あの人、あの味、あの香り

さら坊

思い出す、あの時間

「ありがとうございやした―――」

 疲れ切った目をした青年が私の目も見ずにそう告げる。派手な髪色とピアス穴から見て、大学生だろうか。

 いつも通り、私はコンビニで自分だけのセットを購入し、冷たい一人暮らしの家へと帰る。

 今日は火曜日。私は抹茶ラテと菓子パンを買った。


 中にミルクや練乳が入ってようが、私にとって抹茶系統のものは、一種の記憶の引き金のようなものだった。



「どうぞ、お入り」


 まだ幼い手で小さくノックをした私を、包み込むような声色が家の中へと導く。日曜の午後。この家はいつだって私のために鍵を開けてくれていた。


「おじゃましまあす―――」


 中に入ると、私の視界は臙脂えんじ色に埋め尽くされる。不思議な模様が施されたカーペットが玄関に敷かれていた。大きすぎず、小さすぎず。上品な佇まいで敷かれたそれは、その先の空気感をこちらに悟らせる。

 ちまちまと靴を直し正面を向くと、そこには焦げ茶色のすだれがかかっていた。

 丁寧にかき分け、私はこの家の家主を探す。


「こちらですよ」


 奥ゆかしく飾られたリビングではなく、私の真後ろにある質素な和室から声は聞こえた。いつもと違う展開に、私は肩を持ち上げて驚いてしまった。

 その声は、まるで喉全体が音叉となっているように、私の耳に心地よく響き渡った。


「入っていいですか―――」

「ええ」私は腰が引けながらゆっくりと襖を開ける。


 そこには薄い布で作られた私が座る場所と、お湯がぐつぐつと煮えたぎる釜があった。今でさえよく知らない道具もたくさん並んでいたけれど、きっとどれも茶道具なのだろう、と幼い私も悟っていた。


 釜の真ん前に、その人は座っていた。

 細身で、それでいて目にはきりっと光が灯っている彼女には、老いによる弱々しさのようなものは感じられなかった。年齢は秘密だったが、きっと七十は超えていただろう。この人にはきっと着物が似合うだろうと、私は何度も妄想していた。


「たしか、少し前に大きなテストがあったんですよね。ちゃんと、できましたか」

「うっ―――できました―――」


 こちらを見ずに柄杓でお湯を混ぜながら、彼女は小さく笑った。私はいつも通りゆっくりと自分の場所に座る。


「あの―――前も聞いたかもなんですけど、こういうのってルールみたいなのありますよね。私、何も知らなくって、いいのかなって」


 私はなんとなく、茶道というものの細かさを知っていた。だからこそ、それら全てを破りながらお茶を楽しもうとしている自分が、その場から弾かれているような感覚に陥ったのだ。

 彼女は、ゆっくりと目線を私に移し、そして再び釜に戻した。


「この時間は、楽しいですか」

 厳格な空気感が、よりいっそう鋭さを増した気がした。

「もちろんです。ここに来るの、大好きなんです、私。毎週の楽しみで」

 嘘ではなかった。ここでしか味わえない空気感。美味しいお茶菓子と抹茶。そして彼女。うめさんと話す時間が、小学生の私にとってこの上なく至福だった。

「なら、それでいいんです。茶道だって、昔の人が楽しむためにできたんですから。根本は、そこなんですよ」

 そう言いながら向きを変え、紙にお茶菓子を広げる梅さんは、形式美そのものだった。


「これからも気軽に、この老いぼれに若い力を分けてやってくださいな」

 お茶菓子を私の目の前に置いたかと思うと、梅さんは私に頭を下げた。私も慌てて頭を下げる。


「パパとママが忙しい間、こんなによくしてもらって、私こそ申し訳ないです―――」

 再び釜の前に座る梅さんに、私は肩をすぼめてそう言った。


―――シャカシャカシャカ―――


 私の暗くなりかかった心を、心地の良いテンポで刻まれる音が浄化した。

 この時間、私は梅さんの手元にのみ、意識が集中する。

 無駄がなく、指先まで美しさを孕んだ動きは、より一層抹茶の香りを引き立てる。

 ピタリとその動きが止まると、茶筅をそっと立て、梅さんがまた私の前に茶碗を挟んで座る。

 私は慎重に茶碗を持って、泡だらけの抹茶を口に運んだ。

 苦みの中にある香ばしさ、その深み。一瞬自分は茶畑にいると錯覚するほどだった。



 加工され尽くした抹茶の飲み物を片手に、私はそんな淡い記憶をたどっていた。


「あなたはこの味がわかるくらい、大人なんですよ。いい意味でも、わるい意味でも。時には力を抜いてご覧なさい」


 梅さんの言葉が、あの味と共に頭に響く。


「ほら、肩の力を抜いて。ずうっと息を止めてたら、呼吸はできませんよ」


 目まぐるしく過ぎていく毎日。考える暇さえ許されないほどだった。

 目を閉じ、梅さんの姿を頭に思い描いた。


 決めた。明日、有給をとろう。そして梅さんに会いに行こう。

お茶菓子くらいしか、お供え物にはできないけれど。梅さんが天国で抹茶と共に楽しんでくれるように、とびきりよいものを持って。

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あの人、あの味、あの香り さら坊 @ikatyan

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