第4話 第三章 己を信じろ

 第三章 己を信じろ


「ある……、るじ……」

「うーん」

 寮のベッドで横になる中、瞼越しに光を感じる。温かい空気と小鳥のさえずりを感じるが、そこに混じって別の声が聞こえてきた。

「主、起きてください!」

「あともう少し~……」

 今いい気持ちなんだ、このままにしてくれよ……。

「主、遅刻します!」

「遅刻!?」

 が、次の一声で跳び起きた。体を勢いよく起こし布団を蹴り飛ばす。すぐ隣を見れば、先に起きていたミルフィアがいた。

「しまった、寝過ごしたのか。もう間に合わねえか?」

「いえ、急げば今からでも」

「分かった」

 未だに眠気が残る意識をたたき起こす。洗面台で歯を磨き乱れた寝癖を直す。それが終わると急いで学生服に着替えた。俺が着替えている最中、ミルフィアは学生カバンを持ち玄関前で背を向けて待っていてくれた。

「悪い、それじゃあ行くぞ」

「待って下さい主、ネクタイが曲がっています」

「お、おお」

 用意が終わり、すぐにでも出て行こうとするがミルフィアに止められた。慌てて作ったネクタイを注意されミルフィアが結び直してくれる。ミルフィアの顔が胸の前にあり、距離がグッと近くなった。

「わ、悪りい」

 ミルフィアの手がネクタイを結んでいる。すぐ近くに頭があり、覗き込んでみれば真剣な表情だ。

「……ん」

 やばい、なんかドキドキする。

 俺はミルフィアの顔を覗き込む。澄んだ空色の瞳は胸元に注がれており、小さな唇から吐かれる息が微かに当たる。

 やっぱり可愛いよな。

「どうかしましたか、主?」

 ゲッ!

「あ、その」

 ミルフィアが見上げてくる。なんとか誤魔化そうと咄嗟(とっさ)に出てきたのは、

「そういえば、もうすぐ俺たちが出会った日だったよな。覚えてるか?」

「はい、明日です。初めて会った時の主は、たしか泣いていましたね」

「うるせえよ」

 ミルフィアが小さく笑う。俺は口先を尖らせるが、そんな様子を見ているとまあいいかと思えてくる。

 一瞬誕生会のことを話そうかとも思ったがそれは止めておいた。きっとミルフィアは否定する。奴隷にそんなものは不要だと。だから俺は胸に留め、言い掛けた口を噤(つぐ)んだ。

 そうこうしている内にミルフィアは作業を終え、ネクタイをキュッと締めてくれた。

「ありがとな」

「いえ、当然の務めです。その、主」

「ん?」

 ミルフィアが何かを言い掛ける。俺はなんだろうかと見つめ返すが、見上げる瞳は不安そうに揺れていた。そのまま言い掛けた口は閉じてしまい、瞳は諦めたように細められてしまう。

「いえ、なんでもありません。それでは行ってらっしゃいませ。私は消えていますが、何かあれば呼んでください」

 ミルフィアが小さくお辞儀をする。見送る姿勢はこれからも共にいるはずなのに、一緒にはいられないことを告げていた。

 ミルフィアの誕生会のことを知られるわけにはいかない。それ以前に、ミルフィアは学校の生徒じゃないんだ。そのため学校にはいられず、いつも消えていなければならない。その間、ミルフィアはずっと一人だ。

 ごめん。なにがごめんなのか分からないけれど、俺は胸の中で謝った。

 こうも自分に良くしてくれる彼女が友達もできず一人でいる。こんな同情ミルフィアは望んでいないだろうが、それでも俺は思ってしまう。

 ミルフィアにも、友達ができればいいのに。そして、誰よりも笑って欲しいんだ。

 ミルフィアの誕生会、それでミルフィアに友達ができないだろうか。それなら今よりも笑顔が増えるだろうし、俺以外に接点を持てば奴隷なんて生き方も止めるかもしれない。

 そう思うと俄然やる気が出た。今日この日に集めないといけないんだ。

 誕生会の参加者を。


 それから激走の末、遅刻前にクラスへの入室を果たしたことに胸を撫(な)で下ろす。まあ、クラスメイトからの不審(ふしん)な眼差しには未だ慣れないが。

 そして一限目の授業が終わり、俺はミルフィアの誕生会を開かんがために動き出した。

 まずはなんと言っても人数だ。俺とミルフィアの二人だけで誕生会とか洒落にならん。

 使命感に突き動かされて、俺が最初に向かった先。そこは、

「なあ、今いいか?」

「ファッ!?」

 一限目が終わったばかりなのに何故か早弁している栗見恵瑠だった。

「てか、お前なに食ってんの?」

「お弁当」

「知ってるわ」

 見れば分かるわそんなこと。

「そうじゃなくて、まだ学校始まったばかりだぞ? よく食えるな」

「だって朝食べてないからいいかな~て」

「周りは気にならないのか?」

「周り?」

 それで恵瑠は弁当を両手に首を回した後、何事もないかのように見上げてきた。

「周りがどうかしたんですか?」

「いや、もういいわ」

 こいつある意味すげえな。

「それで、ボクに何か用ですか?」

「その、用っていうかさ」

 恵瑠が不思議そうに見上げてくるが、そんな彼女になんと切り出したものか、正直困る。

 だが、言葉でどれだけ誤魔化しても言いたいことは結局言うんだ。なら直球でいいだろう。

「実はな、ミルフィアっていう女の子がいるんだ」

「あ。あの金髪のきれいな子ですよね?」

「ああ、そいつだ」

 照れ隠しに頭を掻く。一体どう言えばいいか。ああくそ、ここまで来たらさっさと言っちまえ!

「そのミルフィアのことなんだが、ここだけの話、そいつには友達がいなくてさ。だけどあの、あいつの名誉のために言っておくが人が悪いとかそんなんじゃない。ただ、欲しいと思っていないだけで。でも俺は友達を作って欲しいんだ。それでものは相談なんだが、あいつの誕生会に参加してくれないか? それをきっかけにしてさ、あいつと仲良くして欲しいんだよ。まあ、なんだ。相性とかいろいろあるだろうし、無理に、っていうわけじゃないんけど……」

 言いたいことは言った。後半になるにつれ声が小さくなってしまったが。

 話を聞いていた恵瑠は俺を見て黙ったままだ。もしかしら変な奴だと思われたかもしれない。いや、そうだろう。無信仰者に、会って間もない奴に、しかも話したこともない人の誕生会に参加してくれとか無茶ぶり過ぎる。

