第31話 あたしa、b、c、d、e
あたしは別のあたしを感じるたび、黄色いスイカを想像してしまいます。
スイカの実の中に、〈あたしa、b、c、d、e……〉が埋まっているのです。
それらは基本となる〈あたしa〉と誤差程度にしかズレがない存在であったり、作り話レベルの大きな差異を持つこともあります。
実際あたしは、お姉様と一緒にいるとき、いつもとは違う、〈あたしb〉として、接しています。
〈あたしa〉と〈あたしb〉は一つの肉体に収まった別人でありながら、記憶を共有している存在なのです。
つまり、肉体は一つでも、あたしの心は一つではないと、思えてきたのです。(〈心〉が〈生〉そのものだと考えれば、あたしはもはや一人ではないと、言ってしまってもいいはずです)
有限でありながら、那由多のような、無限に近い有限のあたしがいるのです。
〈あたし〉がたくさんいるようでは、生きることそのものに対してシリアスになれないのです。
なにせ、〈あたしa〉が死んでも、かわりは、あたしの中に幾らでもいるのですから。
この世界への不信感が増幅します。
具体的に言えば、世界の著しい変容に対応しているうちに生まれた、今立っているこの場所(とりまく環境、常識、倫理観)への不信感です。
あたしは、本来であれば、そこで閉塞を味わうはずなのです。
ですが、あたしはほかのあたしに丸投げするという処世術がとれてしまうのです。
「自分というものは一人で、この一瞬一瞬は二度と訪れず、なにより、人生は一度きり」
という当然の前提は、崩れつつあります。
家庭・会社に止まらない様々なコミュニティに属し、それぞれの自分を演じ、一人の人間の中に幾つもの自分が存在しています。
aからbに移るそのとき、常識や価値観までもが丸ごと移行するのです。
これでは、必死に生きることなんかできません。
それに、使い捨てで自分を作りだしているのでは、死を恐れることなんか、出来やしないと思いませんか?
もちろん、「人生は一度だ」とお姉様が仰ることを、否定をしたくはありません。
問題は、お姉様が思っている以上に、この地球の〈私〉の増幅が加速しすぎていて、真剣に生きるには、あまりに余裕がありすぎる世界ではないかと、思うのです。
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