第3話

 その日の放課後のことでした。

「お母さん」

 時川でした。腕を組んでむっつり黙り込むわたしの隣でおろおろとしている音無に、そう言って声をかけました。

「お母さん、何を喧嘩しているのだ?」

「あははは」

 それを聞いて、音無はおかしそうに笑いました。

「ちょっと時川くんまた言い間違えてるよ。先生のこと『お母さん』は分かるけどさ、クラスの女子にそれいうのはまずいでしょ?」

「あっ。また間違えたのだ」

 時川は顔を青くして口元に手を当てました。

「女の人なら誰でも『お母さん』と呼んでしまうのだ。本当に恥ずかしいのだ」

「注意しないとダメだよ時川くん。ねえ、『お母さん』」

「誰がお母さんだ!」

 音無にお母さん呼ばわりされて、わたしは憤慨しました。

「っていうか今時川にお母さん呼ばわりされてた音無ですよね?」

「え? そうだっけ?」

「いや絶対そうでしたよ。そうですよね時川くん」

「え、いや、わ、忘れたのだ」

 時川はそう言って視線を泳がせました。こいつは本当にウスラトンカチです。美少年の外見に反して、クラス一の天然おバカキャラなのでした。

「それより、二人ともどうしたのだ? またいつもの喧嘩なのだ?」

「そうなんだよ時川くん。北原ったらまた怒っちゃって」

 そう言って困った顔を浮かべる音無に、わたしは顔を赤くして叫びます。

「あなたが怒るようなことをするからでしょう!」

「ごめんって北原。何が嫌だった?」

「はん。自分で考えてみてください」

 わたしが唇を結んでそう言うと、音無は「うーん」と逡巡するような声で。

「さっきの保健体育の授業で、大人に近付くとおまたに毛が生えて来るって話をやってて……」

「それで?」

「で、あたしが最近おまたの毛が生えて来たことを北原に自慢したよね? それで怒ったの?」

「違います」

「じゃあ、その後それが本当だって証明する為に、教室の隅でパンツ降ろしてスカートちょっとだけめくって、北原におまたの毛を見せつけたこと?」

「それも正直思い出したくもない記憶ですが、違います」

「じゃあ、その後で北原に『北原は生えてるの?』ってしつこく追及したこと?」

「違います」

「生えてるって言い張る北原に、『でも前一緒に温泉行った時生えてなかったよね?』ってからかったこと?」

「それもムカつきますが、違います」

「それで『最近生えて来たんです~』って尚も言い張る北原に、じゃあ見せてよって言ってトイレ連れて行こうとしたこと?」

「違います」

「それも拒否するもんだから、『はーい北原にはやっぱり生えてませーん。お子様でーす! みなさーん、北原はお子様おまたですよー!』って教室中に大声で言ったこと?」

「それですよ! それなんですよ! わたしが怒ったのは」

 わたしは音無のアタマを引っ叩きました。

「い、痛い。痛いって北原叩かないでよ」

「叩かれるくらいのことはしてるって自覚してください! このアホ!」

 わたしは音無のアタマを尚も引っ叩きました。

「……それは音無が酷いのだ。皆に言いふらすのはちょっとダメなのだ」

 時川がそう言って公平な審判を下しました。

「わ、悪かったよ北原! 別に良いと思うよパイパンだって」

「パイパンとか言うな!」

 わたしは音無の頭をさらに引っ叩きました。

「ま、まあまあ北原。何度も叩くのはやり過ぎなのだ。音無はちゃんと反省してると思うのだ」

 時川はそう言って間に入りました。こんな子供っぽい奴に仲裁されるだなんて屈辱です。わたしは尚も声を荒くして。

「わたしだって今に生えてきますもん! そしたらお子様じゃないですもん!」

「わ、分かったよ。分かったってば北原。ごめんって」

 そう言って頭を庇いながら謝る音無の頬にはこらえきれない笑みが浮かんでいました。

「今日約束してたじゃん。ウチのお菓子全部食べて良いからさ。機嫌治してよ」

「治します」

 わたしは許してやることにしました。決してお菓子に釣られた訳じゃありません。

「二人は今日音無の家で遊ぶのだ?」

 時川が小首を傾げてそう言いました。

「そうだよ時川くん。一緒に来る?」

 音無はそう言って時川を誘いました。レベルが低い者同士なのか、この二人は性別が違う者同士としてはかなり仲が良い方でした。

「いや、遠慮しとくのだ」

「え? 来ないんですか。別に良いですけど」

 わたしは目を丸くしました。こいつは声を掛けるとだいたい付いてきます。

「別に嫌な訳じゃないのだ。ただ、他の友達にサッカーに誘われてるのだ」

「ああ。先約があるなら仕方ないですね」

