7:松本零歌
第22話
ベッドでくつろいでいた零歌は時間を確認してスマホを閉じた。
起き上がり、零歌は外出の準備を始めた。まずは部屋着から外出着に着替えを行う。選んだのはこの間父親に買って貰ったばかりの白いワンピースだった。鏡の前に立って見ると、そこに映る顔が大好きな姉とそっくりなことに、思わず頬が綻んだ。零歌は鏡を見る度に幸せを感じられる少女だった。
近くに置いてある鞄を手に取り、昨日詰め込んだ教科書やプリント類を改めて見聞する。忘れ物がないことを確信してチャックを閉じると、時計を見てから姉の部屋に向かった。
「お姉ちゃん。じゅくーっ」
これだけで要件は伝わった。ベッドに寝転んでスマホを触っていた唯花はその一言で「うん?」と小首を傾げ、「あっ」と言ってからいそいそと立ち上がった。
「そうやった。今日からや」
「そうだよー。一緒に行こうね」
零歌は幸せいっぱいの笑顔を浮かべる。唯花は同じ笑顔を返してくれた後、困ったような顔をして。
「ごめん。全然支度済んでない」
そうだろうと思った。零歌は改めて時計を見る。まあ、何とかならないでもない時間だ。
「手伝うから大丈夫だよー。ところで記入物ってもう済んでる?」
「記入物……あ! まだや!」
今日が塾への初登校ということでいくつか記入物がある。しかし案の定それはまだらしかった。
「書き方教えるね。さ、席に着いて」
散らかった机の上で、零歌のそれよりも粗雑な字を書く唯花のすぐ近くに立ち、書き方を教えていると、零歌は自分の全身に何か甘ったるい喜びが滲むのが分かった。
「書き方はこんな感じだからね。大丈夫かな? 鞄の中はわたし詰めとくから、ゆっくり書いててね」
「うん。ありがとう」
妹を頼りながらあくせく記入物を埋めていく姉を見詰めていると、零歌は幸せを噛み締める。
一緒に塾に行けて良かったと心から思った。
塾の時間は午後の六時から八時半までの二時間半。月水金の三日間に渡って行われる。
普通クラスと進学クラスがあったのだが、入塾テストの結果、二人は共に進学クラスに行けることになった。講師の振る舞いは多少厳しいそうだったが、しかしやることはとどのつまり授業であり勉強だ。居眠りやお喋り、提出物の不履行などをやらかさない限り、勉強の得意な自分が叱られる心配はないだろうと、零歌は判断していた。
若い男性講師はホワイトボードに連立方程式の解説をするのを、零歌は生真面目に写し取って行く。指名を受けて問題を解かされる展開も何度かあったが、そのすべてで零歌はバッチリ正答して見せた。対する唯花の方は打率七割と言ったところだったが、隣で零歌が教えてあげると、自分で考えたかのようにハキハキと得意げに答えた。
上機嫌で勉強する零歌と違い、唯花は授業中も退屈そうにしていた。ノートはちゃんと取ってはいるが、先生の話をちゃんとは聞いていなさそうな時間もあり、ちょくちょく隣の零歌に話しかけて来る。
怒られるのやなんだけどなあと思いつつ相手をしていると、案の定怒られて零歌はしょんぼりとする。噂に違わず怒り方も結構きつい。意気消沈する零歌の背中を、けろりとしている唯花がこっそりと撫でてくれた。嬉しかった。
やがて塾が終わり、解放された零歌達は、塾の建物から出て行った。
「勉強つまらん……」
唯花は唇を尖らせて言った。
「えーでもやっとかないと。同じ高校行けないよ」
零歌は言った。海星高校は流石に雲の上にしても、第一高校かせめて西高校くらいには一緒に行きたい。零歌は既に大学まで姉と一緒に通うプランを脳内に思い描いていた。
「今からコーコー受験とか考えたあないやぁん! 宿題多いしぃ……零歌ちゃん手伝ってぇ」
「いいよぉ。帰ったら一緒にやろうね」
「ややわぁ。帰ったらごはん食べてゲームに決まっとるやん! こんなしんどい思いしたのに、寝る前の貴重な一時間宿題するとか嫌過ぎる!」
「じゃあいつやるの?」
「いつかや!」
どうも根本的に意欲がないんだなあと零歌は姉を評価する。やらせないとやらないのだ。塾に行くのはどう考えても大正解である。これでテニスなんかしていたら、アタマ空っぽ脳味噌ゆるゆるお姉ちゃんになってしまっただろう。
勉強を終えて夜の街を一緒に帰宅し、道中でたわいもない会話に耽る。零歌は幸せだった。塾なら自分のが優位である点と言い、怒られてしょんぼりしたら姉らしくちゃんと慰めてくれた点と言い、解放感を味わいながら肩を並べて帰宅するこの時間と言い……すべてが思い描いた通りに進行している。後は宿題を貯め込んで泣きついて来た時に、たっぷり甘やかしてあげれば完璧だ。早くも零歌はその時が楽しみだった。
「ところでな零歌ちゃん」
唯花は真剣な表情で切り出した。たわいもない幸せな会話からの切り替えが上手くできていなかった零歌は、微笑んだ表情のまま「なあにお姉ちゃん」と返答した。
