第57話 コート

(ばか、ばか、ばか……私のばか)


 すっかり忘れていた。

 トレーニングウエアしか着るものがない。

 仕事用スーツはクリーニング中だ。


「ファミレスだし格好なんて気にしなくていいさ。それよりたくさん食べろ。体作りは大事だからな」


 タブレットで食事を注文。ついでにビール。


「昨年はよく頑張ったな。DXの効果も順調に出ているし、QoRを交えたクリスマス大会も大成功。ミナミのおかげだ」

「いえいえ、大沢さんやみなさんに支えていただいたおかげです」


 大沢にこんなに褒められることなどほとんどないからニヤニヤが止まらない。


「それに、ついに念願のプロにもなったしな」

「はい。お待たせしました」

「ふっ、本当だ。今年はよろしく頼むぞ」


 二人で笑い合う。

 練習生として入社してから2年、これだけかかるケースは今までなかっただろう。


(何だか、こうして二人で話しているのって新鮮ね)


 せっかくだから、違う話題も振ってみる。


「大沢さん、お休みの日は何しているんですか?」


 そういえば、会社での大沢は、いつもクールで口数は少ないから、自分の仕事やプロレス以外の会話をしたことがない。


「そうだな。オフロードバイクでダートを走りに行ったり、昨日までは年越しスキーに行ってたよ。一人でだけどな」

「ええ?アウトドア派だったんですか?」

「らしくないって?」

「い、いえ。そんなことないですよ」


 普通に会話しているつもりだが、実はびっくりしていた。


(二人きりの食事だからかな、こんなに一生懸命喋ってくれているんだ)


 ミナミは何だか嬉しくて、ニコニコしながらビールを飲んだ。


(今度、スキーに一緒に行こうって誘ったら、びっくりするかしら)


 やがて、食事も終わり外に出る。

 さすがに、息が白い。


「今日はありがとうございました」

「いやいや。でもその格好じゃ寒いだろ。ほら」


 不意に大沢がコートを脱ぐと、トレーニングウエアのミナミの方にそれをかける。


「え?いや、これはちょっと。大沢さんの方が……」

「気にするな。選手が風邪引いたらおれの責任になるからな」


 そうして、大通りに向けて歩き出す。

 その後ろ姿を追いながら、ミナミは無口になっていた。


(……これが、大沢さんの匂いなのね。私の汗の匂いがコートについちゃったらどうしよう……)


 やがてタクシーが見つかる。


「明日からもよろしくな」

「はい。大沢さんも、風邪ひかないように」


 タクシーが出ると、ミナミはコートの温もりを思い出して一人で赤面した。












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る