10:松本零歌

第32話

 朝起きる。

 身支度をしていても唯花は起きて来ない。いつもの寝坊だ。

 しかし零歌は、ベッドで微睡んでいる姉を以前のように起こしに行く気にはならなかった。起こしに行っても、零歌を幸せにしてくれるような優しく愛らしい態度を取ってはくれないことが、分かってしまっていたからだった。

 唯花は自分を無視したり、冷ややかな態度を取ったりしないものの、しかし以前のような親愛に満ちた笑顔を向けてくれることはなくなった。こちらから話しかけても上の空か、必要最低限の相槌しか打ってくれない。唯花の方から話しかけて来ることはなくなり、どころか目を合わせることさえしてくれない。

 朝食が終わる時間になってようやく母親に叩き起こされ、何も食べずに無気力な朝を通過して一人で学校に向かった姉に、追い付いた零歌は早速文句の声を上げた。

「ねぇお姉ちゃん。お姉ちゃんが私のしたこと嫌だったんなら、それはちゃんと謝るし、謝ったじゃん」

 唯花は脚だけは止めてくれた。振り返らないその背中に、零歌は声をかけ続ける。

「まだ私に怒ってるんなら、ちゃんと怒ってくれたら良いじゃん。向き合ってよ。そうやってだんまり決め込むのはズルいよ。つらいよ……寂しいよ! 今までこんなことなかったじゃん!」

 そうだった。確かに二人は仲良しと言えど、十三年間一つの屋根の下で生きて来て、ただの一度も喧嘩がなかった訳ではない。テレビのチャンネル争いだとかおやつの取り合いだとか、そういう姉妹らしいことだって何度もやって来た。だがそれらはすべて通り抜けることが出来た喧嘩だ。唯花は優しいからたいていの場合は自分が譲ってくれたし、零歌の方から謝罪をする時もすんなりとそれを受け入れてくれた。今回のように、これだけ謝って仲直りを持ちかけているのに、つれない態度が続くのは初めてだった。

「ごめんってば。それとも、ちゃんと原因まで理解して反省しなきゃダメ? 音無さん殺す為とは言え小学校に飛行機落としたのがダメだったんでしょ? 違う? それともちゃんと相談しなかったのがダメだった? 私分かんないからさお姉ちゃん教えてよ。ねぇ……何か言ってよ」

 言いながらぐずぐず涙を流している自分に気が付く。どうして最愛の姉にこんな冷たい態度を取られなければならないのだろうか? 零歌は生まれて初めて自分の全身が消え行ってしまうかのような気分を味わった。

 やがて唯花がこちらを振り向いて、零歌の方をじっと見詰めた。

 その瞳はどこか虚ろだった。

「お姉ちゃん……?」

 そう言って恐る恐る姉に近付いて行く。これほど表情の消えた姉を見るのは初めてだった。

「なんでそんな顔をするの? なんで笑ってくれないの? ねぇ、酷いよ。もしかして私のこと嫌いになった?」

「なってへんよ」

 唯花は答えた。表情にも声色にも暖かい物は何一つなかったが、それでも零歌は嬉しかった。返事をしてくれたことが。自分を嫌いになった訳ではないと言ってくれたことが。

「ウチはな零歌ちゃん。自分がちょっと情けない」

「……? どうして?」

「零歌ちゃんを嫌いになれん自分が情けない。あんなことをやらかしてずっと平気な顔をしとって、いつもと何も変わらんとアホな言い訳ばっかしよる、そんな恐ろしい零歌ちゃんのことが、それでも嫌いになれん自分が情けない」

 なんでそんな寂しいことを言うんだ……? 愕然とする零歌に、唯花は尚も言い募る。

「嫌いになれんだけやなくてな、やっぱり嫌いになりたくもないねん。何なら嫌われたくもない。突き放すことも責めることもつらいからやりたくない。今まで通り仲の良い幸せな姉妹でおりたいとすら思う。だけど……それは本当に罪深いことやと分かるから、ウチは自分がどうすれば良いか分からんのや。零歌ちゃんとこの先どういう風に生きたら良いのか、分からんのや」

