第34話
冷や汗が垂れ落ちる。零歌は今すぐこの場から逃げ出したくなったが、しかし冷静にこちらを見竦める夕日の瞳に揺らぎはなく、顔を反らすことすら許されない気持ちにさせられた。しかしまともに答える勇気も零歌にはなかった。
だから零歌は質問を返した。
「どうしてわたしが空先生を殺したなんて思うんですか?」
「質問しているのはこちらなのだが……咎めはすまい。音無夕菜として小学生生活を堪能していた私にとって、君は友人の一人だったね。その中で、君が私に『指切り』の暗号についてヒントを齎したことがあったのを、覚えているかね?」
確かにそうだ。零歌は『音無夕菜』との他愛もない会話の中で、『指切り』の暗号に付いて話したことがある。
「君は暗号を解く為の要が二進数であることを私に示唆した。あんなことができるからには、あの段階で君は『指切り』の暗号を解いていた。そうでなくとも、正解にかなり近いところまで肉薄していた。……違うかね?」
「はあ……」
「そうなのか違うのか、どちらなのかね?」
「あの時点では……ちょっと当たりを付けた程度でした。実際、あの直後でスマホで死体の画像を見て自分の仮説を検討した段階では、二進数説は外れだと思ったくらいです」
「まあそうだよな。二進数は暗号の基本だからすぐにたどり着くだろうけど、簡単に解けてしまわないよう、そこから一捻り入れておいたからな」
未明がそこで得意げな声を発した。誇らしげに絶えず首を縦に振る様子は、自分の考えた暗号の出来栄えに満足するかのようだった。
夕日はそんな弟を尻目に零歌への質問を募らせる。
「では君は『指切り』の暗号を解いてはないと?」
「いいえ……そうではないんです。あの後私は本格的に興味を持って、『指切り』の暗号に取り組みました。二進数説も再度検討して……最後には自力で解くことが出来ました」
別に暗号に興味があった訳ではない。それでも解いたのは、『音無』が次なるヒントを求めて来た時に、見栄を張れると思ったからだ。『音無』は零歌にとって、姉を除けば唯一の友達だった。簡単な謎を一つ解いただけで頼りになるお姉さんぶりを見せ付けられるのなら、そうするのは何でもないことだった。
「マジか?」
未明は驚いたように零歌を見た。
「こんなトロそうなお嬢ちゃんに解けるような暗号かよ? ネットの奴らが束になっても無理だったんだぞ? 信じらんねー」
「こう見えて能力の高い少女なのだよ。意欲や積極性に欠けるというだけで、たいていのことはやる気のないまま上澄みになれる。一意専心するものを見付けられればちょっとしたものだろうな。そしてどうやら名探偵の素質もあるようだ。自覚はほとんどないようだがね」
そんなことはない。あんな暗号さして難しくもない。それまでに解かれなかった方が偶然なのだ。零歌は自分を人より少しは賢いと思ってはいても、逸脱した賢さではないと自己評価している。ただ、彼女の周りには何故かバカが多い。それだけのことだ。
二進数で表した数値がアルファベットに対応しているのは間違いないと、ひとまず零歌は仮定した。それをそのまま文章に出来ない以上、何かキーとなる数値が別にあって、その分文字をずらして考えるのだとあたりを付けられる。
問題はそのキーがいくつかということだったが、所詮は5ビット以内の情報だと思い、まずは総当たりで一つずつずらして考えてみた。そのすべてで意味が通らないとなれば、これはもう被害者一人ずつに異なるキーが設定されているとあたりが付けられる。
ならばそのキーとは、被害者の名前や身分に関係するに違いない。
そこまで辿り着けば、イニシャルというキーを導くまではすぐだった。
「では、解き明かした暗号の続きを予想して、模倣犯として空を殺したのは、君か」
「そうです」
零歌はやむを得ず白状した。
