3:松本零歌

第8話

 ここ数日の松本零歌の朝は憂鬱に彩られていた。

 幸せな時間もある。起床して歯を磨いて身支度をして朝食の席に着く前に、双子の姉、唯花を起こしに行くところまでは幸せだ。唯花は零歌のそれよりも散らかった部屋の乱れたベッドで、見る度に毎回違う体勢で眠っている。零歌はこれを名前を呼ぶ、ほっぺたをつつきまわす、添い寝して体の各所を揉んでみるなどして起床に導く。

 寝ぼけ眼で歯を磨きながら意識を失う、かと思えばトイレに漫画を持ち込む、ベッドに舞い戻ろうとして叱られるなどしてだらだらしている唯花を、食卓で待っているのも幸せだ。母親は「お姉ちゃん待ってないで早く食べなさい」と急かしてくるが、零歌は生返事を返すだけで聞いてはいない。

 ようやく食卓に着いてもごもごとパンを口に詰め込む唯花を見ているのも幸せだし、その後並び立って今年から通い始めた中学校に登校するところまでも、まだ幸せだ。双子姉妹はいつも仲良しで、登校中も顔を引っ付け合わんばかりに近付けて、とりとめのないやり取りに耽る。姉とのそんな関係を零歌は何よりも愛している。

 でもそんな幸せも、その後に待ち受ける憂鬱を思うと、どす黒い濁りに満ちているかのようで、かつてのようには楽しめないでいた。

「どしたん零歌ちゃん。なんか最近元気ないけど」

 近所で有名な廃墟である三ツ木小学校の前を通る時だった。唯花はそう言って、心配そうに零歌の方を見る。この姉はかつて地方に住んでいた時の影響から脱しきれず、未だになまりが抜けないでいた。

「いやその……お姉ちゃんと違うクラスになっちゃったから」

 対する零歌は姉に先んじて喋り口調を修正していた。こちらに移り住んだのはもう三年も前になるので、唯花の方はずっと喋り方を変えないままなのかもしれない。適応力がない訳ではないのだろう。適応力がないのはむしろ零歌の方だ。

「小学校の頃は学年一クラスしかなかったから、ずっとお姉ちゃんと一緒だったじゃん? 学校でもそれでいけてたけど、実は今私あんまり友達いないんだ」

 実態は『あんまり』などと言うものではなく、話し相手の一人もいない状態が続いていた。自己紹介でしくじったとか、不良と揉めたとかそういう訳では決してない。小学校六年間を姉とべったりで通して来た為、他の子供との仲良くなり方を知らないだけだ。

「いけるよ零歌ちゃん。零歌ちゃん優しいし良い子やから、普通にしてたら友達できるよ。それに、まだ五月にもなってへんやん。焦るような時期ちゃうと思うで」

 優しい口調で諭すように言う唯花。

「でも……お姉ちゃんの教室行ったら、お姉ちゃん友達一杯出来てるし。なのに私」

「そんなんは人と比べるようなものとちゃうんよ。寂しいんやったら、今日昼休み零歌ちゃんの教室行くよ。おしゃべりしよ?」

「う、うんっ」

 そう言われ、零歌は少し元気になった。

 それから二人の会話はとりとめのない方向に舵を切った。両親の不在を縫って姉と夜中の街をふらついた痛快な思い出について反復した。コンビニの中ですれ違ったハーフ顔の高校生くらいの少年が、かなりのイケメンだったこと。その後コンビニを出た後で、小学校時代テニス部の顧問だった空先生とすれ違いそうになって焦ったこと。姉の機転で物陰に潜み、難を逃れた時の爽快な気分……。

 いつまでも通学路が続けば良いと零歌はどれほど思ったか分からない程だが、しかし非情な現実は中学校の校舎の形を持って、やがて目の前に現れた。




 廊下で姉と別れてそれぞれの教室へ向かう。

 席で自習……をする振りをして時間を潰そうと考えていると、自分の席を他の生徒が使っているのが見えた。あたり一帯の机をくっ付けて、朝っぱらからトランプに興じている。

 最近できた女子のグループだった。そう言えば昨日の放課後、『大富豪』の小学校ごとのローカルルールの違いについて盛り上がっていた気がする。零歌は姉と下校する為に早く教室を出たので最後まで話を聞けていないが、多分あの後、明日早く来てトランプをしようとなったのだろう。

 だがとにかく困るのは零歌だった。ぼっちの零歌にとって、机とは一日を乗り切る上で重要不可欠な城であり、教室内唯一の自分の居場所だ。机がなければ寝たふりも自習の振りも読書の振りもできやしない。

