第10話
土曜日の遊びの誘いは断った。
唯花とも上手く口を聞けなかった。表向き自然体で振舞おうとしてはいたが、母親の腹の中にいた頃から一緒の姉が、零歌の動揺を見抜けぬはずもなかった。何かあるのかと問う唯花に、零歌は「別に」と白を切り続けるしかなかった。
土曜日は中学への進学祝いに買って貰ったばかりのスマホで遊んだ後、気まぐれのつもりで押し入れからテニスの道具を引っ張り出し、壁打ちをしてみたりして過ごした。母親からは「お姉ちゃんと一緒の部入るの?」と尋ねられたが、顔を伏せて「別に」と答えておいた。
翌、日曜日。この日は家族で出かける予定があった。あるNPB球団の本拠地でもあるドーム併設のテーマパークに、連れて行ってもらえることになっていたのだ。
その日は日曜日としては珍しくナイトゲームということもあり、昼間子供達をテーマパークで遊ばせた後は、ドームに向かうことになっていた。父親が野球観戦を楽しみたいのだ。
家族で楽しむテーマパークは素晴らしかった。この時ばかりは零歌は、姉に対して感じていた微かな軋轢も忘れ去ることが出来た。一緒になってはしゃぎ、姉の無邪気な笑顔を見る内に、何も問題ないのだと思えて来た。根拠は特になかったが、ないなりにそれは良いことのはずだった。
やがてドームに移動する時間になった。野球観戦には興味のない零歌だったがわがままは言わず、プレイボールに間に合わせる為に自動車に乗り込んだ。
「え? 嘘やんっ。やった」
ドームに向かう自動車で、後部座席の隣に座る唯花がスマートホンを見詰めて言った。
「なあにお姉ちゃん?」
「一昨日話した柏木さんな、野球見にドーム来とるって。一緒に見ようって」
そう言われ、零歌は思わず顔を引き攣らせた。
「そ、そんなの無理だよ。だって、席は決まってるんだし……」
「こっちの親さえいいんだったら、向こうの親が移動して、一緒に見れるように調節してくれるらしいで」
そう言って、唯花は懇願するような声で両親に言った。
「なあママ、パパ。ちょっと話聞いてくれへん? ドームに柏木さんが……」
「ああ。柏木さんね。だいたい、話は分かったよ」
父親は訳知り顔で言った。
「し、知ってるの?」
「ああ。柏木さんのお父さん、パパが働いてる病院の技師の人だし」
知らなかった。
「じゃあちょっと柏木さんのお父さんと話してみるね」
「うん。やったぁっ」
諸手をあげて喜んでいる唯花を見て、零歌は絶望的なまでの疎外感を覚える。何度も見て来たはずの姉の明るい、はしゃいだ笑顔が、まるで別人のように感じられる。
いや、もしかしたら別人なのかもしれない。
自分をいじめた相手と会えることを明るく喜ぶ唯花など、それは唯花ではないはずだった。
両親に連れられて来た柏木は、唯花の方を見るなり屈託のない笑顔で走り寄って来た。それは教室では見せたこともない程無邪気で、未だ強く残る本来の幼さをむき出しにしたような顔だった。
「奇遇だねぇ唯ちゃん! ラッキーだね」
「ホンマやな! 会えて嬉しいで」
手を取り合ってはしゃぎ合う二人から距離を置いて、唯花は灰色の瞳でそれを見詰めた。
「子供だけで観戦させるなんて……危険じゃないかしら?」
零歌の母親が苦言を呈した。もっと言ってやれと零歌は心の中で応援した。
「大丈夫! 向こうのお母さんが一緒に付いていてくれるらしい。……そうですよね?」
父親が言うと、柏木の母らしき女性は「はい」と笑顔を浮かべた。甚だしく余計な気遣いだった。
姉妹と柏木の三人の子供は柏木母に連れられて、本来は松本一家が使うはずだった四つ並びの外野席に向かう。
その道中、柏木が零歌の方を振り向いて言った。
「なあ松本」
「はい?」
零歌は力なく顔をあげた。柏木は教室で零歌を見る時の冷たい表情で、しかし若干の妥協を込めたような声で言った。
「春山にさ、あたしの悪口に誘われた時、あんた乗って行かなかったよな?」
