5:時川未明

第15話

 その日は塾がなかった。さりとて、遊び相手も捕まらなかった。しょうがなく俺は家で勉強でもするつもりで帰途についていた。

 「おっ?」

 自宅の前に着いて、俺は驚いた。自宅のガレージに夕日の車が停めてあったからだ。

 俺の目の前で夕日の車はエンジンが止まり、扉が開いて中から一組の男女が降りて来る。運転席からは兄の深夜が、助手席からは姉であり俺達五人兄弟の長子である、夕日が。

 「世話になったね、深夜」

 夕日が言う。すると運転を務めていたのだろう深夜が「けっ」とダルそうな声を発して。

 「まあ貰えるモン貰えりゃあ良いさ。寄越せ」

 「ああ。そうか小遣いだな」

 夕日が財布から一万円札を取り出すと、深夜はそれを引っ手繰るように受け取った。

 「姉貴免許持ってる癖によ。運転くらい自分で出来ねぇのか」

 「つまらない冗談だな」

 夕日は不敵に微笑む。確かに今の姉ちゃんに運転は無理だった。深夜はそんな夕日に背を向けて、ガレージから立ち去って行く。

 「家には入らないのか?」

 「ああ。この金でパチ屋行く」

 「もう少しおまえと話したかったんだがな」

 「車で十分話しただろ。じゃあな。そのメガネだせぇぞ」

 そう言って深夜は俺の方には見向きもせず徒歩でパチンコに向かって行った。ガレージには深夜が使っても良い車が何台かあるはずだったが、奴は渋滞や信号待ちがダルいという理由で車の運転を嫌っており、行動はもっぱら徒歩だ。小遣いをちらつかされでもしない限り、運転手など引き受けたがらない。

 まあそんな深夜のことなどどうでも良かった。俺は嬉しい気持ちで夕日に近付き、「やあ姉ちゃん」と声を掛けた。機嫌は三割マシだ。俺はこの姉ちゃんが好きだったのだ。

 「未明か。久しぶりだな」 

 夕日は笑顔を返し、玄関へ向けて歩き出す。俺はその後ろに続いた。

 「最近帰ってねぇよな。仕事忙しいのか」

 「そんなところだ」夕日は言う。「流石に精神科医の方が休業しているから、今忙しいのは私が事業主をしている副業の方だ。今日も夜になったらまだそっちに出掛けなければならん。家にいられるのは三時間くらいだな」

 「そんな忙しいのに、兄ちゃん使ってまでわざわざ帰って来たんだな」

 「ああ。弟妹と会っておきたくてね」

 そう言って、夕日は俺の方に不敵な……しかし優し気な視線を送る。

 「会えるかどうかは賭けだったが、おまえが帰って来て良かったよ。支障がなければ、コーヒーでも淹れて話をしたいんだが」

 「もちろん構わないさ」俺は笑顔を浮かべた。




 コーヒーは夕日が淹れてくれた。疲れているだろうに優しいものだ。

 夕日の淹れてくれるコーヒーは信じられない程良い匂いがしてパンチの効いた濃厚さで、店で飲むのより美味いくらいだ。ブラックで味わう。酸味も好みちょうどだ。

 ……が、しかしそこには夕日ならではの茶目っ気もあった。コーヒーの中には妙なものが入っていて思わず俺はむせた。その拍子にコーヒーを取り落とす。テーブルが汚れた。

 ひっくり返ったコーヒーの中には俺が小さい頃に失くした指人形が入っていた。懐かしきピカチュウ。探し回って泣いた思い出がある。

 「……なんだよこれ」

 テーブルに出来た湯気を放つ茶色い池もどうにかしなければならなかったが、俺はその前にピカチュウの人形を指で示した。

 「それはおまえが小さい頃に失くして泣いていたものだ」夕日は不敵な笑みを浮かべて答える。「おまえが七歳で朝日が三歳の頃のことだ。当時高校生だった私が部屋でパズルをしていると、朝日が困り切った様子で入って来た。三歳児特有の支離滅裂な話を聞いたところ、未明がどうしても貸してくれない指人形を、朝日はとうとう盗んでしまったのだという。未明は半泣きになって指人形を探し回っているが、正直に打ち明けると叩かれる。何とかして欲しい、という相談だった」

 「……それで?」

 「盗んだのは良くないが、兄の為に罪悪感に駆られている朝日の様子は、三歳児にしては立派なものだった。こっそりお兄ちゃんに返しておいてあげるからと約束して、それっきり人形は預かっておいたのだ。今日までな。それがこの人形だ」

 「いやすぐに返せよ」

 「単純に忘れていてね。忘れている内にはおまえはその指人形を諦めた。朝日の方も所詮は三歳児だから出来事自体をすぐに忘れたようだ。後からその指人形のことを思い出した私だったが、今更だったので握り潰したという訳だ」