場の空気が悄然となったのが分かった。特に唯花などは、身を震わせながら表情を消して零歌の方を見詰めている。こうなることが分かっていたから言いたくはなかったが、この状況で嘘を吐くリスクの方が大きいので、仕方がなかった。
「おまえかよ」
未明は唇を尖らせた。一瞬だけ忌まわし気な表情になったかと思ったが、すぐに肩を竦め、称賛するように口笛を吹いた。
「俺の芸術を虚仮にしたのはどこのどいつだ、ぶっ殺してやると思ってはいたが、いざそいつの前に立つと怒りより関心が先に来るな。いいや、正直ちょっと見直したわ。おまえ、陰キャの割にはアタマも度胸もちょっとしたもんだな」
殺人鬼に褒められても何も嬉しくはない。零歌はこんな奴とは違うのだ。
ふと、自分の肩が何者かにゆすられるのが分かった。振り向くと、目を真っ赤にさせた唯花が、信じがたいものを見るように零歌に詰め寄っているのが分かった。
その様子を見て、零歌は不安に思うとか戸惑うより前に、うんざりとした。
「ホンマなん?」
ため息を堪え、零歌は答える。
「うん。本当だよ」
「……なんでそんなことをしたんや?」
「ウザかったから。嫌いだもん私。あの先生」
それ以上でも以下でもない。怨恨による殺人など世にありふれている。その後の顛末は捕まったり捕まらなかったり様々だが、とにかく今のところ零歌は捕まっていない。
小学校四年生から六年生の三年間、零歌が感じ続けた深い憂鬱は、すべてテニス部の顧問である空の為にもたらされていたものだった。真面目にラケットを素振りしていれば『工夫がない』と怒られたし、トレーニングをちゃんとこなせば『もっとできる』と怒られた。試合に勝てば『慢心した勝ち方だ』と怒られたし、負けたらもちろん『練習が足りない』と怒られた。
もしかしたらこの人は自分が悪いから怒っているのではなく、怒ることそのものが目的でその為の理由を探しているのではないかと、常々零歌は思っていた。嫌な思いをさせ続ければ人は従順になる。そして心から従順な人間というのは指導者にとって鍛えやすい。だから指導者は部員に怒る。取り立てて怒る理由がなければ、でっちあげる。
実際、零歌は指導者に反抗したり練習をサボったりタイプではなかった。確かに零歌は試合に勝ちたいと思ったことはないし、練習に対する意欲もなかった。だが勝ちたいと思わないだけでちゃんと勝ったし、意欲はないだけでちゃんと練習していたのだ。にも関わらず、他にたくさんいる負ける人やサボる人を差し置いて、怒られるのはいつも零歌だった。
そのことへの不満を口にすると、零歌に期待をしているからだという理屈が帰って来たが、そんなのは空先生側の都合であって零歌には関係がなかった。ただ何も悪くない自分だけが理不尽に怒られているという事実だけが零歌にはあった。憎かったし、嫌いだった。殺してやりたかったのだ。
「けど、私がまともにやったって、隠蔽はもちろん殺しきることだって上手くいかない。だから、ずっと我慢してた。そんな時……私はこの力を手に入れたんだ」
柏木を意図的に殺害せしめた時、零歌は空のことも同じように殺せないものかと考えた。零歌はあらゆる落下物を人間の頭部に確実に命中させる力を持っている。それを用いて、大きな石なり植木鉢なりを落下させることが出来れば確殺だ。
今にして思えば他にもっとスマートなやり方があっただろう。『音無』を殺す作戦に空を巻き込んでやることだって出来た。しかし零歌は殺人初心者で、だからこそ妙に奇を衒った作戦を考えてしまった。
まず、空が帰宅する時間に、空のアパートのすぐ傍にある剣第一ビルの屋上に待ち伏せる。姉妹が深夜にボコられた件のビルである。そしてビルの前を通りがかった空が、あらかじめ仕込んでおいた一万円札を拾おうとかがみ込んだ拍子に、ナイフの刃を彼女の心臓をめがけて放り投げた。