「はあ……」
「それ、聞いてたから。それだけな」
そう言って、柏木は唯花に飛びついてはしゃぎ始めた。同じくらい明るい表情ではしゃぎ返している唯花を見て、零歌の心はますます沈んで行った。
やがてプレイボールの時が来た。当然の成り行きとして、零歌と柏木は唯花の左右に座った。
唯花は零歌と柏木の間にあるわだかまりのようなものを感じ取りつつも、巧みなバランス感覚で両方と均等に会話をすることを心掛けているようだった。零歌としては、拗ねた感情を唯花に悟られはしても困らせはしないよう、最低限度の受け答えを振り絞っていた。
それでも放置されるよりマシだった。柏木と心底楽しそうにはしゃぎつつ、思い出したように自分に声を掛けてくれる唯花のその優しさ……憐れみに、零歌は縋り付くしかなかった。
自然、零歌はぼんやりとただ試合を見ている時間が多くなった。と言っても野球はルールも良く知らないので、ただ打ち上げられては捕球されたり着地したりするボールを漠然と眺めていた。
そうしている内に、零歌は小学生時代にたまにしていた妄想を思い出した。
テニスで上級生と打ち合うように命じられ、一ゲームでも零歌が勝つまで休息なくそれを続けろと言われたことがあった。相手はクラブ一の実力を誇っていた時川朝日という女子で、彼女は申し訳なさそうな顔をしつつも先生の手前手を抜けず、零歌を叩きのめした。
打っても打っても的確にボールが帰って来た。一刻も早く休みたかった零歌は、自分がボールの軌道を超能力のように操れたら良いのにと強く感じた。ラケットに打たれて飛び交うボールの着地点を自由に操作できれば、時川朝日が放つ強力なスマッシュは打ち返しやすい位置に飛んで来て、打ち返したボールは相手のラケットの届かないところに着地するのだ。
妄想の中で、零歌はその超能力を用いて様々な相手を翻弄した。その力を持ってすれば、空先生が相手だとしても圧勝することは容易かった。
その時。ドーム中に歓声が響いた。高く打ち上げられたホームラン・ボールがドームの天井を掠めつつ外野席へと向かっていった。打った四番バッターは鮮やかにバットを投げ捨て、一塁ベースへ脚を進める。
零歌にはどうでも良かった。周囲の歓声や歓喜に少しでもつられるような性格はしていなかった。そして零歌はぼんやりとした……悪く言えば『とろい』正確の持ち主でもあった。ぼーっとしている時に危機が迫っても、たいていは気付かない。反応しない。
「零歌ちゃん! 危ない!」
唯花の叫び声がした。そこで初めて唯花ははっとしてあたりを見た。どういう訳か、周囲の視線が上空の一点に向いているのが分かった。
その一点とは外野席に迫り来るホームラン・ボールである。それは零歌の顔に向けて真っすぐ飛んで来ており、着弾までは後一秒もない程の距離に迫っていた。このまま身動きを取らなければ、それは零歌の身体のどこか……おそらくはアタマに被弾しそうだった。
零歌は動けなかった。体が竦んでしまっていたのだ。硬式の野球ボールが石のように固く、命中すれば大きなケガに繋がることは、父親から事前に注意喚起を受けていた。当たり所によっては、最悪死にかねない。
それは回避されるべき事態だった。
そうだとも、そんな危険なものが降り注ぐのなら、それは自分の頭上ではない。
もっと相応しい場所がある。そのはずだ。
そう思った瞬間……飛んで来るボールはその軌道を僅かに変化させた。それはボールの軌道全体からすると恐ろしく微妙な変化であり、カメラ越しに見たとしてもおよそ感じ取れるようなものではなかった。
零歌のアタマに着弾するはずだったボールは、外野席二つ分ずれて着弾する。
姉の悲鳴が上がる。
頭部にホーラムラン・ボールが命中した柏木が、激しく出血しながら意識を失い、その場に倒れ込んでいた。
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