 でも、俺は諦めたくなかった。

「どうして、神愛君は人のためにそこまでするんですか?」

 そこで恵瑠が尋ねてきた。彼女が黙っていた理由。それは突然の勧誘ではなく、俺の行為そのものだった。

「慈愛連立じゃないのに。とっても不思議です」

 そう言う恵瑠は本当に不思議そうに俺を見上げている。

 天下界で人を助けるのはいわば慈愛連立の役目だ。琢磨追求は弱いから悪いと切り離し、無我無心はそもそも頓着(とんちゃく)しない。

 そんな世界で無信仰者のすることだ、おかしいどころの話じゃない。元から誰かを助ける思想など持っていないのだから。

 けれど、恵瑠からの質問に答えるのは簡単だった。

「俺に信仰なんてねえよ。でもな、それでも人間なんだよ。心があるんだよ。それさえあれば誰かを助けたいって、そういう気持ちも生まれるさ」

 これを聞いて信仰者がどう思うかは分からない。信仰に生きる者にとっては考えたこともない発想だろう。戸惑うか嫌悪するか。

「分かりました! 不肖この栗見恵瑠、その誕生会に参加します!」

「マジか!?」

「マジだ!」

「おお~」

 驚いた。まさか受けてくれるとは。てか元気いいな。

「そうか、ありがとうな。なんていうか、正直半分断られるって思ってたんだ。ありがとよ」

「いえ、ボク慈愛連立ですから。それに助けてもらったお礼もありますからね」

 恵瑠の笑顔に不安だった気持ちが消えていく。なんか、信仰者とはどうやっても分かり合えないと思っていたが、そんなことはないんだとほっとした気持ちになった。

 なんていうか、それだけで嬉しかったんだ。

「神愛君、いい人ですよね」

「ん? なんか言ったか?」

「いえ、なんでもないです」

 なにか聞き逃したが、恵瑠は笑っているし気にすることはないだろう。

「話は聞かせてもらったわ」

「天和!?」

 気配を消して近づくんじゃねえよ、アサシンプロかてめえ。

「背徳と禁断の愛に生きる同じ仲間の誘いとあれば仕方がないわね」

「いろいろ訂正(ていせい)が必要だがとりあえず感謝しとくよ、サンキューな」

 いつの間にか俺の隣には緑の髪をした天和が立っていた。よく分からんが参加してくれるらしい。けれどいいことだ、この際参加者は誰でも歓迎だ。

「あとは……」

 俺は教室を見渡す。現状参加者は俺を含めて三人。順調な出だしに戸惑うほどだが、出来ればあと一人は欲しい。

 それである人物に目が止まった。正直ここにいる二人よりもかなり抵抗感が強いんだが、しかし相手を選んでなどいられない。駄目もとでいいじゃないか、玉砕覚悟でいくだけ行ってやれ。

 俺は二人に詳細は後で話すと伝え、最後の候補者へと近づいた。

「よう。今いいか?」

 赤い長髪を背中に流し物静かに座っている女子、加豪がゆっくりと顔を上げた。

「話は聞こえてたわ」

「盗み聞きか?」

「聞こえてきたの」

「そうかい。まあ、好都合だよ」

 加豪に親しくする雰囲気はない。緊張した空気というか。ただ、荒々しい感じはなかった。

「みんなが見てる、場所を変えるわよ」

 言われて気づく。周囲の人間がまた何か起こるのではないかと心配そうな目を向けていた。こんな状況では話もしづらい。

「分かった」

 加豪は立ち上がり、俺たちは教室から出て行った。


 渡り廊下には俺と加豪の二人きり。天気はいいが人がいないのでここは静かだ。渡り廊下の屋根の下、日陰の中で俺たちは向かい合い、最初に口を開いたのは加豪だった。

「話は分かった。でもどうして私を誘ったの?」

「難しい質問だな」

 改めて考えると悩むところだ。明確な理由があったわけじゃない。ただ、

「ぶっちゃけお前とは喧嘩した。お互い初対面の印象は最悪だろう。だけど、その後で謝っただろ? きっとそれでだ。一切話もしたことない相手より、お前の方が誘いやすいと思ったんだよ」

 理由なんてきっとそれくらい。口にして思ったがそれだけの仲でしかないんだよな、それで誘う俺もどうかしてる。

「そう」

 告白に加豪は小さく頷いた。そうして俺を真っ直ぐ見つめる。

「なら答えを返すけど」

 口調は冷たい。腕を組む姿勢にも親しみは感じない。

「答えはノーよ」

「ああ、だと思ったよ」

 俺は両手を上げてから落とした。態度からして分かる。お前が素直に受けてくれないことは。

「納得したなら帰るわよ?」

「いや、しないね」

「は?」

 加豪の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄る。静かに見てくるだけの視線が険しくなった。

「どうして? 以前のことで私にも非があったのは認める。でも、あんたを認めたわけじゃないわよ、勘違いしないで」

「分かってる。でも頼む。お前が嫌いなのは俺だけだろ? ミルフィアはそうじゃないはずだ。お前は俺のことが嫌いだろうさ、無信仰者だからな。誰からも無視されて時には石を投げられて、親からだって見捨てられた。はっきり言って辛かったさ。だけどミルフィアだけは傍にいてくれたんだ。それでめちゃくちゃ救われた。なのにミルフィアには友達がいない。こんなにもいい奴なのにだ。だから頼む、俺のためじゃない。ミルフィアのために付き合うだけでいいから付き合ってくれ!」

 頭を下げて、俺は加豪に頼み込んだ。誠意とミルフィアへの思いを念じるように伝える。

「それは本気?」

 顔を上げる。そこにいる加豪の顔は精悍(せいかん)としていて、鋭い視線は俺の真意を問(と)うているようだった。

「どういう意味だよ?」

 俺の問いに加豪はすぐに答えない。沈黙がしばらく流れ、それでようやく口が開いた。

「私はね、今までの人生において信仰に従い自分を鍛えてきた。そこには辛いことも苦しいことあったけど、それでも耐えてきた。辛かったけど、嫌だとは思わなかっわ。それらが今の私を作っているから」

 加豪の告白。言葉は聞いているだけでは分からないが、その裏では想像以上の努力をしてきたんだろう。

「あんた言ったわよね、誰からも無視されて石を投げられたって。ならそれを糧にして自分を強くすればよかったのよ。なのに辛いと嘆(なげ)くだけで何もしなかった」

 それはあくまでも琢磨追求ならの話だ。けれど、それもまた事実には違いない。

 己を強くすることで苦痛を無くす神理。加豪はそれの信仰者だ、弱音は許されない。

「信仰のない者は弱い。信じるべきものがないからすぐに諦める。あんたがその子をどれだけ大事に思ってるのか知らないけれど、無信仰者のあんたじゃ私を動かすのは無理よ」

 強者が弱者に抱く傲慢(ごうまん)のような、しかし加豪が言うとそれが嫌味にならない。それだけに加豪の言い方には迷いがなかった。自信があるんだろう、自分を信じる心の強さに。