「のだ。今日は五時間目で授業が終わる日だからたっぷりできるのだ。出来たらキーパー以外をやりたいけど、キーパーでも別に良いのだ」

「なら頑張って来てください。じゃあ……行きましょうか音無」

「そうだね。じゃあね時川くん」

 そう言って、わたし達二人はランドセルを背負って歩き出しました。




 学校の敷地外に出る際、運動場の近くを通り過ぎます。そこで声が聞こえてきました。

「ねぇあなた? 今何を意識して素振りをしているの?」

 空先生でした。運動場の隅に設置されたテニス場で、ラケットを握る男子に何やら剣呑な声を発しています。

「さっき先生に指摘されたことはちゃんとアタマにあるの? ぼーっとただ振ってたら良いって訳じゃないでしょう? 漠然とやってるってことは、見てたら簡単に分かるんだからね!」

 叱られた男子生徒はしょんぼりとした表情で俯きますが、先生はフォローすることもしません。涙ぐんだ様子で再び素振りを始めた彼を、腕を組んでじっと見詰めているのでした。

「なんか……教室にいる時と違いますよね」

 わたしは音無にそう呟きました。

 五年生、六年生の授業が五時間で終わる火曜日と木曜日は、テニスクラブの練習日で、空先生はその顧問でした。

 小学校でテニスをやっているところは珍しいです。その中でも我が校のテニスクラブは強豪で知られており、大会では毎年何かしらの結果を出します。そしてそう言った実績は厳しい練習から生まれるものです。優しい空先生も、この時ばかりは心を鬼にするようでした。

「まあ、元々怒ったら怖い人ではあるしね」

 音無が言います。

「でも良いよね。あんな風に真剣に向き合って貰えるなんてさ」

「……本気で言ってます?」

 わたしが言うと、音無は一瞬、透明な瞳でわたしを見詰めると、いつものとぼけた笑顔になって。

「ウソウソ。ちょろい方が良いに決まってるよね」

 そう言って真っ赤な舌を出しました。

「じゃ。ウチ行こっか」

 音無の家は学校から徒歩で十五分程の、二階建ての小さなアパートにありました。

 古びた建物は茶色い塗装があちこち剝がれていて、鼠色のコンクリートを晒していました。住人だったという柄の悪い高校生が描いた卑猥な落書きが、もう何か月も消されずに放置されています。

 かなり人の出入りが流動的で知られるアパートで、音無家がここに来たのも、実は去年の四月だったりします。今でこそクラスに馴染んでいますが、こいつも昔は転校生だったりしたのです。

 鍵っ子の音無は扉を開くと、意外にも行儀の良い仕草で靴を揃えます。そしてわたしを部屋に案内しました。

「じゃ、お菓子とジュース持って来るから、部屋でくつろいでて」

「了解です」

 音無の部屋には何度も入ったことがあります。そこはもちろん散らかり放題の魔境……という訳では決してなく、部屋の隅にジグソーパズルの箱や額が積み上げられている程度で、基本的には整頓されたものでした。机にはパソコンが一つと、だいたいは作りかけのジグソーパズルが置かれています。部屋の壁には、所狭しと大小様々なジグソーパズルが飾られていました。

 わたしが壁に掛けられたパズルを見学させてもらっていると、音無がおぼんにお菓子とコーラとコーヒーを持って現れました。

「おまたせ。じゃ、画像見ようね」

 音無はノートパソコンを机から持ち上げて畳の床に置きました。音無の勉強机は大人が仕事に使うデスクみたいなデザインでしたが、如何せん椅子が一つしかないので、ここにパソコンを置いては二人では見られません。

 今日は、殺人鬼『指切り』がネットにアップロードしたという、被害者の遺体の画像を見ることになっていました。

「またあのグロいのを見るとなると、ちょっと緊張しますね」

 わたしはそう言って息を飲みました。

「気分悪くなったら言ってね。すぐ閉じるから」

 言いながらも、音無はパソコンを立ち上げました。

 良いパソコンを買って貰っているのか、パソコンの立ち上がりはスムーズです。音無はパソコンのパスワードをすべらかにタイプすると、フォルダに整理した画像を表示させました。

「はい、これが今回の被害者」

 それはやはりというか、おぞましい光景でした。

 胸を一突きされて殺害された、三十代くらいの男性です。夥しい出血がシャツを真っ黒に汚していて、コンクリートの地面にまでその鮮血は広く及んでいました。

 何より特徴的なのは、殺人鬼『指切り』の所以でもある、その切り取られた両手の指でしょう。今回は両手共に三本ずつ、左手からは親指、中指、人差し指が。右手からは中指、薬指、小指がそれぞれ切り取られていました。

