16話 カノジョ・親友・カノジョ・今カレ・カノジョ

「急いで来てみりゃこれだ……」


フジが息切れひとつしないで入ってきた。朝のあいさつでもするみたいに爽やかに、自然に微笑んでいる。二人のミミはフジが通りやすいように端へ避けていた。


「ソイツに触れるなよ、常に綱渡りなんだ」

「綱渡り?」


フジは笑顔を崩さずに答えた。


「“寝かせない”と“死んじまう”の、ちょうど中間を歩かせてるんだ」


ぼくはフジに背を向けて、繋がれたミミの前にしゃがみ込んだ。

繋がれているミミがビクンと痙攣をした。痙攣をした、というより起きた、だろうか。そこに意思はなかった。


「電流?」

「半分正解ってところだな。電流だけだった時期もある」


今は何が一緒に流されているのか、ぼくにはわからない。ただ、消毒液のような、ガソリンのような、排気ガスのような独特な刺激臭はミミから立ち上っている。


「フジ、ぼくはね……」


ぼくはフジに背を向けて、繋がれたミミの前にしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばし、前髪に触れる。


「触るな!!」


フジが怒鳴る。どんな表情をしているのだろう、と少しだけ、いや、正直、かなり気になった。


「何でもかんでも……、目につくもの全部を助けようとするな……」


少しの沈黙の後、吹けない人の口笛のような、どこか間抜けなヒュウという溜息と共に「たのむ」と聞こえた。


何も浮かばない、表情がない、空洞のようなミミの顔を見つめながら、轢かれた犬のことを思い出していた。道路の真ん中で、脚が斜めにへし折れ、静脈に包まれた青白い臓器が飛び出していた仔犬。ぼくがまっ先に近づき、フジが助けた赤毛の仔犬……。より正確に言うなら、助けられはしなかったけれど、安全な場所へ、誰にも見えない静かなところへ仔犬を運んだのはフジだった。


「轢かれた犬を助けたかったワケじゃないんだよ、フジ」

「……何の話だ?」


ぼくはミミから伸びる配線を掴んだ。配線の中に何かのチューブが混じっていた。


「なるべく近くで見たかったんだ、轢かれた犬を」


ほとんど力を込めずとも、それは簡単に外れた。ザラザラとした油のようなものが、頬にかかった。


ミミは顔を少しだけ上げると、ぼくを真っ直ぐに見つめた。見開いているのに真っ黒な、一色だけの瞳。


「ははぁっ……」


ミミは三日月のように笑うと、その口からどろりと墨汁のような液体を溢し始めた。それはよく見ると人の髪の毛だった。


「「ありがとう」」


ミミたちの声が聞こえた。聞こえたような気がした。


それが合図だったのだろうか。

今までの眠りを取り戻そうとするかのように、首をカクンと落とし、そして、――彼女は増殖を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る