「どうせすぐに諦める。無信仰者なんてそんなものよ」

 まるで鋼(はがね)の女だ。

 加豪は腕を組んだまま目を瞑る。弱い俺を取るに足らない存在だと突きつける。

「なるほど、お前の主張はよく分かった。琢磨追求のお前らしい意見だ。でもな、勘違いしてるぜ」

 そんなこいつに、俺は言ってやる。

「この想いだけは何があっても諦めない!」

 加豪の目が開く。その瞳に真っ直ぐと、刺し貫くほどの視線を送り返してやる。

「無信仰者は弱い? すぐに諦める? ハッ! なら試してみるか? 俺が本気だってことを認めればミルフィアの誕生会に参加してくれるんだな?」

「出来るならね」

「出来るさ」

「口先だけは一人前ね」

「なら実演(じつえん)といこうか?」

「好きにすれば?」

 そう言って加豪は踵を返し廊下へ歩き出した。まっすぐな背中は今も確信に満ちている。

 けれど俺は追いかけ、加豪の肩を掴んだ。

「頼む」

「放して」

 加豪の足が止まる。それで半身だけを俺に向け、鋭い視線を向けてきた。

「言っておくけど、琢磨追求は鉄拳制裁なんて日常茶飯事よ。慈愛連立なら暴力とか騒ぐだろうけど、琢磨追求なら殴るくらい当たり前なの。今すぐ放して」

「断る」

「本当に殴るわよ?」

「やれよ」

 加豪の視線を真っ向から受け止める。負けてたまるかと視線をぶつけ合った。

「そう」

 すると加豪の表情から力が抜け、次の瞬間、カッと見開いた。

「そこまで馬鹿とは思わなかったわッ」

 肩を掴んだ手を外される。そして飛んできたのは右ストレート。拳骨が視界を覆う。

「がっ!」

 頬に拳がめり込む。衝撃に体が揺れ、痛みと共に視界が揺れた。足が崩れ地面に腰をつく。

「あんたが強引なんだから、悪く思わないでね」

 そう言い残し、加豪は再び背を向け歩き出した。が、

「おい、なに手ぇ抜いてんだ……?」

 俺は立ち上がり、加豪の肩を掴んだ。

「お前に突き飛ばされた時の方が強かったぜ?」

 頬の痛みを無視して不敵に笑う。そんな俺を加豪が不機嫌そうに睨んだ。

「あんたねえ、本気で殴られないと分からないの? 下手すれば死ぬわよ? それでも諦めないって? なにも信じていないんだからさっさと諦めればいいでしょう」

「しないね」

「どうして?」

 俺の手を振り解き加豪が距離を取る。その表情には眉間(みけん)に皺(しわ)が寄っていた。意外なのだろう、加豪の価値観では無信仰者がここまでする道理(どうり)がない。一発殴れば諦めると決めつけていたのに、俺がしぶとく諦めないことに初めて平常だった気が乱れる。

「どうしてそこまでするの? あんたは琢磨追求じゃない。そこまで出来るほど強くもないしなる必要もないでしょう。現に、あんたは無信仰者の境遇(きょうぐう)を辛いと思っていた。そんなあんたがそこまで出来るの?」

「出来るさ」

「何故?」

 加豪からの質問に、俺は覚悟を込めた。

「ミルフィアのためだからだ!」

 ここにはいない彼女のことを想う。そして今までしてくれた感謝を思い出す。

「俺はミルフィアの誕生会を開くと誓った。そのためなら恥も痛みも受け入れてやるさ屈するもんか。誰に殴られようと俺は諦めねえ」

 それだけで、俺の意志は鋼(はがね)すら超えていく。痛みなんて痛くない!

「無信仰者でも『信念』ならあるんだよ!」

 あいつにもっと笑って欲しいと決めた時から、この信念が折れることなどあり得ない。

「てめえにだって俺は止められねえぞ、加豪」

 宣戦布告するように、俺は指を突き付けた。

「…………」

 加豪の表情は変わらない。仮面のような顔のまま俺を見つめるだけだ。

 だが、鉄のような顔の口元が、少しだけ持ち上がったのだ。

 加豪が微笑んでいる。目もどこか優しい。そして視線を俺から切ると青空に向けた。

「琢磨追求は己を鍛え強くする神理。なのに、信仰を持たないあんたは人のために強くなると言うわけ」

 加豪は肩を竦め、その後俺を見た。

「分かったわ。その誕生会、私も参加する」

「マジか!?」

「マジよ」

 どこか呆れたように、けれどフッと笑って、加豪はそう言ってくれた。

「でも勘違いしないでよ。私が参加するのはあのミルフィアって子が不憫(ふびん)だから仕方なくよ。今でもあんたが問題を起こすようならただじゃおかないからね」

「殴っておいてよく言うぜ」

「なに?」

「分かった分かった、後のことは好きにしろ。その代わり」

「分かってるわよ」

 加豪が参加を約束してくれた。やった。痛みの残る頬を擦りながら笑みが零れる。これで四人、誕生会として最悪ということはないはずだ。目の前では加豪がツンとしているが、俺の本気に応えてくれた。

 喧嘩して、謝って、そして誕生会か。初めて会った時には想像も出来ないよな。

 ただ、また問題を起こしたらただじゃおかない、か。厳しいのは相変わらずだ。おそらく本気だろうから気をつけないとな。

「おい」

 と、背後から声をかけられ振り向いた。そこには仲間を連れて、不良の熊田銀二(くまだぎんじ)が立っていた。

「先日の借りを返えしにきたぜ」

 さっそく問題きたぁあああ!

「神愛、これはどういうこと?」

「いや、これは~……」

 いやいやいや、これはちげえよ悪くねえよ! 俺は人を助けたんだからむしろ褒められることをしたんだよ、誰か説明してくれ。恵瑠ぅ! 恵瑠はどこだ!?

「ようイレギュラー、この時を待ってたぜ」

 大柄な銀(ぎん)二(じ)が近づき俺を見下ろしてくる。なんともゲスい笑顔だ。

「それでだ、なあ神愛くぅん。ここどこだか知ってるぅ? 学校。そんな場所に無信仰なんて悪い子いちゃ駄目だよねえ? だからお前、今から退学届出してこい。僕は神を信仰しない悪い子なので学校を辞めますってな。プッ、はっはははは!」

 あざ笑った話し声が鼻先に吹きかかる。仲間からも爆笑が聞こえてきた。

「なるほど。まああんたらのことを腰抜けとか言って悪かったよ。ただあんただって一人の女の子を囲って脅してたんだ、ここはお互い様ってことで穏便(おんびん)に済まさないか?」

「ああッ!?」

 俺としては問題をこれ以上表面化したくないというか、加豪の目の前で荒立てたくない。だから言ったんだが、途端に銀二の顔が歪んだ。

「無信仰者が誰に向かって言ってんだ、弁(わきま)えろボケ!」

「いや、だからさ」

「無信仰者のクズが、やんのかオラ!」

「そうじゃなくて、そっちにも非はあるんだから」

「黙れ! てめえはさっさと退学届出してこればいいんだよ、そうじゃないと痛い目みるぜ? はっはははは!」

「…………」

 ちっ。

「なあ、お互いに問題があっただろ? それにもとはと言えばお前らが恵瑠を脅してたのが悪いんだろが」

「うるせえ! 無信仰者の分際で言い訳してんじゃねえぞ!」

「…………」

 おいおいおい、ちょっと待てよこいつ。なに自分のこと棚に上げて言いたい放題言ってんだよ。

「はあー、そうかよ」

 やれやれと思いながら答えを返す。駄目だこいつ、話にならん。両手を持ち上げブランと下げた。

「ならはっきり言ってやる。俺は退学届なんか出さない、まだやるべきことが残ってるんでね」

「んだと!?」

 銀二だけでなく後ろの連中からも怒声が聞こえてくる。

「いいかよく聞け教えてやる。俺は生まれつき無信仰だが、お前らは生き方が意地汚いクズだ。他人を馬鹿にして自分が偉いと思ってるお勘違い野郎。俺とお前らの違いを教えてやろうか? 信仰のあるかなしかじゃない。お前らは弱い奴にしか噛み付けない臆病者だが、俺は世界中の相手だろうが喧嘩が出来る。退学届を出してこいだと?」

 軽口を言うが顔には亀裂が入る。目の前の馬鹿どもを睨み上げ、最後には大声で叫んでいた。

「喧嘩売る相手間違ってんじゃねえぞ! 一人でも生きていける俺様を、神におんぶに抱っこでおまけに群れてやがる雑魚が、調子に乗ってんじゃねえ。やれるものなら力づくでやってみろ!」

「あああっ!?」

「おおおっ!?」

 それが引き金だった。銀二たちは腕を振り上げ襲い掛かってきた。いいぜ、俺は絶対に諦めねえぞ!

