第9話

 そして受難は最速で零歌を襲った。具体的に言うと、朝礼直後の休み時間に女子トイレに連れて行かれ、締め上げられるという目にあったのである。

 柏木に胸倉を掴まれて壁に叩きつけられた零歌は、およそ無抵抗のまま罵声を浴びせかけられた。

「こんなことでチクんなよ卑怯者!」

 柏木は鋭い三白眼の持ち主であり顔立ちも派手で迫力があった。さらには背後に無数の仲間も従えてもおり、零歌は恐怖してすくみ上ってしまっていた。

「あたし仲間に入れてあげるって言ってやったじゃん! いっつもぼっちで本ばっか読んでるあんたの為にさ! 思いやりのつもりだったんだよ分かってる? 素直に一緒に遊べばよかったじゃん! それをあんたが自分で嫌だって言ったんじゃん! それなのになんで先公を呼んで来るの? 何? あたしのこと嫌いな訳? 嫌いだから嫌がらせしたの? どうなの?」

 零歌はとにかく「ごめんなさい」「ごめんなさい」を繰り返して嵐が過ぎるのを待つしかない。取り巻き達から「ちゃんと答えなよ!」「ごめんなさいじゃなくってさぁ!」などと言われても、そもそも柏木の主張からは論理性の欠片も感じ取れず、何を言っているのかすら零歌には良く分からず答えようがなかった。

 その後も「卑怯者」だの「死ね」だの「調子に乗るな」だの口々に罵声を浴びせかけられ、その上トイレの汚い床に向けて突き飛ばされる羽目になる。生徒が掃除しているような学校の汚いトイレなど、用を足しに来るのすら苦痛だというのに、散々にも程がある仕打ちだった。

「もういい。あんたみたいなトロくて何考えてるのか分かんない奴と話しても時間の無駄だし。もうほっとくわ」

 床に転がった零歌を汚い足裏で蹴り飛ばす柏木。痛みの少ない臀部がチョイスされたが、威力はそれなりであり零歌は苦痛に顔を歪めた。

「これでチャラにして欲しかったら、もうチクったりすんなよ?」

「あ、えっと……ごめんなさい」

「ごめんなさいじゃなくって、分かってるの?」

 それはつまり、零歌の方が教師を巻き込むなどして話を大きくしないのなら、こっちもチャラにしてやるという意思表示でもあるのだが、零歌には何も分からなかった。そして何も分からないまま返事をする。

「あ……はい」

「……今度調子乗ったらそこの便所に顔沈めるんだからね。ほら……もう行って良いよ」

 零歌は肩を落としてとぼとぼとその場を去って行った。




 その後の授業で、零歌は胸の奥に重たい石を詰め込まれたような心地を味わっていた。

 この世に神がいるとは思えない理不尽な仕打ちに打ちひしがれると共に、今後も柏木とその仲間達と同じ教室で過ごさなければならないという憂鬱が、零歌の全身に重くのしかかった。

「松本ってああいう奴みたいだから。もう放っておいてやろう? ムカつくけど視界に入れなきゃ良いだけだし。うん? シカトするかって? しないしない、そんな価値もないよ。ちょっと顔良いだけの陰キャだしさ……」

 合間の休み時間にはそんな陰口も聞こえて来る。何も悪いことをした訳じゃないのに、何故ここまで嫌われなければならないのか。蔑まれなければならないのか。零歌は嘆くばかりだった。

 しかし捨てる神あれば拾う神あり。姉が来るということで待ち望んでいた昼休みに……零歌に話しかけて来た存在があった。

「ねえ。松本さんって、美人なのにぼっちだよね」

 そう、機嫌を取るように言ったのは、柏木程ではないが派手な顔立ちの女生徒だった。名札には『春山』とある。

「は……はあ」

「『はあ』って……カワイイ! 自覚ないんだねー。ウチのクラスじゃ柏木なんかよりずっとずっと飛び抜けて美人だよ? ねえ松本さん、今朝は散々だったでしょ? 松本さん、何も悪くないのにさー!」

 ねっとりとした媚びを含んだその声に、流石の零歌も察する。この人は柏木さんが嫌いで、自分と悪口を言いに来たんだ、と。

「小学生の時からさ、ずっとクラスで威張ってるんだって。ヤバくね? なんかそれっぽい顔してるもんねー? 性格悪い女王様みたいなさー。あいつがいなかったら、このクラスももっと平和だと思わない?」