「なんで?」

「ほなって……ウチらの足元には、あの飛行機事故で亡くなった二百人を超える人達の屍があるんやで? そのことを知りながら、ウチはどんな顔をして零歌ちゃんと仲良くしたらええねん? 幸せに生きたらええねん? 亡くなった人達に、どう償ったらええねん?」

 そんなことは……零歌は思う。

 どうでも良いことなんだよ。

「別に良いじゃんそんなの」

 零歌は正直に自分の胸の内を表現した。

 すると、唯花の無表情に、困惑と、そして恐怖が滲み出る。

「別に良い……って、零歌ちゃん。ホンマに言うとるん?」

「え……うん。だって、確かにたくさん人は死んだけど、それ私達に関係ないじゃん?」

「は?」

 唯花は微かに肩を震わせてすらいる。

「れ……零歌ちゃんが殺したんやで?」

「うん」

「うんやなくて……」

「でももうそれ終わったことでしょ? 過ぎたことでしょ? 今更私にどうすることもできないでしょ? だったらそれもう無関係ってことでしょ? 今あるのはその人達が死んだっていう単なる事実だけで、その事実が私達の暮らしに何か影響するかって言ったら、しないでしょ?」

「あんた……殺された人の立場や気持ちを、ほんの少しでも考えんのか?」

 唯花の表情に微かな苛立ちが滲んだのを見て、零歌は気圧されてつい「ごめん」と口にする。しかし続けて。

「そりゃあ自分が被害にあったら嫌に決まってるよ。つらいし憎いし、犯人の人格だって非難するよ。でも私は今回被害にあった側じゃないもん。関係ないじゃん」

「……本気で言っとるんか?」

「うん。だって自分の主観以外の何かを観測するなんてそもそも無理じゃない? 観測できない以上それは存在しないのと同じことじゃん。自分がされるのは嫌だけど他の人がされるのはどうでも良いなんて、誰だって同じことでしょう?」

「違うで零歌ちゃん。みんながそんな考え方だったら、世の中はものすごく冷酷なことになってまうで? それでええんか?」

「世の中は既に冷酷だよ。戦争も暴力も差別もあるし、格差も貧困もいじめもある。虐待も搾取も凌辱も。怖いこと嫌なことばっかりだよ。それは『良い』とか『悪い』とかじゃなくて、『事実そう』ってだけの話なんだよ」

「違う。人は皆少しでも周囲や社会と調和して、より良い方向に向かっていこうという意思を持っとる。時には魔が差して悪いことをしてしまうことはあるけれど、そうした人間は戒められ正されながら、全員でちょっとずつ進歩していきよるはずなんや」

「だったら今まで私がたくさんの人に意地悪されて来たのはどう説明するの? 『魔が差した』で済むレベルじゃないよね? そりゃあ全員が全員倫理とか道徳とかを遵守できればユートピアだけど、そんなこと不可能だって私幼稚園を卒業する頃には十分すぎる程分かってたよ」

 零歌は思い返す。虐げられ搾取され、バカにされ続けたこれまでの生涯を。男子からは下品なちょっかいをかけられ女子からは排斥され無視された。そしてその両方から侮蔑や罵倒の対象とされた。優しかったのは姉一人だ。

「この世界は冷酷なディストピアだよ。それはちゃんと理解して、適応しなくちゃダメなんだよ。降りかかる火の粉は払うんだよ。私達は私達の平穏の為に戦わなくちゃいけないんだよ。自分のことだけが可愛いだなんて、世界中の皆一緒だよ? 私達も同じようにできないと、大変な目に合っちゃうって分からない?」

 話せば話す程、零歌は己が正当性を確信するかのようだった。零歌は賢いから頭の中には常に筋の通った真理が整然と刻み込まれている。しかし従来の口下手故、それをこうまで理路整然と口にできることは珍しかった。それだけに零歌は喋れば喋る程勢いを増して、立て板に水の如くひたすらに捲し立てる。