「待ちなさい!」

 だが、今まで静観(せいかん)していた加豪が割って入ってきた。

「加豪、お前……」

 意外だった。まさか加豪が止めに入るなんて。

「琢磨追求……、先輩ですね。すみませんけどそいつ、返してもらっていいですか?」

 すると加豪は俺の手を取り、答えを聞く前に歩き出した。

「おい加豪」

「いいから。それに無信仰者のあんたが戦っても勝てるわけないでしょ」

「なんでお前……」

 次に問題を起こしたらただじゃおかないと豪語した加豪には不似合な行動に戸惑ってしまう。彼女の横顔に聞くが、加豪は前を向いたままだ。

「事情は分かった。それに」

 加豪は振り返らない。けれど答えてくれた。

「約束は守るほうよ」

 約束。ミルフィアの誕生会に参加してくれること。同じ信仰者を前にしても約束を優先してくれた。加豪は厳しいがそれは自分に対してもで、義理堅い性格だった。

 こいつ、案外良いやつじゃねえか。

「おい、誰がいいなんて言ったんだ?」

 だが銀二は見逃さなかった。加豪は立ち止まり俺と二人して振り返る。

「無信仰者にこっちは喧嘩売られたんだぞ!」

「ああ!? 誰が売っただと!? てめえだろうがボケエ!」

「神愛!」

 加豪が俺の手を引っ張るがこいつ許さん!

「ふざけんなよオラ! なにが信仰者だ、てめえらなんてただのチンピラだろうが。ああ!? やんのかオラ!? オイ! やんのかオラ!?」

「神愛、それじゃあんたがチンピラよ……」

 銀二の言葉に噛み付くが加豪が制止してくる。その後俺の前に立ち、銀二たちに立ちはだかった。

「すみませんけれど、そいつとは約束があるんです。それを果たすまでは退学には出来ません。琢磨追求を信仰する者として、どうかご理解下さい」

「ああ~?」

 加豪が銀二に頼み込む。しかし銀二は眉を大きく曲げて加豪を見た後、フンと鼻で笑ったのだ。

「黙ってろ女! こいつ叩きのめしててめえが強いって証明しなくちゃ、こっちは神に顔向けできねえんだよ! お前はすっこんでろ、弱い女が!」

「……なんですって?」

 瞬間、加豪の声が鋭くなった。

「……女が、弱い?」

「ん、加豪?」

 俺の前には加豪の背中があるが、なんだか震えていた。手が拳になっている。

「あの、加豪さん?」

 心配になって手を伸ばすが、その前に加豪は歩き出した。

「言ってくれるわ。こっちは穏便にこと済まそうと頑張ってたんだけど、今のは私の信仰を否定する発言だわ。撤回(てっかい)するか、さもないと」

 加豪がゆっくりと銀二に近づき、戦意を充満させた目で睨みつけた。

「力づくで後悔させるわよ?」

「おおっ!?」

 いや、なんでお前がやる気なの!?

 加豪からの挑発に全員が敵意丸出しだった。それでも加豪はやる気満々で、「やれるものならやってみなさい、返り討ちにしてやるわ!」と望むところよという感じだ。すでに加豪対銀二たちといった具合ですっかり喧嘩モードになっている。ていうか。

「あのー!」

 片手を上げながら入り込む。

「なんでお前らがやる気満々なんだよ!」

 いつの間にか蚊帳の外なんだけど。

 そんな俺に加豪が振り向いた。

「すっこんでて神愛。これはもう私とこいつらの喧嘩になったの。あんたは関係ないからどっか行っていいわよ」

「はああああ!?」

 なんだそれ!? なんで俺とこいつらの喧嘩がお前のものになってんだよ!

「ふざっけんな! 後から来たお前になんで俺が指図されなきゃならないんだ!? お前が部外者だろうが!」

「あんたねえ、今のやり取り見てなかったの? いいからあっち行ってなさいよ!」

 加豪は言い捨てると背を向けた。なんていうかアウト・オブ・眼中ていう感じ。

 いいよいいよ、そっちがその気なら俺だって好きにするよ。

「あー、そうかいそうかい、分かりましたよ。加豪さんは人の喧嘩を横取りするほど喧嘩が大好きみたいだ。頑張ってね。ほれ、丸腰の相手だ。お前の得意な刃物ちらつかせて脅してやれよ、あれは効果的だぜ?」

「あんたも根に持つわね~!」

 すると加豪が振り向いた。苛立ちを露わにしてるが、んなもんお前のせいだろ!

「当たり前だろうが! 子供の喧嘩に長物なんか持ち出しやがって、頭おかしいんじゃねえか!?」

「あれは! あんたが口で言っても聞きそうになかったし、下手に殴り合っても仕方がないから私なりに無傷で収めようと、そう思っただけで。別に喧嘩が好きとか頭がおかしいわけじゃないわよ!」

「頭がおかしい女はみんなそう言うんだよ」

「なんですって!? さっきからいい加減なこと言わないでくれる!?」

「オウ、イェ~。オウ、イェ~。なら話を整理するぞ? 君はぁ? 子供の喧嘩を終わらせるために刃物をチラつかせて脅してくるだけの、至って、普通な、女の子だよ~。ハッ、これで満足かよヒステリック刃物女」

「はあああ!? いい度胸してんじゃない、表に出なさい、速攻で叩き潰してやる!」

「すでに表だバーカ!」

 俺と加豪で睨み合う。額が触れそうな距離まで顔が近づき、視線をぶつけ合った。

 そんな俺たちに銀二が近づいて来る。

「おい、お前ら俺たちを無視して――」

「「うるさい、引っ込んでろ!」」

「ひっ!?」

 二人同時に邪魔な銀二を怒鳴りつける。あまりの迫力に短い悲鳴が上がっていた。

 その後俺たちは視線を戻すが、しばらくしてどちらからともなくスーっと顔を退いていく。

「まあいい、お前との決着は後だ」

「そうね、まずは片付けるのが先か」

 と、互いに方針を確認し合って。

 俺たちは並んだ。互いの敵を倒すべく、今まで睨み合っていた瞳が同じ方向を向いたのだ。

 挑む姿は勇猛果敢(ゆうもうかかん)。片や威風堂々(いふうどうどう)。共通の敵を前にして、かつては喧嘩した者同士が共闘(きょうとう)する。

「来いよ信仰者、神様に泣きつく用意はいいか?」

「琢磨追求は強くなることが目的だけど、それは誰かと比較して優位になることじゃない。己を鍛えろ」

 負ける気など微塵もない。勝利を信じて疑わぬ意思で、俺たちは連中と対峙(たいじ)した。

「くそ、ふざけんなよ、こんなッ……! 舐めやがって!」

 俺たちの態度に銀二が怒り心頭している。だが、言葉とは裏腹に声は震えていた。虚勢(きょせい)を必死に張っているが今にもメッキが剥がれそうだ。

「負けてたまるか! 強く、強く、もっと強くぅう!」

 しかし、余裕で構えていたが銀二の上げた一声で雰囲気が豹変(ひょうへん)した。銀二は頭を抱え、大きく体を振り始めたのだ。

「どうしたんだこいつ?」

 銀二は狂ったように全身を動かし奇声まで出し始めた。かなりやばい雰囲気だ。

 その時だった。加豪が慌てた声で叫んだ。

「こいつ、まさか『狂信化』してる!?」

「おい、なんだよ一体!?」

 狂信化。聞いた事がない、どういうことだ?

