第12話

 翌日、姉は学校に来られなかった。

 一人で登校した零歌はまず、教室に柏木がいないことに喜びを覚えた。零歌は柏木のことが嫌いだったし、自分に牙を向く厄介ないじめっ子がいなくなるという安堵と解放感は、気弱な人間にとってとても、本当に大きなものだ。

 出来れば戻って来なければ良いな……と考えて、それがつまり『死ねば良いのにな』という意味だと気付いた。それは流石に可哀そうだなと思おうとしてみたが、柏木が自分の日常に戻って来ることを思えば、死んでくれないと困ってしまうことも確かだった。自分をいじめた癖して自分から唯花を奪おうとする柏木にうろちょろされたら、苦痛であることこの上ない。

 一日の授業は静かに過ぎて言った。唯花のところに遊びに行けないので、その日は特に退屈だった。柏木がいない分教室が平和になるということもなく、他の生徒が威張り始めたのも憂鬱だった。

「ねえ松本さん。あなた、本当にあたしと仲良くしなくて良いの?」

 いつものように文庫本をちまちま読んでいると、春山が声を掛けて来た。嵐が過ぎ去るまで、零歌は乏しい会話力でどうにか受け答えを絞り出す。

「は、はあ……」

「はあ、じゃないのよ。ねぇ、松本ってさ、ちょっと、いやかなりトロくない? 何考えてるか全然分かんないし……」

「それは……ごめんなさい」

「いやさ……。もういいよ。そういう受け答えしかできないんだもんね。つまんないわ、あんた。一人で本読んでれば?」

 腹立たし気に去って行く春山を見送り、零歌は胃がしくしくするものを感じていた。目を付けられただろうか? もしそうなら厄介だ。怖い、苦しい。助けて欲しい。この教室に唯花はいない。つらい。悲しい。

 『中二病』にかかり『症状』として特殊な超能力を獲得したとしても、生活は何も変わらないんだなと、零歌は察した。その上、隠し続けなければ致命傷になる程の危険な秘密を一つ抱えることを考えると、中二病とは才能ではなく病であり、かかるのはやはり不幸なことなのだと実感させられた。

 どうにか一日を過ごし切り、放課後、零歌は気まぐれを起こしたつもりでテニスコートを見に行った。ここ数日の気分としては唯花に対する依存心が高まっており、そのことが唯花の入部したがっているテニス部の見学に零歌を駆り立てたのだ。

「あれ。零歌ちゃんじゃん」

 そう言って近づいて来たのは、小学生時代、同じテニス部に属していた一つ年上の時川朝日だった。東洋人離れした彫りの深い顔は日に焼けていて、色の淡い髪をポニーテールにまとめている。美人の先輩だ。テニスだってものすごく上手い。勉強も良くでき名門海星中学を志望していたが、そっちは残念ながら滑ってここに来たようだ。

「朝日ちゃん」

「小学生ぶり? 唯花ちゃんとは何度か会ってたんだけど、零歌ちゃんとは久しぶりかな」

「はあ」

「ははは。治ってないね、その『はあ』って言うの」

「ごめんなさい」

「謝んなくて大丈夫だよ。最近どう、中学生活はおもしろい?」

「あ、あんまり。お姉ちゃんとクラス離れちゃって」

「ああそっか。べったりだったもんねー」

「うん。すごく悲しい」

 朝日とはそこそこ付き合いがあり、零歌にしては話の弾む相手だった。元々彼女は目下には優しい性質で、会話力に乏しい零歌を相手にしても、膝を折って目線を合わせて話してくれるようなところがあった。

「でも朝日ちゃん。こんなに話して大丈夫なの? 部活中なのに怒られない?」

「あーそれね」

 朝日はコートを振り返り、そして言う。

「今日顧問来てないの。わたしももう二年だし、だからまあ……大丈夫じゃないかな?」

「そうなんだ。……ねえ、中学のテニス部ってどんな感じ?」

「んー? ……まあ、小学校と比べたら、ちょっとしんどいね」

 それを聞いて、零歌は思わず青ざめた。

「小学生の時の空先生さ、結構優しかったじゃん。滾々とお説教はするけど反論の機会も与えてくれたしさ、零歌ちゃんも結構口答えさせてもらえてたもんね。でも中学の顧問は怖いばっかで、イエスかノー以外で喋るなとか言われてね。後ね、やっぱ先輩付き合いとか大変。小学生の頃はお兄さんお姉さんが優しく振舞う感じだったけど、中学になるとさ、こう、ハッキリ上下関係って感じになってさ」

