第16話
その日の夜、俺は自室で『指切り』として使っているナイフを砥いでいた。
空先生殺害の決行日は明日だった。あの細い腰を掴み、でかい胸を貫いて心臓を一突きにすることを空想すると、俺のアタマは冴え渡り殺人に対するやる気が漲った。
殺人鬼『指切り』としての殺しは明日で完結させる予定になっていた。暗号メッセージがそれで完成するのだ。これまでに積み重ねて来たことがようやく形になると思えば、俺は興奮を禁じ得なかった。その興奮は遠足の前の幼児のように、わくわくで夜も眠れない程だった。
寝る前にナイフを砥いでいたのはその興奮を鎮める為だった。全身のあちこちに発散しそうになっている俺の気が、ナイフを研ぐという一点にしなやかに形を成して行く。決行前夜に良くやっているこの儀式を、俺は殺害行為の一部であるかのように愛していた。
その時。
部屋がノックされ、「お兄ちゃん、起きてる?」というか細い淡い声がした。朝日だ。
しかしこの『お兄ちゃん、起きてる?』というのは普段よりどこか甘い声だった。別に妹に度を超えた劣情は持っていないつもりだったが、それでも妹が『お兄ちゃん、起きてる?』と部屋を訪れるシチュエーションには、兄としての役得を覚えざるを得ない。世の中にはリアルの妹などウザくてブスなだけだと口にする可哀想な兄も多くいるが、俺は自分がその中に含まれないことを知っていた。朝日はカワイイ。
俺はナイフと砥石を引き出しに片付け鍵を掛けてから、「いいぞ入れよ」と口にした。
青いパジャマの朝日が、やや俯いた姿勢で入って来る。
寝る前ということでいつもポニーテールにした髪は降ろされており、それはどこか朝日の幼く無防備な姿のようだった。姉妹だから当然だが、そうしていると、かつて俺が憧れていた昔の夕日の姿に少し似ていた。
「あのね。お兄ちゃん、わたしね……」
そう言いながら、何かを言おうとして言う勇気がないと言った様子で、俯けた瞳で声を震わせる朝日。いつもは俺や深夜には生意気な態度を取りがちな朝日には珍しい様子だった。
「まあ座れよ。ほらベッド」
朝日がベッドに腰かけるので俺は自然とその隣に腰かけた。普段なら『キモいから離れて』と言われかねない近距離に陣取ったが、その時の朝日は拒まなかった。
漂うシャンプーやボディソープの匂いに俺は興奮を禁じ得ない。俺は朝日の肉体を間近に観察した。女子なら中二くらいで誰もがそうなるが、身長の伸びが緩やかになって来たことで、摂取した栄養は肉付きの方に回され始めたようだった。と言ってもそれはデブるという意味では決してなく、尻や乳が発育して女らしい身体になるという意味だった。少し前までやせっぱちだったのが、テニスで付けた筋肉と必要最小限の脂肪とで程好いハリが出ている。ずっと成長を見守って来た胸は、発育途上ながらなかなかに膨らんで、青いパジャマの下でしっかりと突っ張っていた。
今度留守中に下着でもパチろうかな? どうせ深夜が疑われるだろう。女には特に困らないがそれだけに妹は別腹だ。
「言いにくいことならゆっくりで良いからな。なんだ?」
俺は笑顔で朝日に優しい声をかける。肩でも抱いてやろうかと思ったが加減は肝心と思い我慢した。
「お兄ちゃん。わたしね」
「ああ」
「中二病になっちゃったみたいなの」
それを聞いて、俺は朝日に覚えていた劣情を微かに萎えさせた。そして苦笑する。
「そりゃあ大事だな」
「なんで笑うの! 本当なんだよ!」
「疑ってねぇっての。心配すんな、誰にも言わない」
これと言った衝撃は覚えなかったのは、いや衝撃を覚えつつも動揺するまでに至らなかったのは、それが十分に予想しうることだったからだ。
中二病とは伝染する類の病魔だった。実際、俺の『中二病』も多分夕日に移されたんだと思う。深夜の『天気予報』だって、口に出したことはないが正直怪しいものだ。
だとすれば俺達時川五人兄弟は『クラスター』の渦中にいることになる。昔っから俺達の中の誰かが風邪を引けばだいたい全員に蔓延していた。それと同じだと考えるとちょっと滑稽で、納得感と共に俺は苦笑を浮かべてしまったのだった。
「で……、どんな『症状』なんだ?」
「…………これ」
言って、朝日は一枚の紙を取り出して俺に差し出す。
見慣れたルーズリーフの切れ端だった。朝日の体温で少しぬくもっている。そこには大きく『契約書』という文字が躍っていた。その下は完全に白紙であり何とでも書けるようになっていた。
「これに書いた内容を、皆守らなきゃいけないみたいなの」
「ふうん……。これ、おまえが描いたのか?」
「そう。そういう特別な紙を作り出せるのがわたしの力みたいなの。これを作った瞬間にそれが分かった。実際にこの紙でした約束を破ったらどうなるのかまでは、実験しないと分からないけど……」
試しに俺達はその紙に『四月二十九日零時二十五分、時川未明は時川朝日の前で盆踊りを踊ります』と書き、それぞれの署名を用紙の一番下に書き記した。その後、俺は盆踊りをしないようにしていたが、時間が来ると猛烈にアタマが痛くなり始めた。
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