「信仰心が自制心を超えたのよ! 信仰心が暴走して、理性が働いてない。その分信仰心が無秩序に増大するけど、とても危険だわ!」

 耳をつんざく大声はもはや獣のようで、悪い何かに憑りつかれているようだ。暴れる勢いで銀二は叫ぶが、途端に片手を前に翳した。

「我が神リュクルゴスよ、我に力を貸し与えたまえ。至上(しじょう)の神理に、我が心を捧げん」

 それは詠唱。神託物を出現させる時特有の準備動作だ。

「神託物招来(しょうらい)!」

 銀二は現れる光の像を手に掴み信仰心を実体化させる。

「三牙槍(さんがそう)!」

 銀二は神託物を手に取った。そこにあるのは矛先が三つある長槍。刃が十字になっている。さらには刃を青い炎が覆っていた。

「強くならなければならない! 誰よりも強く! 俺より強いものなどあってはならない! 死ね、俺以外が死ねば、俺が最強だぁ!」

 見開かれた瞳はもはや誰も見ていなかった。目につく者から襲い掛かり、仲間だろうがお構いなし。身近にいたというだけで斬りつけていく。

「た、助けてくれえええ!」「熊田さん、正気になってくださいよぉお!」「逃げろ、襲われるぅ!」

 銀二の狂態に仲間は悲鳴を上げて逃げ出していく。

 おい、かなりやばいんじゃないのか!?

 銀二は逃げる仲間を追おうとはせず、今度は俺に向かって襲いかかって来た!

「死ねぇええ!」

 くッ!

「雷切心典光(らいきりしんてんこう)!」

「加豪!?」

 迫る十文字槍の刺突。それを止めたのは、横から入った加豪の雷刃だった。

「離れてなさい神愛! 本当に危険だわ!」

「でもそれじゃお前が!」

「私はいいから!」

 俺の心配を払い除け加豪が銀二の前に立つ。俺を庇う形で、瞳には加豪の力強い背中が映っていた。

「シネエエエ!」

 銀二は叫ぶと槍を構える。乱暴な言動は自意識があるのかも疑わしい。

「自分の弱さを認められないなんてッ。琢磨追求の一人として言うわ。あなたは間違ってる!」

 信仰が暴走している銀二に加豪は吠えた。神の力を握る両手は力強く、目の前の狂信者に刃先を突き付ける。

 両者の神託物が並ぶ。そして、激闘の火蓋が切られた。

 加豪の剣撃と銀二の刺突が交錯する。舞台は渡り廊下の外、校舎間の固い地面に移る。剣風と熱波が空間をかき混ぜ炎熱(えんねつ)と雷光(らいこう)が乱舞する。木々が大きく揺れ地面が焦げた。電撃の破裂音は離れていても凄まじく、鼓膜を太鼓のように叩いてくる。

「加豪!」

 心配から声を掛けるが加豪から返事はない。それどころではないのは見て分かっているのに、なぜか口が動いてしまう。

「くそ、どうする!?」

 渡り廊下から二人の戦いを見つめる。信仰者の戦いに無信仰者の俺が加勢しても足手まといになるのは目に見えている。では助けを呼びに行くべきか? だが、加豪を一人残すのも気が引ける。くそ、どうすればいい!?

 そこで思い浮かぶ顔があった。

 ミルフィア。あいつに頼めば助けになってくれるはずだ。俺が呼べばすぐにでも現れるだろう。

 でも、それでいいのか? なにか困ったことがあればミルフィアに戦わせるって、それじゃまんま奴隷じゃないか。

 良い訳がない。もう何度も助けてもらったんだ、いつまでもあいつに頼ってはいられない。俺がなんとかしないと!

「ウオオオオ!」

 俺の意識を引き起こすように銀二の叫びが上がる。

 加豪と銀二の間で激しい戦闘が繰り返されていく。互いに扱うのは神託物。神の力の一つ。

 銀二が放つ攻撃はただの刺突じゃない。纏う焔(ほむら)は巨大で、たとえ刃を躱しても炎で焼かれる。加豪は刺突を刀で弾くが同時に体捌きも行っていた。それでも完全ではなく、熱波が皮膚を焼く。銀二の槍の軌跡(きせき)には炎が尾を引き、もはや奴の周囲が高温の結界だ。

 それでも。

 加豪は、前に出た。

 神の贈り物を使うのは銀二だけじゃない。加豪の手にも、彼女の鍛錬(たんれん)が生んだ純正(じゅんせい)の神器がある。

「はあああ!」

 加豪が気炎(きえん)と共に刀を振り下ろす。瞬間、稲妻が鳴り響いた。

 刀身から迸る電流が銀二を襲う。全身を蹂躙(じゅうりん)する感電の苦痛に悲鳴が起こる。さらに加豪は斬りつけた。真上からの渾身の一撃。銀二もすぐに槍で受け止める、が。

「ギャアアア!」

 刀身は電気を纏う雷刃(らいじん)。接触すれば当然感電する。加豪の神託物、雷切心典光(らいきりしんてんこう)の真髄と言えるだろう。躱しても迸る電流が襲い掛かり、受け止めれば雷の奔流(ほんりゅう)が防御を無視する。

 いける。俺でなくともここにいる人間なら誰しもそう思うはずだ。

「グオオオオオ!」

 しかし、加豪の電撃に苛(さいな)まれる中、銀二が叫んだ。それは悲鳴なんかじゃなく、戦意の咆哮(ほうこう)だった。

 戦うことしか頭にない。それしかないんだ。

 それは理性を捨て神理に埋もれ、人ではなく『信仰そのもの』になっていくような、そんな印象。

 もしそうなら、信仰心の上昇は止まらない。神理に近づけば近づくほど、歪ながらも銀二は神化(しんか)によって強化されていく。

 銀二が片手を槍から放した。力尽きたのか? 違う。

 銀二はさらに、二本目の三牙槍(さんがそう)を取り出したのだ。

「くっ!」

 銀二が加豪の刃を押し返す。その隙に二本目を横に薙(な)ぎ、柄の打撃が加豪の横腹を急襲した。

「がぁ!」

「加豪!」

 顔を顰め加豪が膝をつく。それで迷いが吹っ切れた。考える暇もなく、俺は渡り廊下から飛び出した。

「ふざけんなよてめえ!」

 全力で体を動かす。加豪を守る気持ちと敵に対する怒りが足を走らせる。

「来ちゃ駄目神愛ー!」

 加豪の必死な制止も無視して二人の間に立ち塞がる。俺は拳を構えて銀二を睨んだ。対決に気持ちが荒ぶる。加豪を背にして、負けられないと闘志が奮(ふる)えた。

 間を空けず、銀二の槍が伸びる。躱して懐に踏み込もうとするが、しかし、無駄だった。

 速い。狂信化によって放たれた槍は目から消え、視認出来ないほどの速さだ。やばい!