 「酷い姉だな」

 「だが朝日との約束は今果たしただろう。指人形はおまえに帰って来た」

 「無理があるぞ」

 「そう思うかい?」夕日は悪役のような含み笑いをした。「私もそう思う。悪かったね」

 「どうするんだ、このテーブル。いや、片付けるけど……」

 そう言って、席を立った俺に対し、夕日はその手の平を差し出した。

 「いやいい。私の『症状』でなんとかしよう」

 そう言って夕日がコーヒーで汚れたテーブルに手を触れると、まるで逆再生したかのようにコーヒーはカップへと舞い戻った。テーブルに染みついていたコーヒーも完全に跡形もなくなる。俺の指にあったピカチュウも、いつの間にやら消えておそらくはコーヒーの中にあった。

 「これで良い」

 夕日は『中二病』患者だった。

 それも、『この世のあらゆるものの時間を巻き戻す』という、かなり強力な症状を罹患している。医者である夕日がその力を自在に行使すれば、ありとあらゆる難病を治療できるのは明白だったが、しかしそれは許されないことだった。バレたら隔離施設に送られるからだ。

 夕日がそのことを嘆かない日はなく、また中二病とは本来素晴らしい力で才能なのだと言って憚らなかった。中二病患者が自由にその力を振い人の役に立つ社会が本来あるべき姿だと訴えていた。俺は完全には同意しかねていたが、今の政府の対応もまた正しいとは思っていなかった。

 コーヒーの片付けが済んだ後も姉弟はとりとめのない話をし続けた。夕日は自宅に趣味のジグソーパズルの為にもう一部屋欲しいという要望を口にした。だが我が家は三階建ての大きな屋敷とは言え、多趣味な姉の為だけに三部屋も四部屋もは使わせられず、主に深夜に阻止されているようだった。こればかりはあの愚兄にも感謝しておく必要がありそうだ。

 その内部活から朝日が帰って来る。朝日は夕日の顔を見て、兄である俺や深夜の前ではややつんけんとさせているその顔を、喜色一杯に綻ばせた。

 「あ! お姉ちゃん! 帰ってたんだぁ!」

 そう言ってはしゃいだ様子で駆け寄る。子供みたいな仕草……いや子供か。目は輝いており顔は綻んでおり駆け寄る足取りは幼子のようだ。朝日は俺が夕日を好きな以上に夕日が大好きだった。心酔していると言っても過言ではない。

 「やあ朝日。会えて嬉しいよ」夕日はそう言ってコーヒーカップを掲げる。「おまえも飲むかい?」

 「飲む飲む! 自分で入れるねっ」

 そう言ってぱたぱたとコーヒーメーカーへと歩いて行く朝日。それを見ていたハウスキーパーの一人が「私が淹れますが……」と声を掛けるが、朝日は断っていた。自分のことは自分でやりたがる奴だ。

 席に着いた朝日は、俺のことなど視界にも入らない様子で、夕日に学校や部活の話などを聞いてもらいたがった。夕日もまたそんな妹に笑顔を向けながら寛大に話を聞いてやっていた。

 「もうね先輩ったら酷いの監督の目を盗んでサボってばっかでさ自分が勝手に下手になるだけならどうでも良いけどそいつわたしとダブルス組んでるんだよ本当やんなっちゃうそれで怒ってやったら生意気だとか言われてさこっち来いとかって倉庫の裏に連行されたから反対にぶちのめしたんだけど何故かわたしが悪いことになってそりゃあ手を出したのはわたしが先だしそれは反省してるけどでも顧問も大分一方的でさ別に大したケガじゃないんだし両成敗が普通でしょなのにそもそも」

 朝日のマシンガントークにも気圧される様子なく笑顔で頷き続ける夕日。我が家の母は既に他界していて兄弟に女は夕日と朝日しかいないので、この二人には女同士の特別な絆があるようだった。名前似てるし。そこに疎外感を覚える程ガキではないが、しかし俺はなんとなく口数が減っていた。

 三時間は一瞬だった。主に朝日が夕日に話すのを聞いていただけだったが、それでも楽しい時間だった。午後七時を回ったあたりは夕日はおもむろに立ち上がると、名残惜しそうな顔で言った。

 「そろそろ仕事に戻るよ」

 「え、行っちゃうの?」

 朝日はショックを受けたようだった。そう言えばこいつ、今日は三時間しか家にいないって知らなかったか。

 「相談したいこととかもあったんだけど……」

 「すまない。また時間を作って帰るから」

 「うん。分かった。今日は楽しかったよ」

 「私もだ。じゃあな、未明も」

 「ああ。正午にも送らせるか?」

 俺は言う。正午は茶会に参加せず部屋で一人で勉強しているか遊んでいるはずだった。俺が尋ねると、夕日は「いや、いい。あの子とはどうせ……」と首を横に振った。

 「じゃあねお姉ちゃん」

 そう言って去って行く夕日を見送る朝日。夕日は朝日に軽い抱擁を交わした後、小さく手を振ってひさしぶりの自宅を去った。

 有意義な時間に感じられた。

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