8
以来、カオルと会うことは無かった。彼女もまた、私に会おうと言うことはなかった。
私はその後、自宅に引きこもるようになる。自ら命を断とう。そう考えるようになったのは、それから数日たった頃のことだった。再就職ができずに追い込まれ、育ての親まで逝ってしまい、唯一自分の心配をしてきた姉のことも突き放してしまった。
自分にはもう、何も無い。
生きる希望も無い。
その吹っ切れた思いが故に、私は人生やりなおしっ子サイトにアクセスしたのである。
「そんな、感じです」
最後の方は何故だか、上手く話すことができなかった気もする。ふと気がつくと、自分の目から一筋、涙の川が作られていた。
「…壮絶ですね。お仕事もそうですが、お母様まで」
車内が沈黙に包まれる中、運転席にて前方を見たままに、マサキがぼそりと呟く。
「そんな糞みたいな上司に会社、本当にあるのね」
助手席に座っているミナは窓を見つつぼやく。私は涙を手の甲で拭いた。
「私には、それに立ち向かうだけの勇気がなかった。だから逃げてしまった。楽な方を選んだんです、私は」
「楽なんかじゃねえし、カヨちゃんのせいでもねえよ」
「え?」
そう答えたジュンに目を向けると、彼は顔をしかめて続けた。
「我慢することが、楽なことなんて思えねえよ。自分をそうやって制することができるだけ、偉いことだって。俺やミナならその、衝動的に、多分そいつのことを殴っちまってるさ」
「何でそこであたしを入れるのよ」
助手席から彼に対する非難の声。ジュンはミナに一瞬、視線を向け、またも私に戻した。
「それに、君のお母さんだって。亡くなったことには俺、上手いこと何も言えねえけど。今も君のことを温かく見守ってんじゃないかな。…だから。なんていうか、自分を責めることはねえと、俺は思うけど」
そう言って俯く彼に、何も言えなかった。しかしそれは、何も知らない彼らの意見に対する不満や怒りなのではない。
その時の私は嬉しかった。単に、嬉しかったのだ。勤めていた会社では、お前が悪い、駄目だと言われ続けてきた。上司に問題がある訳ではなく、上司がそう宣うだけの原因が自分にあるのではないかと思うところもあったくらいだ。
「あなたは悪くありませんよ。ただ、そうですね。運が悪かった。それだけなんだと、思います」
マサキも、その意見に同調する。
運が悪かった、か。少し前にカオルから同じことを言われたことを思い出す。胸がチクっと痛む。
「ありがとうございます。皆さんも。聞いてくれて、嬉しかったです」
今作ることができる精一杯の笑顔を作り、皆に御礼を言う。
「話してくれてありがとな。でも、もう色々辛かったことも、考える必要ねえよ。死ねば、楽になれる。それがあいつらに対する復讐にもなるだろうし」
「あいつら?」私は、彼の言葉が気になった。「もしかしてジュンさんも、誰かに恨みがあるんですか?」
「ん?あ、ああ」
頭を掻きながら、ジュンはぎこちなく頷く。
「まあ、その。俺の場合、少し前まで働いていた工場の工場長の話になるんだけどさ」
話によれば、ジュンは大学には進学せず、高校卒業後はこの近辺にある工場に就職したそうだ。
「そいつが本当に屑でさ。作業員の俺達にサビ残を強制させるわ、給料は最低賃金レベルだわ。作業員の安全確保なんて、二の次よ二の次。これまで何も起きていないからいいだろってさ」
「そ、それは」
何も言えない私に対し、彼は続ける。
「それで、理由はよく分からねえんだけど。そいつから俺、特に嫌われていたみたいでさ。むちゃくちゃ厄介者扱いすんの。そんで、いい加減にしろって、直談判した訳。そうしたら…」
「どうなったんです」
息をのんで尋ねてみると、彼は溜息をついた。
「適当なミスをでっちあげられて、処分対象だと」
これには驚いた。仕事に関して言えば、私と大体似通っていたのだから。
「でも俺はさ、カヨちゃんみたいに我慢ができなくって。勢いで、なんていうのかな。こいつで、ね」彼は拳を握った右腕を見つめる。「そのままクビよクビ。そうなった経緯よりも、殴ったっていう結果の方が悪なんだって。やってらんねえよな。会社はそいつを守った。けど、俺は守られなかった。それが分かって、どうでもよくなっちまったのよ。俺が死のうって思ったのは、そんなとこ」
ぶっきらぼうにそう言うジュンだが、ここにこうしている以上、彼もまた、現実を受け入れることができなかったのだろう。
「世の中には、どうしようもない屑っているから」
スミエがため息まじりに呟いた。ジュンは何も言わずに、深い息を吐く。
そんな彼女もまた、何かしらの理由があるのだろうか。それこそ、自ら死を臨む程の、何か。私は彼女にも訊いてみることにした。
「私?私はね。うーん」彼女は目線を車内の天井に向け、そのあと、笑みを浮かべた。「カヨちゃんは私が、なんでここにいるんだと思う?」
「え」
質問を質問で返されるが、彼女みたいにおしとやかに聞かれると悪い気はしない。
しかしなんだろうか。顎に手を当てて考える。それまで連れ添っていた夫が不倫したとか?いや、たとえそうであったとしても、それを聞くのは少々憚られる内容だ。聞けるわけがない。
待てよ。失礼とは思いつつも、スミエをしげしげと見る。彼女の年齢であれば、子どもが一人や二人はいる可能性もある。もしかすると、子どもが病気か何かで亡くなったとか。そういったことが理由ということも…