その激痛はまるで目玉が抉られるようであり俺はたまらなくなった。これに耐えることはおよそ不可能なのではないかと思われた。耐えていれば耐えている程痛みは強まりやがてアタマが破裂しそうになった。おそらくそのまま耐え続けていれば本当にアタマが破裂して死んでしまうのだろう。俺はおとなしく盆踊りを朝日の前で踊った。
「……どうやら本当みたいだな」
ワンフレーズで頭痛は収まり、俺は額に汗しながらその場で蹲った。
「大丈夫お兄ちゃん?」
「ああ大丈夫だ。それにしても、どうしてこんな力に気付いたんだ?」
「パチンコで大負けに負けた深夜お兄ちゃんがお金を借りに来てさ。もちろん断ったけどしつこすぎるから、来月には絶対返しますって契約書作ったの。で……作った瞬間、それが特別な契約書だって、わたしには分かった。理屈じゃなく、直観的にそのことがそれが感じ取れたっていうか……」
中学生の妹に金を借りに来るかつての憧れの兄に俺はアタマを痛めた。どこまでしょっぱい男なんだ、深夜よ。
「深夜は気付いていたか?」
「気付いてない。その効用を知ることができるのはわたしだけみたい」
その契約書の強制力を知ることができるのは朝日だけということか。何も知らない相手と契約を結ばせて、破るつもりの相手を引っ掛ける、なんて使い方もできそうだ。
「良く話してくれたな。ありがとうな」俺は妹には頼もしく見えそうな笑顔を意識して言う。
「いや別に……」朝日は若干目を反らす。「本当は夕日お姉ちゃんに相談したかったんだけど、いなくなっちゃったから」
俺は控えかよ。正直に言いやがる。でもまあ親父はほとんど家に帰らないし夕日も似たようなもんだし、正午は幼いし深夜は論外だから、相談するとしたら俺だわな。
「ねぇお兄ちゃん……わたし、どうしたら良いのかなあ?」
「誰にも言わなきゃ大丈夫だろ。使いさえしなきゃ誰にも分かりようがない症状なんだし」
使わなきゃバレないような力というだけで、中二病の症状としてはそこそこ当たりだ。何もしなくても駄々洩れになる類の症状は、すぐに捕まるので悲惨なのだ。
「でも……わたしだっていつか魔が差して悪用するかもしれないし……」朝日はベッドの上で体育座りをして顔を膝に埋めた。「自分のことも、わたしそんなに信用できないし……」
「おまえなら大丈夫だよ。それに、離島の隔離施設に行くのは嫌だろ?」その弱っている様子を見て、俺はとうとうその華奢な肩に腕を回してしまう。「おまえ、中学でもテニスで全国行けるように頑張ってるんだろ? 顧問にも期待されてるみたいじゃないか。そんなおまえが夢を絶たれるなんて話があるかよ」
「でも……良いのかな?」
「姉ちゃんだって相談したら同じことを言うはずだ。それは分かるだろ?」
「そうだよね。それは絶対そう言うよ」
朝日もまた夕日の『中二病』を知っていた。それを隠して生活していることも。その上で自分はどうしようと相談に来るあたり、真面目な妹だ。
「だろ? あの人は中二病患者が隔離される今の社会はおかしいっていっつも言ってる。俺も同じ意見だ。黙ってりゃ良い。中二病患者はほとんどそうしてるそうじゃないか」
実際のところ、中二病にかかった人間のどれくらいが正直に申告して施設に行くのかを俺は知らなかったが、そう言っておいた。朝日はそんなに賢くないのでそれで納得した。
「そ、そうなのかな? そうだよねっ」朝日は涙を溜めた瞳で俺を見上げる。
「そうそう。隔離施設に行くのは悪用してバレた奴だけで十分だ。政府だって本当はそのくらいに考えてる。軽々に名乗り出て後悔するのが、一番バカらしいぞ」
「……分かった」
そう言って朝日は決意したように頷いた。実際のところこいつの心は最初からこれに決まっていたと思う。何せこいつの心酔する夕日だってそうしているのだ。俺のところに相談しに来たのは、誰かに自分の判断を肯定して欲しかったのと、負担を共有してくれる相手が欲しかっただけだ。
「ありがとうねお兄ちゃん。その、だからくれぐれも……」
「ああ黙ってるよ」
そうして朝日が自室に戻って行った為、俺はベッドに置きっぱなしになっている『契約書』を手に取った。
「……さて」
俺は『契約書』の裏面にこう書きこんだ。
『さらに、零時四十分、時川未明は一人でコサックダンスを踊ります』
そしてそのすぐ下に自分の署名を施す。そして時間が来たにも関わらず俺がコサックダンスを踊らないでいると、さっきの頭痛が俺を襲った。
「……しめた」
どうやら間違いない。この紙は余白がある限り一枚で何度でも使える。
バカめ、朝日め。こんな大切なものを部屋に置きっぱなしにするなどと、天然ボケっぷりには毎度助けられる。深夜からしょっちゅうカモにされているだけはある。あいつの間抜けさは兄弟一だ。
万が一後から「返して」と言って来られたとしても、「捨てた」と言い張ればどうとでもなる。良いものを手に入れたと思いながら、俺は一人で、なるだけ音を立てないようにコサックダンスを踊るのだった。
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