「空先生……殺されてもうたやん」
その話かと零歌はがっかりした。そんな嫌な奴の話は唯花とはしたくなかった。
「うん。まあそうだね」
「ウチ、『指切り』のことがどうしても許せれん。人のことを自分のオモチャみたいに殺してしまうなんて、そんな身勝手なことはないと思う」
唯花は優しいからそう思うだろう。零歌だって自分や家族を何者かに殺されたりしたら、同じように感じたに違いない。
「でもさ。良かったじゃん」
零歌は言った。すると、唯花は妹の発言が信じがたいと言った様子で、目を丸くした。
「え……? ど、どういうこと?」
「あ、いや。誤解しないで。空先生が死んで良かったって言いたいんじゃなくってね。ただ、空先生が死んだお陰で、音無さんを殺すっていう任務も宙に浮いた訳でしょう? それが良かったなって言いたいの」
唯花は優しいから音無を殺す任務を遂行することに躊躇していた。もう一か月以上前から課されていたその任務を、ずっと放置して来たのだ。頻繁に呼び出されては『あなたには無理なの?』と詰められていたそうだから、そこから解放されたのは嬉しいはずだった。
「……確かにウチも、ナンボ世界平和の為とは言え、こんな小さな子ぉを殺すのには躊躇があったよ」
唯花は絞り出すような声で言った。様々な感情が、そこには込められているようだった。
「せやから実行できんかった。そら、空先生のことは信頼しとったし、あの人がどうしてもというんやったら、それは世界平和の為に必要なんやという確証もあった。やとしても……ウチにはどうしてもできんかったねん」
実際のところ、唯花は二つ返事でその任務を引き受けた訳ではないらしい。
何度も何度も『できない』と訴え、どうして殺さなければならないのかと理由も聞いた。しかし空先生はそれらに応じず、政府と中二病患者との間で戦争が起きても良いのかと怒って見せたり、あなたしか頼れないのよと泣き落として見せたりした。
「何でその子を殺さなければならないかって、本当に聞けなかったの?」
零歌はずっとそれが不思議だった。零歌から見て音無はただの子供だった。ああ見えて敏いところもあるようだったが、それだけだ。考えられるのは、『アヴニール』が重要視する程の強力な『症状』を持つ、中二病患者なのではないかということだった。
「聞けへん。知ったらウチらにとってむしろ危険やって言われた。粛々と殺せば良いと」
零歌も同じことを聞いた。だが人を殺せという極大のリスクを背負わせるのに、事情を説明しないというのにはモヤモヤとした。何故この優しい姉が人を殺さされなければならないのかと思うと、今は亡き空先生に対する怒りが湧いて来るようだった。
「そんなの言う通りにする必要なかったよ」
零歌はそう言って、優しく姉の肩を掴む。
「もう殺さなくて良いんだよ。空先生ももういないんだ。『サテライト』だって、とっくに私達を利用することは諦めてるよ。リーダーを失って、それどころじゃないだろうしね」
「……そうかなあ」
「そうでしょ。空先生は、私達が自分の元生徒で言うこと聞かせやすいからって、手駒扱いしようとしたんでしょ? だとしたら、何の接点もない他の『サテライト』メンバーが私達を使う理由なんて、きっとどこにも……」
唯花のスマートホンが鳴り響いた。
家族からの連絡だろうかと零歌は思った。そんなにもたもたと帰っている訳ではないのになと思いつつ、姉がスマホを取り出すのをじっと見つめる。
「……知らん番号や」
零歌は胸騒ぎを感じた。そして言う。
「無視しよ」
「……それしたら余計怖ぁなる」
「でも!」
「出て、何も関係ない電話だったら、それが一番ええよ」
唯花は握り潰された花のように笑った。
「ごめんな零歌ちゃん。ウチみたいなんが一番臆病なんやと思う。怖いものから逃げたいのに、目を反らす勇気もないんやから」
言って、唯花はその電話に出た。
「……はい」
良く聞こえないが、電話口からはどこか粗暴な声が響くかのようだった。唯花は最初から最後まで怯えた態度で応対し、最後には「分かりました。明日の朝行きます」と言って、電話を切った。
「お姉ちゃん……」
「『サテライト』の人やった」
零歌は絶望的な気分になった。
「妹と二人で来いって。でないとウチらが『サテライト』に消されるっていよる。どこまでホンマかは分からんけど……でも行くしかないと思う」
そして、唯花は泣きそうな顔になって零歌の胸に縋り付くと、振り絞るような声でこう言った。
「……ごめんな零歌ちゃん巻き込んで。お姉ちゃん、どう罪滅ぼしをしたらええか分からんわ」
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