「はーい時間切れ。ふふふ」
考えていたことは瞬時に頭から消え去った。口に手を当てて笑うスミエに、両手を挙げてお手上げのポーズをとる。
「ごめんなさい、わかりません」
「ふふ。真面目なのね、カヨちゃんって」
「教えてやれよスミエさん」
ジュンが催促する。そうねえと彼女は口に指を当てる。
「カヨちゃん、株って知ってる?」
「株ですか。まあ存在くらいは」
「私。大損しちゃったの。一千万ぐらい」
「い、一千万!?」
思わず大きな声を上げてしまった。しかしスミエは微笑んだままである。
「そこまで驚かれると、なんだか照れちゃうな」
「そんなに。借金、なんですよね。どうしてそんな」
「夫がね」そこで彼女は、寂しそうな笑みを浮かべる。「亡くなったの、事故で。三年前のことよ」
彼女は切なげな表情を浮かべる。そうしてから、自身の腹部に両手を当てる。
「私ね。子どもができにくい体なの」
スミエは子宮下部にある
女性の受精過程としては、精子がその頸管を通り、子宮に到達するものである。しかしその病によって、頸管を精子が抜けることができない。いわゆる不妊症の一種であった。
「これまでの人生、何度も結婚の話はあったわ。でも、その誰もが、私が体の事情を話すと、愛想笑いをして逃げていく。頸管狭窄だって、子どもができない訳じゃないのよ?でもまあ男からすれば、セックスをすれば簡単に子どもができるものってイメージがあるんでしょうね。だからなのかな。今後結婚することを考えると、タスク持ちの女と結婚なんてしたくなかったのでしょうね」
私はスミエを見た。彼女はこうして簡単にまとめて話をしているが、他人に淡々と話すことができるまでに、かなりの時間がかかったに違いない。私も女であるがだけに、彼女の問題は他人事ではなかった。
「でも。夫はそんな私を愛してくれた。頸管狭窄って、セックスするのも少し痛いの。そんな私のことも、優しくしてくれた。嬉しかった。あの人は他の人とは違う。心から私のことを愛してくれて、私もまた…愛していたわ。
でも、突然のことだった。彼はいなくなってしまったの。私の、知らないうちに」
それがその、三年前の事故だった。彼女の言い分から察するに、その時彼女は、その彼と一緒にいなかったのだろう。「ご主人が亡くなった」。後にそれを聞いた彼女は、どれほどのショックを受けたのだろうか。
「それは。なんというか…」
上手く言葉を返せないでいると、彼女はふふっと笑った。
「それで自暴自棄になって、慣れない株に手を出した訳。でも、借金しておいてね、返す当てなんて無いのよ。それならもう死ぬしかないじゃない」
あっけらかんとした態度に、気を削がれたように表情が軽く引きつる。
「カヨちゃんも、今後もし株をやる時があったら気をつけなさいね。念入りに下調べをして、ちょっぴり儲かったところで止めるのが一番なの。私はそれが、止められなかった。それだけのこと」
「は、はあ…」
もちろん、色々と聞きたいことはあった。しかし、好奇心で彼女から何でも聞くのは少し、野暮なことのように思えて口をつぐむ。
「今後ってスミエさん。もう今後なんて、俺たちに無いじゃないですか」
「あ。ふふふ、それもそうね」
ジュンの突っ込みに、スミエは笑う。その時だった。
「はーあ」
助手席のミナが、露骨に大きな欠伸をした。スミエはそれまでの柔和な顔つきから一転、片眉を上げて、険しい顔で彼女を睨む。
「何?」
「え?」
「なんか言いたいことがあって?」
「別に何も?」
ミナはわざとらしく肩をすくめる。スミエは若干苛つきつつ、ミナに食ってかかる。
「なんなのその言い方。気に入らないわね」
「気に入らなくて結構よ。おばさんの話、御涙頂戴みたいでつまんないの。女は誰もがあんたみたいに不妊なんかじゃないし…それに株なんて危なっかしいものもやらないから」
「なんですって!」
こめかみに血管を浮かび上がらせつつ、彼女はミナを強く睨みつける。
「撤回しなさい、今の台詞。何様よ、あんた」
「何様って。あたしはあたしよ、おばさんと同じ、人間。ただ、若いってところはあんたと違うけどね」
今にも飛びかかりそうなスミエを横目にして、私は若干ハラハラしていた。こんな狭い車内で、喧嘩だなんて。やめて欲しかったが、今にも発生するであろう台風同士を鎮めるだけの抑制力は、私は持っていなかった。
そんな私の思いが通じたのか、彼女達にジュンが割って入る。
「喧嘩はやめろって。ほら、スミエさんも落ち着いて」
「でも、この子が…」
「俺達、そんなことをやるために集まった訳じゃない。そうでしょ」
ジュンに説得され、スミエは渋々矛を納める。
「ええ。まあ、そうね。こんなことで怒っても無意味よね。こんな子に何言ったって、理解できやしないでしょうし」
半ば皮肉を混じえたスミエの言葉に、ミナは眉を寄せる。
「おばさんって、冗談を本気にするから疲れるよ。そんなんだから…」
「もうやめろ」
ジュンはミナを
「言って良いことと悪いことぐらい、分かれ。ガキじゃねえんだから」
ミナはふんっ、と鼻を鳴らし、それからは口を閉ざした。
心の中で私は安堵しつつも、助手席に目を向ける。この、ミナという女。まだ出会って一時間も経っていないというのに、私は苦手になっていた。
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