 零歌はどう答えて良いのか分からなかった。この春山の言動に賛同する部分はないでもないが、しかし悪戯に肯定して共に悪口を言い募らせてしまえば、零歌の中の何か大切なものがすり減ってしまうことも予感していた。それは道徳や倫理というよりも品性の問題だった。

 「あたしさぁ、最初柏木に声掛けられて同じグループにいたんだけど、全然イケてないから抜けて来たんだよねー? あいつらブスだし、みたいな? それでミッキーとかちぃちゃんとかと一緒にいるんだけど……松本さんもどう? 仲良くしない?」

 零歌は目を白黒させた。友達は欲しかったが春山と一緒にいたいかと言われると否だった。中学から常には姉といられないことはどうにか受け入れていたが、だとしても零歌には自分とペースの合う相応しい相手が他にいるような気がした。

 その時、開けっ放しの教室の扉から、唯花が現れて元気良い声を発した、

「零歌ちゃーん。遊びに来たでぇ? おや?」

 唯花は零歌が春山に詰め寄られているのを見ると、堂々と歩み寄って衒いなく声をかけた。

「誰と話しよるん? あ、ウチ松本唯花。この子の双子の姉で……」

「お姉ちゃん!」

 零歌は席を立ちあがって姉の手を取った。

「待ってたよ。じゃあ、お話しよう?」

 春山からはそれは零歌が強引に話を打ち切ったようにも見えたはずだが、実際には姉が来てくれて嬉しくて春山どころじゃなくなっただけである。「お、おおう?」と困ったような顔をする唯花は、春山の方を一瞥してから苦笑を浮かべて。

「この人と話っしょったんちゃう? いけるん?」

「いいよ。お姉ちゃんと約束してたもん。……あ」

 はっとして、零歌は春山の方に視線を向け、そして若干の気まずさを覚えながら。

「その、約束、してたので……」

 春山は虚仮にされたような顔になって何か言おうとしたが、唯花が小さく両手を合わせて言外に謝罪していたのを見て、そっぽを向いて。

「好きにすれば?」

 とその場を立ち去って行った。




「ホンマに良かったん?」

 唯花は心配げに零歌の顔を覗き込んだ。その言葉に『友達ができそうだったのではないのか?』という問いかけが含まれるのは分かったが、しかし零歌は「うんっ」と迷いなく笑顔で答えた。

「いいよ。お姉ちゃんと約束してたもん。お外行こっ。お話しするとこ探そっ」

 教室は零歌にとって針の筵だった。せっかくの昼休みということもあり、学校内を冒険しつつどこか二人にとって楽しい場所を見付けたいという気持ちもあった。そうした冒険心はまさに先月まで小学生だった人間の発想だったが、しかし唯花は。

「そやなあ」

 優しく微笑んで、零歌に手を引かれながら教室を出た。

 『二人に相応しい場所』と言っても、そんな良い場所はそうそう見付かるはずもなかった。自然とただ散歩をしながらとりとめのない会話を交わすという恰好になり、二人はやがて運動場の前の渡り廊下へ脚を踏み入れた。

「ほら。あれ。テニスの」

 そう言って唯花が指をさしたのは、運動場に併設されたテニスコートだった。

「あそこ、テニス部が使う」

「……おっきいねテニスコート」

「せやな。この如月中は、ウチらの西小学校からテニス上手いのが入って来るから、テニス部の扱いがええらしいねん。そんでムッチャ強いんやって!」

「ふうん……」

 零歌は表情を俯けて言った。その沈んだ表情から零歌の意思を感じ取った唯花は、ふと寂し気な表情で。

「やっぱ、テニスは小学校でやめるん?」

 と尋ねた。

 零歌は頷くのを保留した。

 唯花と零歌の二人は小学校時代強豪とされるテニス部に所属していた。

 小学校でテニスをやっているところは珍しい。二人の通学する西小がそんな珍しい小学生テニスの強豪であることを知った母親は、幼い時分から二人にテニスのラケットとボールを買い与え、庭に簡易的なコートを設置して毎日遊ばせた。