「いつも思うんですけど……これってネットから削除されないんですか?」

 わたしが問うと、音無は答えます。

「すぐ消されるよ? でもそれより先に皆自分のパソコンに取り込んじゃうんだよね。そしたら後は、簡単に手に入れる方法なんていくらでもあるよ」

 確かに、ネットに詳しそうでもないクラスの男子が、スマホに表示させたのを見せびらかしているのを、前に見かけました。空先生も、あの時ばかりはクラスの生徒を厳しく叱っていました。

「でもこの画像、『指切り』が直接アップロードしてるんですよね? 発信元を辿ったら警察だってすぐ見付けられるんじゃないですか?」

「海外のプロバイダをいくつも経由して、辿れなくしているみたい。それ自体は別に高度な技術とかじゃなくて、TORとか専用のソフトを使えば誰でもできるね」

 音無は今度は別の画像を表示させます。それは電子化された新聞記事でした。

「被害者の名前は久方達郎、三十三歳の自衛隊員。殺された時間帯は一昨日の夜八時で、場所はバス停の近くの路地だってさ。大通りからは少し外れるけど、グーグルマップで見た限りだと、そこまで人通りがない場所って訳じゃなさそう。かなり大胆な犯行だね」

「自衛隊員……ってことは、強いんですよね?」

「かなり強いね。柔道三段で、大学時代、大きな大会で入賞もしてるんだってさ」

「……良くそこまで調べましたね。大したものです」

 わたしは真剣に感心していました。無地の1000ピースを完成させられるくらいですから、一つのことに集中する音無の力には凄まじいものがあります。

「ふっふっふ。北原よ、もっと褒めたまえ」

「その集中力を勉強にも使えたら、せめて平均点くらいは取れるんじゃないですか?」

「北原よ、余計なことを言うのはやめたまえ」

 次に音無は、エクセルファイルを一つ表示させました。

「で、これがこれまでの被害者の情報に、今回の被害者の情報を加えた文書だよ。殺された日付と、被害者の名前と性別、それに切られた指だね」


 4月6日 安西真琴 21歳女性※

 左手:親指、薬指、小指

 右手:小指、中指、人差し指、親指

 4月7日 吉本幸助 26歳男性

 左手:人差し指、薬指

 右手:中指、人差し指、小指

 4月13日 工藤昭雄 53歳男性

 左手、親指、人差し指、中指、薬指、小指

 右手:中指、人差し指、小指

 4月17日 中津川敦子 18歳女性

 左手:親指、人差し指、薬指

 右手:小指、薬指、親指

 4月20日 伊藤隆 18歳男性

 左手:中指、薬指、小指

 右手:薬指、中指、小指

 4月23日 久方達郎 33歳男性

 左手:親指、中指、人差し指

 右手:中指、薬指、小指


「で……興味深いのが、最初の被害者なんだよね」

 音無は言います。

「安西真琴さんですか? この米印の」

「うん。この人に限ってだけ、指を切られるだけじゃなく、口の中の歯を抜かれてるんだ。それも、小臼歯だけを八本とも全部。口の中の画像までアップロードされてるよ」

 小臼歯というのはいわゆる『小さい奥歯』のことで、犬歯の隣に上下左右に二本ずつ、合計八本ある歯のことでした。

「安西真琴は最初の被害者でかつ、『指切り』だけじゃなく『歯抜き』を行われた唯一の被害者なんだ。これには何か、重大な意味があるに違いないよ」

「犯人からのメッセージ……とか言ってましたよね?」

 そんな噂があるのはわたしも知っています。音無が騒ぐから……というだけでなく、普通に暮らしていれば家族やクラスメイトから耳にします。お陰で『見立て殺人』という言葉も覚えました。

「犯人である『指切り』がネットに死体の写真をアップロードするのは、その『見立て』について、日本中の皆に考えて欲しいからなんだろうね。警察だけじゃなくってさ」

「それなんですが」

 わたしは常々思っていたことを言いました。

「警察が今日この日に至るまで解き明かせていないその『見立て』を、一般人に解き明かせるとは思えないんですよね」

「確かに日本警察は優秀だよ。それでもあたしは、これを解くとすれば一般の誰かだと思ってるね」

「それはまた、どうして?」

「単純に人数の違いだよ。こんな大事件なら相当大きな捜査チームが出来てるだろうけど、それにしたって精々数十人とかじゃん? でも日本人は全部で一億人以上いるんだよ? どっちが先に真相にたどり着くかって言ったら、そりゃ一億の中の誰かじゃない?」

 そう言われ、わたしは思わず答えに窮しました。こいつが言うと屁理屈に聞こえますが、しかしいざ反論を試みるとなると、どこから攻めて良いのかどうか戸惑ってしまうのでした。

「そしてその一億人の中の誰かとは、このあたし音無夕菜ちゃんなのでした!」

 それはあり得ません。と、ぴしゃりと言ってやりたい気分でしたが、音無が真剣にこの謎に取り組んでいるのを目の当たりにすると、どうもそれを口にする気にはなりませんでした。

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