「そこまでです、武器を下ろしなさい」

 瞬間だった、矛先が眼前で止まったのだ。俺はすぐに離れ、固まっていた顔をそっと横に移す。そこにいたのは、

「ミル、フィア……」

 小柄な体に金髪をした小女、ミルフィアだった。

 瞳には怒りではなく威圧を宿し、表情は侮蔑(ぶべつ)ではなく威厳を放ち、そして敵の刃を、片手で掴んでいた。

 驚いた。ミルフィアは神託物の炎を意に介すこともなく槍を掴んでいる。それに相手は狂信化で強化され、神託物の一撃は目でも追えない速さだったのに。それを、片手で容易く掴むなんて。

「グオオオオ!」

 銀二は獣性の声と共に槍を押し込んでくる。突然現れたミルフィアに驚く素振りは見られない。一心不乱に槍を押し込む。

 だが、一ミリも進まない。銀二の足は地面を耕(たがや)すだけで、一向に前には進めないでいた。

 そんな奴を前にして、ミルフィアは冷厳な目つきで宣告する。

「下がりなさい愚か者、王の前です」

 言葉の後、ミルフィアが手に力を入れる。

 それで、刃が砕け散った。

「グオオ!?」

 神託物を破壊する。理性のない銀二でもこの事態の異常性を理解したのかミルフィアから間合いを取った。すぐに新たな槍を出し、二本の神託物の矛先がミルフィアを狙う。

「ミルフィア、俺は、その」

 背中を向ける少女に、俺は掛ける言葉が見つからなかった。またも、俺はミルフィアに助けられてしまった。なんて言えばいい? 迷惑ばかりかけて。こんな時、なんて言えば。胸が苦しい。

「主、大丈夫です」

 なのに、ミルフィアは俺に振り返り、微笑んでくれたのだ。

「ミルフィア、危ない!」

 それを嬉しいと思う間もなく、銀二が飛び掛かってきた。背後を振り向いた隙を突いた、完璧なタイミング。

 しかしそれを以てしてもあまりある、ミルフィアの絶技(ぜつぎ)が閃(ひらめ)いた。

 迫る一撃。それを見もせずに、ミルフィアは掴んだのだ。それは直感か、はたまた別のなにかなのか。

 ミルフィアは走り俺から離れる。銀二も後を追うが、それでも銀二の放つ両の槍撃は止まらない。それはもはや刺突ではなく壁だ。刃と炎の制圧攻撃だ。そもそも躱せる空間がない。逃げ場がない。これでは突かれるか、燃やされるかのどちらかだ。

 しかし、そんな中でもミルフィアは健在だった。

 乱れ突く矛を全て見切り最小限の動きで躱していく。炎熱の余波には躊躇うことなく身を晒して。なのに肌には火傷が見られない。

 針地獄と炎獄(えんごく)の中を、ミルフィアは精悍(せいかん)な目つきのまま進み出した。

 歩く、近づく。間合いが狭まる。

 ミルフィアは片手を上げた。片手はそのまま振るわれて銀二を襲う。頬に直撃したのは少女の張り手一発。

 それだけで、ミルフィアを大きく上回る銀二の巨体は吹き飛び、土煙を上げ地面を数回転がっていった。

「まじか……」

 すごい。ミルフィアの力は一線を越えている。

「グゥウ……」

 銀二が起き上がる。獣のような声を漏らしミルフィアを見つめる。それでも今までのような勢いはなくなっていた。

 警戒しているんだ、それほどミルフィアは強かった。不意を突かれたとはいえ加豪でも苦戦したのに。それをこうも。

 ミルフィアに守られている。それを実感するたび不安がなくなり落ち着きを取り戻していく。

 しかし緊張が緩んだ俺を、銀二が睨んだ。

「ガアア!」

 危機感が全身を這い上がる。まずい! 槍が投擲(とうてき)された。

 躱せない。速すぎる攻撃に反応できない――

「主ー!」

 迫る神託物の一投。直撃を前にミルフィアの叫び声が聞こえた。そして目の前に彼女の背中が現れて、槍を受け止めた。

「ミルフィア!?」

 腰から地面に転んでしまったためにミルフィアを見上げる。どうやらミルフィアは両手で掴んでいたようですぐに槍を投げ捨てた。

 しかしすぐに二撃目が飛んできた。銀二は神託物を出すなり投げつけ、ミルフィアを遠距離から攻撃してきたのだ。何度も何度も、投げては出し投げては出し、連撃(れんげき)が止まらない。

 ミルフィアの防戦一方だった。投擲(とうてき)される全てを掴んでは捨ての繰り返し。躱せないんだ、俺がいるから。ミルフィアの背中に隠れているから無事でいるものの、ここから出れば即座に串刺しだ。

 ミルフィアの防戦に銀二が突撃してきた。神託物一本を両手で握り、横薙ぎしてきたのだ。

「ぐっ!」

 ミルフィアが両腕を交えて受ける。躱せば俺に当たる。だから動けず、身を挺(てい)して俺を守ってくれた。

 それをいいことに銀二の攻撃は止まらない。何度も何度も、強打がミルフィアを襲う。

「もういいミルフィア、離れろ!」

 叫んだ、小さな背中に向けて。なのにミルフィアは退いてくれない。いつまでも俺のために攻撃を受けて。

 ふざけんな。

 ふざけんな。

 ふざけんな!

 なんだよこれは、なにしてるんだよ俺は!?

 なんで、大事な女の子一人救えないんだ!?

「そこまでよ」

 すると銀二の背後に加豪が回り込んでおり、雷切心典光(らいきりしんてんこう)を振り上げていた。

「さっきの比じゃないから、覚悟しなさい!」

 刀身に電流が渦巻いている。言葉の通りさっきまでとは電量が違う。もしかして、今までこれを溜めていたのか。

 加豪が神託物を振り下ろす。刀身は峰打ちだったが襲うのは極大の電流。肩を打たれた銀二から喉が擦り切れそうな悲鳴が上げる。全身を痙攣(けいれん)させた後硬直すると、背後に傾き倒れていった。巨体が地面に落ちドンと音がなる。

 決着がついた。緊張が解け、代わりにドッと疲れが押し寄せてきた。

「なんとか終わったわね、大丈夫?」

「俺は平気だ。それよりもミルフィア! 大丈夫か!?」

 すぐに起き上がりミルフィアに声を掛けた。あんな攻撃を何度も受けて、平気なはずがない。

「大丈夫です、主。私は平気ですから」

 ミルフィアが振り返り、そう言って微笑んだ。だが、見れば腕にあざがあり青く腫れていた。

「でもお前、腕怪我してるじゃねえか」

「これくらいでしたらすぐに治りますので。主のご心配には及びません」

 そうは言うが納得なんて出来ない。痛かったはずなんだ。叩かれたら誰だって、ミルフィアだって。見ていて、銀二の攻撃を耐えているミルフィアは辛そうだった。

 俺のせいだ。

 俺はミルフィアの腕を後悔の眼差しで見つめる。

 だが、すぐにあざがなくなっていった。まるでビデオの早送りのように傷が退いていく。

「お前……」

「大丈夫です、もう治りました」

 ミルフィアはまたも微笑んだ。傷を負った原因である俺に。

「それよりも、主にお怪我はありませんか?」

 大きな瞳が俺を向く。戦闘中の冷徹(れいてつ)な視線とは打って変わって、ミルフィアの向ける眼差しは憂(うれ)いに満ちていた。純粋な心配を映す両目は宝石のようにきれいだ。

「ああ。お前のおかげでな」

 でも返事はどうしても暗くなる。俺のせいで傷ついたのも同然なのに、俺の心配までして。

「そうですか。主がご無事でなによりです」

 だっていうのに、俺が無事だと知ってホッとして、笑顔まで見せて。そんな仕草が愛らしかった。

「あ、その、ごめんなさい。私がついていながら」

 そこで神託物を消した加豪が近づいてきた。それを察しミルフィアが前に出る。すぐに表情を引き締め加豪を警戒していた。

「ミルフィア、大丈夫だ」

 そんな彼女を言葉で制し、俺はミルフィアに説明した。

「いいんだミルフィア、最初はいろいろあったがもう和解(わかい)したんだ。だからそんなに警戒しなくてもいいさ」

「はい、そういうことでしたら」

 納得したミルフィアは構えを解き、表情からも険しさが退いていく。そのまま加豪と向き直った。

「さきほどは失礼しました。ミルフィアといいます。主の危機を感じたので現れましたが、それはあなたではありませんでした。ですので謝罪は不要です。むしろ感謝を。主のために戦ってくださりありがとうございました」

「別にいいわよ、ミルフィア。それに私も助かった、ありがとう。私のことは呼び捨て構わないわ」

「はい、加豪。改めてありがとうございまいた」

 小さくお辞儀するミルフィアに加豪は苦笑する。最初は敵対(てきたい)していも、傍から見ている分には仲が悪そうには思えなかった。一度は戦った仲で想い通ずるところでもあったのか、徐々に接していけば友達になれるんじゃないだろうか?