「は、はあ」

「マッサージとかさせられるし、使い走りもあるし。道具出しとか雑用もね、全部後輩がやるの。後、プレイや練習態度について、コーチや顧問みたいに怒鳴って来たりね。コーチや顧問はまだ大人だから、こっちがちゃんとしてたらどうとでもなるけど、先輩は所詮一個上二個上の子供だからさ。理不尽な時も多いよ。わたしも二年になって大分楽になったけど、大変だよ。生意気してると締め上げられて、殴られたりする子もたまに……」

 青ざめていた零歌がその上震え出したので、朝日は苦笑しつつ優し気に言った。

「ごめん。脅かすつもりはなかったの。零歌ちゃんはそうだね……確かに気が強い方じゃないけど、その分謙虚にしてられるのは良いところだと思う。何より、テニス上手じゃん。県大三位でしょ?」

「はあ……」

 かくいう朝日は全国大会も経験している。唯花も行けなかった全国大会だ。そのフットワークの軽さとスマッシュの鋭さに、零歌も唯花もずっと翻弄されっぱなしだった。唯花などは憧れの上級生と呼んで憚らない程だ。

「まあ、ゆっくり考えて決めなよ。ところで、今日唯花ちゃんはどうしてるの?」

「お家にいます」

「なんで? 風邪?」

「友達が死ん……入院しちゃって。ショックで」

「そっか。大変だね。ウチの病院かな?」

 朝日は零歌達の父が勤務する時川病院の院長の娘だ。とは言え家族ぐるみの付き合いがある訳ではなく、朝日の他に四人いるという兄弟にも会ったことはない。

「零歌ちゃんは大丈夫なの?」

「うん。大丈夫」

「そっか。なら良かった。でも無理はしないで」

 朝日は元気づけるように優しく微笑み、そして背を向けつつこちらに手を振った。

「じゃあ、そろそろ先輩になんか言われるかもだから、戻るね」

「うん。あの、ありがとう」

「ううん。こっちから声掛けたんだし、ひさしぶりに話せて良かったよ。じゃあね」

 そう言って立ち去って行くしなやかな背中を見送ってから、練習に励むテニス部員たちをじっと眺める。

 そうやってしばらく呆然としてから、「やっぱ塾が良いな」とふと呟いてから、零歌は帰路についた。




 帰り道、公園の前を通り過ぎると、「松本さーん」と声をかけられた。

 近所の小学生である音無夕菜だった。赤い縁の眼鏡をかけて、絹のような黒髪を三つ編みにして左右に垂らしている。顔立ちはものすごく整っているが、どちらかというとそのファッションスタイルは、彼女の素材に似合っていないと零歌は思っていた。

「音無さん、こんにちは」

 小学生時代係り活動が同じだった程度の間柄だが、マンガやアニメの趣味が合って仲良くなった。音無は上級生にも壁を作らず人懐っこい性質で、零歌は実は目上や同輩より年少者を相手にした方が自然体で振舞えるタイプである為、相性も良かった。

「また殺されたね」

 音無は言う。

「はあ?」

 この『はあ?』はいつもの弱気な『はあ……』とは違う調子の短い『はあ?』である。相手の言葉が聞き取れなかったり、意味が分からなかったりする時に使う方だ。

「『指切り』だよ」

 他にあるのかと言いたげな口調で音無は言った。

「ああ。『指切り』ね」

 音無は連続殺人鬼『指切り』のファンである。事件として面白いと思っているだけで、『指切り』自身を敬愛している訳ではないと本人は言うが、その違いは零歌には今一つピンと来なかった。

「また被害者の指、切られてたね。どういう意味なんだろうね?」

「多分暗号だよ」

 音無の問いに、零歌は言う。零歌もこの件にまったく興味がないという程でもなかった。

「やっぱそうなのかな?」

 小首を傾げる音無。

「だと思うよ。だいたい推理の方向性は見当付くしね」

「え? そうなの」

「うん。こういうのはパターンとかあるから」

「でもネットの人達も答え分かってないみたいだよ」

「そうなの?」

「うん。特に意味はない説が今の主流になってて、皆ほとんどそこについては議論しなくなってるっぽい。自説を披露しても、すぐに否定されちゃう空気っていうか」

「そっか。じゃあわたしが思ってるのも違うのかな?」

「松本さんが思ってるのって何?」

 そう訪ねられ、零歌は答えるかどうか一瞬、悩む。そして言わないことにして。

「へへへ。ひ、秘密だもんねー。ふっふっふーっ」

 零歌は意地悪気に笑っておいた。年少者を相手にしている時でもなければ、決して見せないような挑発的な態度だった。目下は然程怖くないから比較的自然体が出るのだ。音無は「えーっ」と抗議の視線を向けつつも、しかしなかなかの敏さですぐに気付いたように。

