第23話
早朝。学校に行く前に、姉妹は空先生が死んだ路地に面したビルの廃墟に向かっていた。
近所で廃墟と言えば三ツ木小学校かこの剣一宇ビルかのどちらかだ。やんちゃな男子達の探検遊びの餌食になるのはいつも三ツ木小学校の方で、こちらの剣一宇ビルは不人気で人はほぼ入らなかった。殺風景な会社ビルと小学校と、どちらを探索したくなるかを思えば、それは妥当と言えるかもしれない。
「……どこにいるのかな?」
零歌は言った。姉妹を呼び出した何者かはこのビルを指定しただけで、ビルのどこかとまでは言わなかった。しかし1フロアに付き部屋は一つしかないので、一階一階見ていけばすぐに見付かるはずだった。
だが手こずった。何故ならそいつがいたのは屋上だったからだ。出入口に向けて背を向けてタバコを吸っていたそいつは、零歌達が現れたのに気付くと「おせぇよ!」と声を荒げて振り向いた。
「いつまで待たせるんだよメスガキ共がよぉ! 任務も遅けりゃ来るのもおせぇ! とにかくおせぇ! こっちはこの後糞面倒な予定があって時間も押してるんだよ! 一秒たりとも待たせるな! クズ共が!」
精悍な顔をした二十歳そこそこの青年である。長身痩躯の体躯は筋金のように引き締まっていて、やさぐれたような鋭い瞳は鷹のようだった。染色しているのか元々なのか髪の色は淡く、その粗暴な口ぶりも相まって、かなり柄の悪い雰囲気があった。
「……お待たせしてすいません。屋上にいると思わなかったものですから、探したんです」
唯花が小さく会釈しながら言った。
「いいよ理由とかどうでも! おまえらは俺を待たせたっつーそれだけだろうがよ!」
青年は口からタバコを吐き出して、つま先でグリグリと火を消し止めた。
「まあいいや。で、おまえらどう思ってるの?」
「ど、どういう意味でしょうか?」
「空が死んだことについてだよ!」
青年は地面を強く蹴りつけて、血走った眼で言った。
「おまえらがたらたらしてるから死んだんだよな? そのあたりのこと分かってんのかよ! まさか本当に、空を殺したのが『指切り』だと思ってはしねぇよな? ああ?」
「……違うんですか?」
「違ぇよ脳味噌詰まってんのかよ! 写真見てねぇのか、写真!」
「見てません。その、怖いので」
唯花は困ったように言う。
「あーそうかよ。じゃあいいわおまえは。そこのおまえは? 見てねぇの?」
指名され、零歌は隠れていた姉の後ろから顔を出すこともせずに、いつものように答える。
「はあ……」
「なんだよその『はあ……』ってのは! どっちなんだよ」
「はあ……」
「どっちだっつってんだろ! 聞こえねぇのか!」
どうしてこの人はいちいち怒鳴るんだろう? どのように生きれば品性というものをこれほどまでに削ぎ落すことができるのか、零歌には甚だしく疑問だった。
「み、見ました……」
「それで? 何も思わなかった訳?」
「し、死んでるなあ、って思いました」
「そりゃ死んでるよ! 死体なんだから!」
青年は床を蹴りつける。
「いいかおまえら! あれは『指切り』の仕業じゃねぇ。『アヴニール』の殺し屋が空を殺したんだ! 無慈悲にもな! 証拠は写真に残っていた指の切れ端だ!」
「それが何なんですか?」
唯花が問うと、「分かんねぇか!」と青年は怒声を発する。
「これまで『指切り』は遺体から指を持ち帰っていたが、空を殺した奴は指を放置して行った! しかも! 『指切り』は指を必ず根本から切るが、空を殺した奴の切り口はまちまちだ!」
事実か否かに関わらず根拠のとても弱い推理だ。それでは誰も納得しないだろう。自分の洞察力が高いと思いたいから、些細な疑問点をひけらかしている。そんな印象すら零歌は受けた。
「偏執狂的な殺人鬼である『指切り』が、そんな雑な仕事をするとは思えねぇ。つまりこれは『アヴニール』の誰かが『指切り』の仕業に見せかけて空を殺したってことなんだ」