「あ、あの……」

 零歌は一世一代の勇気を出すことにした。自分の席に座っている柏木という少女……多分このグループの、というかクラスの中心人物……に声をかけ、自身の権利の主張と席の返還要求を零歌なりに展開した。

「その机、私の、です。あの、どいて、くれませんか?」

「でも今トランプしてるから無理」

 一刀両断だった。勇気を振り絞ったなけなしの抗議を、理屈も道理もない無茶苦茶な一言で葬り去られた零歌は、その理不尽さに打ち震えるあまり被害者意識一杯にその場を去った。

 ……が、その後教室の真ん中で立ち尽くしている時間が三十秒ほど続いて、零歌はそのいたたまれなさに耐えかね、半ば暴発気味に改めて立ち向かうことにした。

「あの……私席ないと、困ります」

「しつこいって。さっき納得してたでしょ何でまた来るの?」

「だって、だってぇ……」

「ああもう分かったよ。ほら」

 と言って柏木は近くにあった別の誰かの机を引っ張ってくっ付けると、そこを指で示した。

「仲間に入れてあげるから。一緒にトランプしよ。それなら良いでしょ?」

 どう考えてもそれは受け入れるべき申し出だった。それは、誰の席であろうと自分の座っている間は自分のものであるという崇高なる柏木の主義との折り合いを付けた上で、ぼっちである零歌を遊びに混ぜてやるという素晴らしい落としどころと言えた。柏木はクラスの中核を担うに相応しい度量を発揮したと言える。

 ここで『ありがとう』と言える零歌なら、ここまでの学校生活ももう少しマシだっただろう。しかしそうではないからこそ今の零歌があり、よって返事はこうだった。

「や、やです」

「は?」

「これ……私のじゃないので。席……返してください」

 零歌が返して欲しいのは誰にもはばかることなく堂々と座っていられる自分の席なのだ。何より零歌は今のやり取りで既に柏木が嫌いになっており一緒に遊びたくなかった。

「……やだよ。もうどっか行って」

 柏木は呆れた様子で剣呑な声を零歌に発する。そこにはもう先ほどまであった捨て犬に対するような情けはどこにもなく、害虫を退けるような冷酷さだけが滲んでいた。

「でも……」

「いいからどっか行けよ! うっさいんだよ!」

 それで零歌はすくみ上ってしまう。何なら目に涙が滲みそうになった。だが簡単に泣く程卑怯ではなかったので、どうにかそれを堪えて零歌はその小競り合いに敗走した。

 零歌は自分が客観的にどう見られているかを理解していた。それは席の取り合いなどというくだらないことで上位カーストのグループに反抗し、あっけなく退けられた弱ければ空気も読めないみじめな陰キャだった。教室中が自分を蔑んでいるように感じられ、零歌は消え入りそうな気分になった。

 こんな時頼りになるのは姉の唯花しかいなかった。朝礼まであと五分程しかないが話を聞いてもらい慰めてもらいたかった。そう思い零歌は姉の教室に向かう為廊下に出た。

 そこを歩いている一人の教員の姿を見付けた。

 零歌はその姿に救いを見出した。

「あ、あのっ」

「ん? どうしたの?」

 教員は半泣きの零歌を見て優し気な顔を浮かべた。中学生と言えども一年生の四月ともなれば多少の甘やかしがあり、べそをかいて被害を訴える彼女の話を教員は優しく聞いてあげた。

「分かった。じゃあ、先生がその子に言ってあげるね」

「はい……ありがとうございます」

 その後教員を連れてやって来た零歌を見て、教室中の空気が悄然となった。まさかあの程度の小競り合いで教師にチクって連れてくるとは思わなかったのだろう。ぽかんとした表情の柏木に、教員はやや剣を帯びた声で言った。

「それはこの松本さんの席じゃないの?」

「……ちょっと借りるくらい良いでしょ?」

「本人が困っているならダメよ。それに、学校にトランプなんか持ってきたらダメでしょう? 没収します。帰りに職員室に取りに来なさい」

 それから教員は柏木達に固められた机を元に戻すよう命じた後、一分足らずの短い叱責をして教室を去った。無事に自分の席と、何より尊厳を取り戻した零歌は、安堵感を覚えつつ席に座った。

「……うざいよね、松本。普通チクるかな?」

 松本達の聞えよがしの陰口の声が耳朶に響く。

 この出来事が、今後の零歌の受難を招くことは言うまでもない。

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