「なんで? あ……分かった! もし外れてたら恥ずかしいから言いたくないんだ」

「ち、違うよ。そんなことないもんっ」

 零歌は思わず顔を赤くして否定したが、それが嘘であることは音無にはバレバレだったようだ。頬に笑みを刻み込みつつ、零歌がしたのと同じくらい挑発的な態度で

「ふーん? じゃあ教えてよ。自信あるなら教えられるでしょ? ね? ねぇってば!」

 そう言って縋り付いて腕を身体をゆすられる零歌。

「大丈夫だよ。松本さんアタマ良いからきっと良い線行ってるって」

「べ、別にアタマ良くなんか……」

「でも推理漫画とかの答えだいたい当てられるって言ってたじゃん。毎週やってる探偵アニメのトリックとかも、事件編だけで当ててたこと何度もあるし……」

「そういうのは得意だけど……でもこれは言いたくないのっ。自信なくなったのっ」

 あっさり白状した零歌に対し、音無は「むぅ……」と頬を膨らませつつ、妥協点を探るかのように。

「じゃあヒントだけ教えてよ。それなら良いでしょ?」

「ええ……それ同じことじゃない?」

「いいじゃん別にさ! 思わせぶりな態度取って何も教えてくれないのは酷いもん!」

 それはまあその通りだ。零歌は目下を相手には自然体が出るような小市民の小物ではあるが、しかし根が意地悪な訳でも無慈悲な訳でも決してない。要望に応えヒントを出すことにした。

「そうだねぇ……。音無さんは、わたしの下の名前って憶えてる?」

「覚えてるよ。零歌ちゃんでしょ?」

「どんな漢字書くか覚えてる?」

「ゼロのウタ」

「私に双子のお姉ちゃんいるの知ってるよね?」

「唯花ちゃんでしょ? しょっちゅう話題に出すもんね。寝坊助で忘れっぽくて零歌ちゃんより勉強できなくて、でも優しいんでしょ?」

「そうそう。で、その唯花の漢字をどう書くか覚えてる?」

「タダのハナ」

 音無はすべらかに答えた。『唯花』を説明する時に、即座に『タダのハナ』という言い回しが思い付くあたり、案外賢い子なのかもしれない。……学校の成績は壊滅的だそうなのだが。

「これも松本さん言ってたじゃん。お父さんが数学がすっごく好きで、だからそういう名前になったんでしょ? ゼロとユイでこの世の全てのことはキジュツできるからって。……意味良くわかんないけど」

「覚えてたんだ、その話」

 零歌は感心した。きっと忘れてしまっていると思っていた。話したのは一度だけだし、自分にとってはともかくとして、音無にとって然程印象的な話だとも思えない。

「今の会話がヒント」

 唇に指先を当てて、零歌は微笑みを称えてそう言った。

「え?」

「考えてみて」

 そう言って零歌は思わせぶりにその場を去ることにした。こういう小癪な演出を目下を相手に得意げにやって喜んでいるあたりも、零歌の小市民の小物ぶりが表れてしまっていた。

「分かった。じゃあ、考えてみる」

 音無はそれ以上食い下がらなかった。考えてみるというのは本当なのだろう。「うーん」と腕を組んで唸ってみたり、自分の指を出して、被害者の切られた指を模して追ってみせたりし始める。

 零歌はふと思いついてスマートホンを開いた。そして殺人鬼『指切り』についてまとめられているサイトの内の一つを表示して、自分が考えていた説を検討する。ところが。

「……外れてんじゃん」

 零歌説に従ってメッセージを紐解いても意味のある文章にはならなかった。そのことを伝えて帰ろうかなと思いつつも、多分バレないだろうと思い直してスマホを仕舞った。

 あのヒントだけで零歌説の全容を把握するのは、小学五年生には難しい。的外れなことを言ってしまったが、どうせバレないだろうと思い直した。

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