「それ、空先生がレジスタンスを率いていることが、アヴニールにはバレてるってことですよね?」
そこで零歌は口を開いた。見ず知らずの相手には委縮する零歌だが、何故かこうした指摘だけはコロリと口を吐いてしまう。他は何も言わないのに、言われたくなさそうなことだけは言ってしまう時があるのだ。それは零歌の対人関係を著しく悪化させる致命的な悪癖だった。
しかし青年は激昂しなかった。怜悧な瞳で零歌の方を見据えると、「確かに、必ずしもそうとは言い切れん」と静かな声で言った。
「が……確率は高い。あの殺しが模倣犯のものだっていうのは、ほぼ間違いないと思う。とは言え無差別犯の可能性もあるし、組織絡みとは別のところで恨みを買っている可能性も否定できない。が、蓋然性で考えた時、空が殺される理由があるとすれば、やはりアヴニールにレジスタンス活動がバレたと考えるのがもっとも自然だ。そう考えないのは危険とも言える」
それは確かに、この青年からしたらそう考えるべきなのだろう。
「……実際、いつバレてもおかしくない状態ではあった。だからこそ、一刻も早く音無夕菜を殺害する必要があった。なのにおまえらと来たらタラタラタラタラと……」
「どうして音無さんを殺す必要があるんですか?」
これは唯花だ。
「おまえらが知る必要はない」
青年は鋭い視線を零歌達に向ける。
「空が死んだ以上、これからは俺がおまえらとコンタクトを取る。俺の素性や組織での地位や『症状』を探るんじゃねぇぞ? おまえらがやることは一秒でも早く音無を殺して来るだけだ。それがおまえらの為でもある」
「それは……」
「嫌です」
零歌はハッキリと口にした。
「……は?」
「い、嫌です。私達、音無さんを殺しません。きょ、今日は、それを言いに来ました」
昨日一晩姉妹で話し合って、その結論を共有したところだった。
それは当然の権利ではあった。どんな理由があろうとも人を殺すよう要求される筋合いなどなかった。それでも唯花が迷っていたのはその指令が空先生からのものだったからなのだが、その空先生は既にこの世から去っている。
「……おまえらな。俺から逃げ切れるとでも思っているのか? 嫌でもやらせるだけだぞ?」
青年は鋭い視線を零歌達に送る。
「わ、私達にそれを強制できる程の力があるのなら、その力で音無さんをどうとでもできるはず……です。そうしていないのは、あ、あなた達にそれだけの力がないから……じゃないですか」
この害虫を姉から遠ざける為、零歌はなけなしの勇気を振り絞って訴えた。でもなければこんな粗暴な人間にまともな意見を言う等、零歌にはできるはずもない。頑張れるのは姉の為だからだ。
「わ、私達だってそれくらい、分かります。だから、言う通りにはしません。もう……か、関わらないでください。失礼しますっ」
言って、姉の手を引いて屋上を去ろうとする零歌。
青年の動きは素早かった。
一瞬にして零歌に走り寄ると、その首元を掴んで地面に引き倒した。そして喉笛を掴んで信じられない程の力を咥える。
自然、零歌は息が出来なくなった。青年の表情は無慈悲であり殺気も敵意も感じなかった。ただ操作の利かない機械を直すのにとりあえず叩いて痛めつけてみるような、そんな冷淡さだけがそこにあった。
「やめぇや!」
唯花がそう言って青年に吠える。青年の両腕を掴み、零歌を解放しようとしながら声をかける。
「分かったっ。もう帰りません。話をします。だから、いったん零歌のことは離してください」
その声に青年が耳を傾けることはなかった。零歌は意識が飛びそうになる。気絶するまで……いや死亡するまで青年はそれを続けるだろう予感が、巨大な恐怖となって零歌の腹の底から湧き上がって来た。
こうなると、零歌は最早手段を択ばない。
ここは屋上であり、仰向けに倒されて首を絞められている零歌からは青い空が見えた。そこに飛んでいる一匹のカラスに目を付けると、零歌はそれに向けて『症状』を作用させた。