「だから私はあの怖い人にこれ以上殴られないように飛行機を落としたんだよ音無さんを殺す為にねそれはお姉ちゃんの為になのにお姉ちゃんは私に嫌な態度を取って何でなの意味が分かんないお姉ちゃんってお人よし過ぎるのかなそれともアタマ悪いだけなのきっとそうだよ勉強できないもんね朝も一人じゃ起きられないしずぼらだしだらしないしやっぱばかなんだよこの先絶対苦労するよたくさん私を頼ることになるよそれちゃんと分かって謙虚にしないとダメだよね相互扶助なんだからさこっちにも限界はあるよ色々フォローしてあげてんだからさ優しくする以外何もできないのにそんな嫌な態度ばっか取るんだったらお姉ちゃんがお姉ちゃんの意味なんてないじゃんねえ! ねえ! 分かってんの!?」

「ああ分かるとも」

 聞き覚えのある声がした。

「今君が口にしているのは、倫理観が形成されて行く中で、誰もが直面し通り過ぎていくべき考え方だ。そうした考えを持つこと自体は、何もおかしくはない。健康な思春期における実りある通過点だな」

 振り向くと音無がいた。だがいつもと違うのは三つ編みの髪が解かれていることと、赤い縁の眼鏡を掛けていないことだった。そうしていると、音無は普段より格段に美少女に見え、さらにその表情の作り方には子供離れした怜悧さがあった。

「言っていること自体は可愛らしい程に年相応なのだがね。だがそうした考え方をこれほどまで一貫させ行動にも表せてしまうのは、あまりにも希少かつ危険な精神性と言わざるを得ない。精神鑑定を要すると診断させてもらおう」

「……音無さん?」

 見れば、音無は背後に二人の人物を従えている。一人は音無と同世代程の子供で、淡い髪の色をした美少年だった。もう一人は見覚えのある顔で、いつか唯花と真夜中のコンビニに行った時に遭遇した、長身痩躯の美青年だった。

「そこの彼女が校舎に飛行機を落とした真犯人だ。正午、未明、おまえ達は彼女のことをどう見る?」

「ヤ、ヤバいのだ……。ものすごく自分勝手でアタマがおかしいのだ……」

 正午と呼ばれた美少年は震える声で言った。

「キモいな」

 未明と呼ばれた美青年はそう切り捨てた。

「可哀そうになあ。誰にも優しくしてもらえなかったんだなあ。こんなに性格悪いんだったらしょうがねぇよなあ。周りが全部敵に見えてるもんだから、自分から全部敵に回しちまって、そうやって孤立して淘汰されていじめられる。そうなるのは自分がバカな所為だってことに気付けなくって、考え方は極端から極端にねじ曲がって、最後の最後は碌でもない暴発をやらかして周りを巻き込んで破滅する。典型的な陰キャの末路だ」

 未明が言うと、音無は窘めるように。

「そうやって理解したつもりになるのは危険だぞ。何せしでかした行為が行為だ。常人にはない何らかの闇がこの少女の精神には根差しているのだ。精神科医として非常に興味深い」

 零歌は困惑した。目の前にいる音無は零歌の知っている音無ではなかった。彼女は一人っ子で『姉ちゃん』と呼ばれるような相手がいるはずもなかった。そもそも彼女は小学生であり未明のような十代後半の弟がいるはずもなかった。

「そろそろ待機中の運転手が苛立ち始める頃合いだな。無駄話はここまでにしておこう。未明、数日前に雷に打たれた外傷は癒えた頃だな? 最初の仕事だ。この子達を畳んで車のトランクへ放り込め」

「了解。人通りがない内にやっちまおう」

 言いながら、未明は衒いのない足取りで一歩ずつ零歌に近付いて来る。

「逃げるで零歌ちゃん」

 唯花は零歌の手を引いて走り始めた。しかし。

「させねぇよ」

 未明は信じられない程素早い動きで唯花と零歌に肉薄し、その胸元に腕を回して拘束した。その両手には白いハンカチが握られている。

 ハンカチからは嗅いだことのない刺激臭がした。何かの薬品が染み込ませられているのだろう。その臭いが一度鼻に入った瞬間零歌の意識は混濁した。

 視界が暗転する。

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