抱き締める。小さい背中に腕を回し、顔を胸に押し当てる。こんなにも小さな体で、ずっと俺のために働いてくれたんだよな。
「ありがとうな、ミルフィア」
感謝は一言。学のない俺にはこれが精一杯だ。もしかしたら他に相応しい言葉があるかもしれないが、あいにく、今はこれしか言う言葉が思いつかない。
はじめは抵抗を見せていたミルフィアだが、次第に落ち着き大人しくなっていった。そして俺に合せるように、背中に腕を回してくれたんだ。
「我が主、私はあなたの傍にいます。ずっと、例え来世(らいせ)でも」
声調(せいちょう)は温かく、穏やかで。これがきっと黄金律で築いた、彼女の喜びなんだろう。
「我が主、あなたに永遠の忠誠を」
こうして俺を襲った事件は幕を閉じた。三人の友人と、一人の奴隷に助けられて。
手にした黄金(ゆうじょう)は、胸の中でいつまでも燃えていた。
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