飛んでいたカラスは突如としてその飛行能力を失って、真っ逆さまに青年の方へと落下して行く。着地点として設定したのは青年の脳天だった。あの高さから急所に降り注げば、ダメージは計り知れない。
死んでしまえ。
だが青年はすぐにそれに気付いた。そこで青年が愚かにも身を躱そうとしたら、軌道を変えたカラスが執拗に青年の脳天を穿つだけだっただろう。しかし青年の対処は完璧だった。
青年は身を低くしつつ、首を絞めていた零歌の身体を高く持ち上げた。そして降り注ぐカラスの盾とする。青年の頭上に降り注ぐはずだったカラスは零歌の背中へと着弾した。強い痛み。
「舐めんじゃねぇよ。そんなもんで……」
そう言いながら零歌を持ち上げ、青年はさらに力を込めて締め上げた。カラスの命中した背骨が痛んだが、それ以上に息が苦しかった。
「よくも零歌を!」
そこに唯花が突進して来て、その指先が青年に触れた。
「……なんのつもりだ?」
「ウチの『症状』は知っとるやろ? 妹を離せ。でないと殺すぞ」
唯花には『触れた者の重力の向きを自由にする』という力がある。触らなければならない制約があるが、逆に言えば指一本でも触れた物なら、重力を逆転させ『空に落とす』ことが可能だった。強力無比の一撃必殺攻撃だ。
青年は頬に挑発的な表情を頬に刻みながら、零歌を締め上げる手を休めずに唯花に言った。
「脅しだろ? 俺を空に叩き落そう経ってそうはいかない。妹を道連れに出来るからな。どう考えても俺の方が体重は重いから、しがみ付いて離さなければ、上と下で引き合って落ちていくのは空の方へだ」
「…………」
「最初から分かってて脅してるだけだろ? それとも、やってみても良いんだぜ? なあ、どうするよ?」
唯花は歯噛みする。脅しが通じないことを理解した唯花は、「こ、この!」と言いながら青年に掴みかかった。
「勝てるかよ!」
零歌を掴み上げた状態の青年に、それでも唯花は敵わなかった。脚を振り上げて脇腹を一撃すると、それだけで唯花はその場で蹲ってもだえ苦しみ始めた。
「俺を空に落とす度胸があるのなら、その力を使って音無を殺せ。簡単なはずだ」
言いながら、青年は片手で零歌を締め上げながら、脚では唯花を足蹴にするという行動を取った。姉妹どちらにとっても許しがたいその所業に、ハラワタの煮えくり返る思いをしながらも、零歌達は何も出来なかった。
「でないと、俺がおまえ達を殺す。分かったか?」
青年は唯花のアタマを踏みにじりながら言った。
「分かったか!」
「……はい」
唯花はか細い声で答える。青年の汚い靴の裏が唯花の白い頬に押し当てられていて、零歌は強い殺意を覚えたが何も出来なかった。
「何を分かったんだ? 言って見ろ」
「……音無夕菜を殺します。だから、妹を離してやってください」
青年はふうと鼻息を一つ鳴らすと、無造作に零歌を床へと放り投げた。
ようやく息が出来た。しかしそこに解放感はなくただ苦痛と屈辱と絶望だけがあった。見れば唯花は泣きじゃくりながらその場で蹲って震えている。零歌も同じような表情を浮かべてしまっているだろう。『症状』を駆使して二人がかりで立ち向かってもどうにもならなかった青年の暴力性に、姉妹は完全に屈してしまっていた。
「良いだろう。期限は……そうだな。一週間やる。それで殺せなかったら、こっちからおまえらのところに言ってヤキを入れてやる。分かったな……おまえの方も」
青年が視線を向けると、零歌は思わず「ひゃい……」と力なく頷いた。
「音無さえ殺せばもうおまえらの前には現れない。自由の身になれるということだ。だからしっかり殺って来い。……悪いな。じゃあな」
足音を立てて青年はその場から去っていく。
姉妹はしばらくの間、その場で何もできず、ただその場で苦しみにもだえていた。
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