 そんな希望的な目で二人を見つめていた。

「どうしたのですか!? 一体なんの騒ぎです?」

 するとヨハネ先生が慌てて走ってきた。さすがにこの騒ぎだからな。もしくは逃げ出した男たちが知らせたのか。駆け寄ってきたのは他にもおり、騒ぎを聞き付けた生徒が野次馬となって集まっていた。

「ヨハネ先生……」

「先生、私から説明を」

 ちょうどいいタイミングで現れたヨハネに気が抜ける。反対に加豪はしっかりしていて、経緯(けいい)を掻い摘んで話し始めた。それで何が起こったのか把握したヨハネが頷く。

「ふむ、それで一人の生徒が狂信化を。たいした怪我人が出なかったのは不幸中の幸いですね。狂信化した生徒については、改信施設移送への手続きをしておきます。それにしても」

 改信施設。これも聞いたことがなかったが、おそらく狂信化した者を更正(こうせい)させる施設だろう。それよりも二人の話で気になるのは別にあった。

「狂信化した生徒を、あなただけではなく、ミルフィアさんが?」

「はい」

 ヨハネの疑問に対して直に目にした加豪が力強く首肯(しゅこう)する。それでも腑に落ちないのか、ヨハネは顎に手を当てた。

「ふーん。狂信化した者は理性が無くなる変わりに信仰心が増長(ぞうちょう)し、その分神化(しんか)の度合いも高まります。それを倒したとなると、ミルフィアさんの神化は相当なものだ。しかし、神化とは神の恩恵の一つ」

 言われて俺はミルフィアに目を向けてみた。彼女は目を瞑り俺の背後に控えている。自称奴隷らしい控え目な態度だが、思い出しても先ほどミルフィアが行った行動は壮烈だった。

 狂信化したとはいえ神託物を出した銀二と互角以上に戦ったんだ。超人的とも言える力は神化の影響としか考えられないが、そうなると新たな疑問が生まれる。

「ミルフィアさんは、どの神から恩恵を……?」

 ミルフィアを見つめる。俺を主と呼び接してくる少女。以前から不思議な存在だったが、今回のことで謎が深まった形だ。

「まあいいでしょう。後はまかせてください」

 ミルフィアのことはとりあえず保留(ほりゅう)となった。それよりも狂信化した銀二の方だ。ヨハネはいつもの笑顔を浮かべると、そのまま人だかりに近づいていった。どうやら銀二を運ぶ手伝いを募(つの)っているようだ。

 だが、慈愛連立を含めて返事がない。気づけば皆が俺をちらちらと見てくる。無信仰者が起こした事件には関わりたくない、か。

「まったく……。あなたたち、それでも慈愛連立の者ですか。慈愛(じあい)の精神というのはですね、分け隔(へだ)てなくするからこそ意味があってでして」

 ヨハネが高説をするが反応は変わらない。ヨハネの表情は翳り肩を落としてしまった。

「分かりました。この話はまたの機会にしましょう」

 それで嘆息(たんそく)し、仕方がないと自分で倒れている銀二を背負った。細い体であの巨体を運ぶのは大変だろう。

「ヨハネ先生、手伝うよ」

「いえいえ、大丈夫ですよ。これ以上宮司さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんからね。そういえばもうすぐ授業が始まる頃ですし、私次休みですから。それに、私こう見えて力持ちなんですよ?」

「まあ、そう言うならいいけどさ……、悪いな先生、頼むよ」

 仕事が増えて気の毒だと思うが、ヨハネ先生は気にしておらず、それどころか申し訳なさそうだった。

「いえいえ。宮司さん、あなたには嫌な思いをさせてしまいましたね。申し訳ない。私もまだまだです」

「何言ってんだよ、先生には十分感謝してるさ」

 励ますための嘘とかじゃない。本当の気持ちだ。

 俺の言葉にヨハネ先生は「ありがとうございます」と嬉しそうに笑うが、笑顔の下にある憂(うれ)いまでは隠しきれていなかった。なんというか、いつもの笑顔なんだが寂しそうで。

「なあヨハネ先生、大丈夫か? 顔色悪いぜ? 言っておくけど俺は気にしてないからあんま気にすんなよ」

「はははは、大丈夫ですよ。大丈夫ですから……」

 そう言って、ヨハネは銀二を担ぎ直し行ってしまった。ただ、どうしても心配は拭えない。そういえば昨日も席を立つ時ふらついていたが、もしかして体調でも悪いんじゃないだろうか。俺は杞憂(きゆう)であることを願いつつ先生の背中を見送った。

