3話 いい人って褒め言葉ですか?
田中ミミはぼくの胸ポケットから電車の定期券を盗み取ると「一緒に帰ろうよ」と笑った。
「定期を人質にしなくても、駅までくらい一緒に帰るよ」
「駅までじゃなくて、君のお家に行ってみたいの」
ぼくはできる限り自分が浮かれていないことを演じるために、苦虫を噛み潰すような表情をつくった。
「だめ?」
「いいけど」
「けど?」
ぼくは眉にシワをたっぷりと刻んだまま、告げた。部室から下駄箱までの道のりがずいぶんと長く感じる。
「ぼくの家……、その、両親がいないんだ。あ、死んでるわけじゃなくて、仕事でね。だから、その、女の子がひょいひょい来ちゃったら、なんか、なんというか……マズイと思います」
「いい人なのね、君」
ひらひらと定期をなびかせながら、田中ミミは続けた。
「でも、それってわたしにとっては好都合」
「え」
「君にとっても好都合じゃない?」
目のやり場に困って、ぼくの黒目は定期券ばかりを追いかける。
「いや、どう、かな……」
「自分で言うのも何だけれど、傷さえなければわたしって結構かわいいでしょ? そんな女の子と二人きりって、男子からしたら悪くないシチュエーションだと思うんだけど」
ぼくは横目で彼女の顔を見た。黒く、透き通った瞳が印象的な目に、ツンと澄ました高い鼻、赤みがかった黒い長髪も艶々と輝いている。
けれど、神様があまりに上手く作りすぎたことを恥じたかのように、顔や身体に殴り書きしたような傷が浮かんでいる。
「急にジロジロ見て……なに?」
「いや……」
確かに、男子として、男としてオイシイ展開だと思う。もし、アニメでこんなトントン拍子にことが運んだならば『ご都合主義』のレッテルを二、三枚貼り付け、ぼくは視聴を辞めるけれど。
彼女は、何を考えてるんだろう……?
助けてほしい、とは言っていたけれど、何をどう助けてほしいのかは、まだ教えてくれていない。
「……やっぱり、傷、気になる?」
「いや、そういうわけじゃ」
「……じゃあ、見惚れてたの?」
ぼくは一度立ち止まり「えっと」と言ってから、彼女の顔を見た。
「ごめん、混乱してきた。話があっちこっちいってるというか、そのくせ何も進んでいないような……。その、田中さんの気持ちというか、考えというか、正直何を考えて――」
「君のこと好き」
ゾワリと全身の毛が逆立った。
「助けてくれるって、助けたいって、言ってくれたよね?」
彼女がぼくの身体に胸を押しつける。意外にも彼女の心臓は早鐘を打っていた。
「ヤリモクの男子でもね、傷のせいかな、わたしにはなかなか近づいてくれないの。いや……、少しは近づいてくるかぁ。でもね、私の方から近づくと、最初はニコニコしてくれてても、しばらくするとみんな逃げちゃうの」
じっとりとした甘い吐息がこぼれる。
「君みたいな『いい人』……、はじめて」
「いい人?」と、ぼくは聞き返したくなった。
「ねぇ、恋人になってくれるでしょ? わたしね、いま、すっごく浮かれてるの。ふふっ。傷に触ったあとも……、触らせたあとも態度の変わらない人なんてはじめて」
ぼく以外にも、傷に触れた人がいるんだなと思った。悲しいとか悔しいとかではなく、へえ、と感じた。
ぼくは半ば押し切られる形で、とはいっても、前から気になっていた子から告白される都合のいい展開なのだから断る理由なんて何一つないのだけれど――。
田中ミミと正式に付き合うことにした。
「これからはミミって呼び捨てにしてほしいな」
付き合うことに“した”というのは上からすぎる表現かもしれない。
ぼくらは交際を始めた、くらいだろうか。なんだか、それでも、まだ上から目線な気がするけれど。
ともかく、ぼくらは類稀なるスピードとテンポで恋人になった。
下駄箱で靴を履き替えるのに、ぼくはいつもの二倍以上時間がかかった。
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