零歌の『症状』はナイフがどこに落ちるかはもちろんどこを下にして落ちるかも操れる。ナイフの全身の内、どこかの一点を指定して症状を発作させることで、その一点を確実に着地点に被弾させられるのだ。高所から落下したナイフは十分な運動エネルギーを得て空の心臓に突き刺さり、あえなく彼女を絶命させた。
現場に何一つ痕跡を残さないまま、零歌は空を殺害してのけた。突き刺さったままのナイフにももちろん証拠は残していない。警察だってまさかナイフがビルの屋上から落ちて来たとは思わないから、そっちが調べられる心配はないだろう。
さらに零歌は捜査のかく乱の為、新たなる工作を行った。もう一本用意しておいたナイフに釣り糸を付け、空の指先に向けて落下させる。零歌の投げるナイフは百発百中で空の指を切り落として見せ、その度に釣り糸で屋上まで引き戻されては、再び空の指へと降り注いだ。
作戦はすべて机上の空論の上で成り立っていたが、零歌の『症状』は正確無比だった。最後に、スマホのカメラのフォーカス機能を用いて屋上から空の遺骸を撮影すると、インストールしておいたTORというアプリでIPを偽装しつつ、写真をネットにアップロードした。
この時、『THE END』の方はともかく、『INITIAL』というヒントまで残したのは、ある種の稚気に過ぎなかった。こんな簡単な謎解きに四苦八苦するネットの連中……というより、『音無』にヒントをくれてやるつもりになったのだ。
空の死骸がある路地とは反対方向の出口からビルを降り、零歌は帰宅する途中に自販機でファンタのグレープ味を二本買った。帰りが遅かったことに対する両親の小言を聞き流した後、何も知らない姉を自室に招いて殺人の成功をファンタで乾杯した。美味しかった。
……そこまでのことを、零歌は夕日らの前で語り終えた。
反応は様々だった。深夜は怒りに震えるように目を見開いており、正午は顔を真っ青にして怯えた様子を浮かべている。未明は腕を組み殺人行為の先駆者として零歌の手際を評価するように頷いており、夕日はフラットな表情で静かに話を聞いていた。
「……言っておくが、空を殺したことに対する咎めを負わせるつもりは、こちらにはない」
夕日が口を開いた。
「彼女はアヴニールの幹部だったが、しかし同時に抵抗組織のトップでもあった。殺す気まではなかったとは言え、仇討ちをしてやる義理はないからな」
「あの紐の跡と一万円札はそういうことかよ。いや何。大したもんだと思うわ」
未明は上機嫌そうに微笑み、頷いている。
「俺はただの残酷非道だけど、あんたは冷酷の上に外道だよ。評価を上方修正せざるを得ない」
零歌は恐る恐る唯花の方を見た。沈黙し下を向き、震えたまま話を聞いていた唯花は、突如として激昂したように立ち上がると、平手で零歌の頬を叩いた。
乾いた痛みと衝撃が響く。
「あんたが死ねば良かったんや! この人でなし!」
痛みよりも、唯花に殴られ罵倒されたという事実に対するつらさや哀しみが、零歌の全身を深く貫いた。思わず零歌は涙を流し始める。幼い頃のような激しい嗚咽を伴った涙だった。
「……あーらら。姉妹喧嘩だ」
面白がるように未明は言った。
「妹泣かしたらいけないんだ。俺も昔それで良く姉ちゃんに怒られたもんだわ」
「それはおまえが悪いだけなのだが、この場合は果たしてどうだろうな。……さて、これで聞きたい話は一端聞き終えた。今日はもう遅い。そろそろ横にならせてもらう」
そう言って、夕日は鉄格子から背を向けてその場を去ろうとする。
「家帰らねぇの?」
「ああ。小学校の親友がこの本部の教育施設に入っていてね。今は寝室で一人で過ごしている。寂しがってるに違いないから様子を見に行ってやらねばなるまい」
そう言って夕日は視界から消えた。
唯花は表情を消して立ち尽くしている。零歌は、いつまでも一人泣きじゃくり続けていた。
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