「心配ね」

「ああ」

 隣にいる加豪にもそう見えたらしい。まあ気さくでお気楽なヨハネ先生のことだ。明日にでもなればまたいつもの笑顔で笑っているさ。

 そう思っているとミルフィアが近づいてきた。

「では主、私もここで」

 事態が解決したことでミルフィアも消えようとする。しかし消えるにはまだ納得出来ていない。

「ミルフィアすまなかった! 俺を殴ってくれ!」

「え?」

 動揺する声が聞こえる。それでもお構いなしに俺は頭を下げた。それだけじゃ駄目だと思い、自分で自分が許せなくて、気づけば殴ってくれとまで言っていた。

「どうしたのですか主、突然」

「だって、当然だろ。俺のせいでお前、あんな目に……」

 ミルフィアは強い。それは見ていれば分かる。なのに俺を庇ってミルフィアは傷ついた。する必要のない痛みを受けて。俺のせいだ。

「ですが、それは私の務めですので」

「いいわけないだろ! いつもいつもお前ばっかり戦って、お前ばかりが傷ついて。嫌なんだよ、俺のせいでお前が傷つくのが」

 このままだとお前、いつか俺のために死んじまいそうで、嫌なんだよ……。

 奴隷のミルフィア。俺のためにお前はこうして傷つく。お前が俺の奴隷である限り、お前はこれからもずっと傷ついていくんだ。

 そんなの、認められない。受け入れられない。もしそれでもいいなんて奴がいるなら俺が殴ってやる。

「優しい主。聞いてください」

 声を掛けられ、顔を上げた。ミルフィアはそう言ってくれるが、俺はそんなんじゃない。聞こえてくるミルフィアの声の方が、よっぽど優しい響きを持っていた。

「大丈夫です。大丈夫ですから。主に傷ついて欲しくない。それは私も同じです。主を守れたなら、それだけで。私は生まれてきて良かったのだと思えるのです」

 温かく、穏やかな声が俺を包み込む。それは美しいくらいで、俺は言い返したいのに、この美しさまで否定するようで出来なかった。

「分かったよ、そこまで言うならもういい。今はここまでだ」

 ぶっきらぼうにそう言って、俺は自分で自分を納得させた。それでもこれだけは言っておこうと、ミルフィアを見つめた。

「ミルフィア、ありがとな。マジで助かったよ」

 真っ直ぐに見つめて感謝の気持ちを伝える。するとミルフィアは頬を赤くし、恥ずかしそうに俯いてしまった。

「……返す言葉もありません、我が主。私は、その、この時を永遠に忘れません」

「いや、大袈裟だろ」

 そんな大事ではないはずだが。しかしミルフィアにとってはそうなのか、絞り出すように発する声からは嬉しさがありありと伝わってきた。

「それでは失礼します、主」

 そう言ってミルフィアは幻影だったかのように消えていった。本当に不思議な奴だ。

 野次馬たちも教室へ戻っていき、俺は加豪と顔を見合わせる。

「それじゃ、俺たちも教室に戻るか」

「そうね」

 ここにいる理由はないので自然とそうなる。二人並んで教室へと向かった。

「なあ加豪、一応確認しておくが」

「忘れてないわよ、案外心配性なのね」

「うるせえよ」

 渡り廊下を一緒に歩く。無信仰者と信仰者とは思えないほど、自然な距離感だった。

「それで、その誕生会っていつやるのよ?」

「明日」

「……早くない?」

「ああ、分かってる。俺もビックリだよ」

「分かった、反故(ほご)にするつもりはないわよ。それじゃ楽しみにしてるわ」

「おう、ありがとうな」

「どういたしまして」

 話は済んだ。誕生会の参加者は出揃い、あとは当日を迎えるだけ。こうして参加者が増えていく様に期待が膨れ上がっていく。

「あ! そういえばもう授業中じゃない! もう、先生に何か言われたらあんたが責任取りなさいよ!」

「なんで!?」

 けれど走り出す加豪を追いかけ、そんな思いは慌ただしさの中に埋もれていく。しかし胸の奥底では、いつまでも期待の熱は冷めることなく灯っていた。

 学校は終わり、時刻はもう夜中だった。俺はベッドに横になり二階ベッドの天井を見つめていた。

 明日、ミルフィアは誕生日を迎える。そして誕生会を開くんだ。

「はあー……」

 なんだろうな、明日のことが気になってなかなか寝付けない。心配? 興奮? それとも両方だろうか。きっと両方なんだろうな。胸が騒いで仕方がない。

「…………」

 自然と笑みが浮かぶ。明日、もしかしたら大きな変化になるかもしれないんだから。

「主?」

「ん? ミルフィアか、どうした?」

 ベッドの横、気づけばミルフィアが屈んで俺を見ていた。一体なんだろうか。すぐに体を起こした。

「いえ。ただもう遅いので。なにか心配事ですか?」

「まったくお前ってやつは。率先(そっせん)して奴隷の真似事か?」

「奴隷です」

「はいはい」

 俺はベッドに腰かけた。それでミルフィアは跪こうとするが、俺はいつぞやと同じように強引に止めさせ隣に座らせた。

 ちょうど、黄金律を知ってミルフィアと友達になろうと決めた、あの晩と同じになった。

「なあミルフィア。お前はさ、人生楽しいか?」

「楽しい、ですか?」

「ああ、どうだ?」

 俺はそっと振り向き、ミルフィアの横顔を見つめる。質問にミルフィアは静かに目を閉じて、幸せそうに微笑んでいた。

「はい。主にお仕えしていますから」

「俺の世話役がエンタメだって? 三分で飽きるだろ、もっと楽しいことあるさ」

「いえ、これに勝る喜びはありません」

 これを本気で言ってるんだからな……。

「じゃあさ、困ったことはないのか? 不安っていうか、もしくは手伝って欲しいことは?」

 ミルフィアは瞼を開いた。俺に振り返るが、しかし表情はどこか申し訳なさそうに笑っていた。

「ミルフィアは奴隷です。奴隷のことを気遣う必要はありません」

「答えろって。知りたいんだよ」

「ですが」

「いいから」

 奴隷としての意地でもあるか、ミルフィアは対等に扱われることを拒絶する。少し強めに言えば従ってくれるが、それでも気になる。普通に接したいと思っている女の子がこんなんじゃ誰だっていい気はしないだろう。

 それでミルフィアは答える気になったのか、座り直し俺に正面を向けてきた。暗がりの中でも分かるミルフィアの金髪の下、その表情は真剣だった。

「私は、ミルフィアは、主のお役に立ていますか?」

「は?」

 真っ直ぐと見つめる青い瞳は澄んだ湖畔(こはん)のようだ。けれど視線に感じるのは愛らしいものではなく、切羽詰(せっぱつま)ったものだった。

「主は、優しい人です。私に負担をかけないように、ご自分でなんでもしようとしています。主のお気遣いは、いつも嬉しく思っています」

 ミルフィアを奴隷として使いたくない。それは今も昔も同じだった。なにより、俺のために戦って傷つくミルフィアをこれ以上見たくない。

 ミルフィアも分かっていたんだろう。そう言った後、ミルフィアは目線を下げた。

「ですが、同時に思うのです。私は、主のお役に立っているのだろうかと……」

 ああ、なるほど。

 ミルフィアの不安というのは、自分が奴隷として機能してないことで不要なんじゃないかと心配してたのか。

 見ればミルフィアの表情は深刻だ。心細いと書いてあるように顔は暗い。

 それで、俺は言ってみた。

「なあミルフィア。たとえばだ、世界最後の日、世界には俺とお前の二人しかいないとする。そして目の前には一つだけ残されたパンがある。もしだ、そんな状況で俺がお前とパン、一つを選ぶとしたら、どっちを選ぶと思う?」

「それは……、食糧がなければ生きていけません。パンではないですか?」

 突然の質問に少々戸惑いながらミルフィアが答える。

「正解。俺はパンを選ぶね」

「はい。それが正しい選択です」

 言うと思った。だから用意していた次のセリフを言った。

「そして、そのパンをお前にやるよ」

「え?」

 見れば、その先には驚いているミルフィアがいた。俺からの答えがそれほど意外だったのか。まさか奴隷の自分がパンをもらえるとは思っていなかっただろう。

「安心しろミルフィア。お前は俺にとって誰よりも大切な存在だよ」

 この言葉を言うのに、なんら躊躇いはなかった。真実、そう思っているのだから。

「はい、ありがとうございます」

 安心してくれたのかミルフィアも微笑んでいる。

 が。

「ですがそれはなりません。主が食べてください」

「いや、お前にやると決めたんだよ」

「でしたら、ミルフィアはいただいたパンを主にお渡しします」

「おい!」

 ちょっと待てよ、それじゃ意味ないだろうが!

「じゃあそのパンをまたお前にやるよ」

「そのパンを再びお渡しします」

「ならまたまたお前にやるよ」

「でしたらそのパンを再三お渡しします」

 くそ。この頑固娘、絶対に折れない気だな。

「わーった! わーったよ! じゃあこうしよう、これから先お前の手が必要になる時があるかもしれない。だからパンは二つに分けて二人で食べる。どうだ?」

「分かりました」

 ふぅー。

「しかし奴隷が王と同じ量というのはいただけません。三分の一でいいです」

「あーもう、それでいいよ! まったく」

 仮定(かてい)の話なんだから素直にもらっておけばいいものを。それをこんなにもムキになって。でも、それは俺も同じか。

 そう思った途端なんだかおかしく思えてきた。

「……ふっ、はは。はっはははは」

「ふふっ」

 見ればミルフィアも口許(くちもと)に手を当て微笑んでいた。そんな彼女を見れてようやく俺も安心できる。暗い顔なんかよりも、こうして笑っているミルフィアの方がよっぽど可愛い。

 そんな彼女を見て、俺は今一度思う。

 こんないいやつが、奴隷でいいはずがないんだ。一人でいいはずがないんだ。もっと幸せになって欲しいと思う。そのためにも。

 明日の誕生会、是が非でも成功させてやるんだ。

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