 姉との遊び道具としてのテニスを零歌は愛していたが、しかし四年生になった時、実際にテニス部に入るとなると二の足を踏んだ。練習は厳しそうだったし、自由時間を奪われるのも嫌だったからだ。しかし唯花の方はかなり強い入部意欲を示していた為、姉と一緒にいたい零歌としては、半ば渋々共に入部することを決めた。

 そこから先は地獄の日々……とまで言うと大げさだが、かなりしんどい思いをした。顧問の空先生は担任のクラスの生徒などには優しいが、テニス部の面々には愛情の裏返しの厳しさを発揮したのだ。

 空先生は『テニスは遊びではない』などという、零歌にはとうてい信じがたい主張を叫んだ。そんなはずはなかった。おかしかった。スポーツの日本語訳は『余暇運動』であり余暇にする運動つまり遊びのはずだった。それは屁理屈でも何でもなく、実際もし零歌が『スポーツは楽しく、仲良く、笑顔で遊ぶものです』と口にすれば、周囲の大人は皆その通りだと頷いてくれるはずだった。つまり空先生の主張はバカげており一顧だにする必要もなく破綻しきっていて、狂気にすら彩られた戯言中の戯言のはずだったが、そのテニスクラブにはまさにその狂気が蔓延していた。空先生によって。

 零歌はどやされる為に外周を走り、怒鳴られる為に素振りをし、説教を受ける為にサーブやスマッシュを放った。しかしそのお陰で零歌の手足の筋力や反射神経やテクニックは鍛えられ、県大会の準決勝に進むまでになった。その準決勝の相手は姉だった。負けた。

 空先生には『なんで手を抜いたの!』と最後の最後で最も理不尽に、激しく怒られた。いつか殺してやると誓う程人を憎んだのはその時が初めてだった。

「一緒に塾が良いなあ」

 零歌は言う。放課後にも自分を鍛える時間を作りなさいという母親の方針により、部活動に参加するか学習塾に通うかのどちらかを零歌達は求められていた。

「ええでもウチ勉強苦手やしなあ」

「でも将来役に立つよ」

「そやけどなあ。ううん、ウチはテニスかなあ」

 四月も残り僅かとなり、そろそろ本格的に部活動を決定する時期に差し掛かっていた。唯花の方にも出来たら零歌と共にテニスをやりたいという意思があり、そこにある齟齬から二人は身動きが取れないままでいた。

「お姉ちゃん別に勉強苦手じゃないじゃん。みせっこした新入生テストの成績、二百二十人中で四十二番じゃん」

「でも好きやないもん。それに零歌ちゃんは十七番やったやろ?」

「そうだけど……。塾で一緒に勉強してたら一緒くらいの成績になるよ」

「それいうたらテニスかて、零歌ちゃん十分上手いやん。あの準決勝も零歌ちゃんやる気なかっただけでホンマにやったら絶対……」

「違うもんっ。手なんて抜いてないもんっ」

 零歌は珍しく声を乱した。手を抜いたつもりはなかった。それを空先生はともかく、唯花までもが信じてくれないのは悲しいことだった。ただその時の唯花が自分を妹にも対戦相手にも見ておらず、単なる敵としてただただ倒しに来たのがつらくて、ふてくされながらプレイしたその態度が誤解を生んだだけなのだ。

 二人にしては気まずい時間が流れる。本当は分かっていた。双子とは言え、中学生にもなれば色んな事についてずっと足並みを揃えることは不健康で、不可能なことでもあるのだった。

「ウチな……。明日の土曜、友達と遊びに行くんや」

 唯花が口を開いた。零歌はおもしろくもない気分で「そうなんだ」と俯いたまま答えた。

「それに……零歌ちゃんも誘いたいんや」

 零歌は顔をあげた。あっけなく食い付いた零歌に、唯花は顔を綻ばせながら話す。

「一緒に遊ぶのは皆、テニス部に入部するつもりだったり、もう入部しとる子でな。零歌ちゃんのクラスの子ぉも、一人来とるで」

「そうなの?」

「せや。ムッチャ良い子でな。クラスちゃうけど、ごっつ仲ええんや。零歌ちゃんとも、仲よぅしてくれると思うで」

「そうなんだ。なんて子なの?」

 尋ねた零歌に、唯花は明るい、屈託のない笑顔でこう答えた。

「柏木さんって子」

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