小学生の頃のこと。両親が離婚し、私は母に引き取られ、カオルは父に引き取られた。

 それからの私は、祖母と母との三人暮らしだった。私は両親の離婚を快く思っていなかった故に、母とうまく関係を持てないまま、過ごすことになる。

 三年前、祖母が老衰により亡くなった。祖父は既に故人で、その後母と二人で暮らすことが嫌だった私は、大学を卒業すると同時に家を出た。

 母は、東京郊外の実家に一人で暮らしていた。死因は、事故だったそうだ。

 最寄のスーパーと自宅の間に、近道として少々急な階段がある。それは私もよく知っている場所で、年寄がのぼりおりするには辛い段差だった。母は昔から、買い物帰りは運動不足解消のために、その道を通っていた。

 警察の調べでは、階段を踏み外して落下し、首の骨を折ったことによるショック死だったという。事件性も感じられず、それ以上の捜査はされなかった。

 母の骸を目にした瞬間、私の中で何かが抜けてしまったようだった。関係が拗れていたとしても、親は親なのだろう。

 ——自分は、独りぼっちになってしまった。

 そのことをひしひしと感じては、枯れる程に涙を流す。ただひたすら、呆然と過ごす日々。

「カヨ。最近どうしたの」

 そんな私と相反し、カオルは変わらず献身的だった。しかし彼女はそれまでと変わらず、転職活動のことばかり。仕方がなかった。私はカオルに、母の死のことを隠していたのだから。私だけでなく、彼女にとっても母は母である。具体的に伝えることで、私のようにショックを受けさせたくなかった。

 …いや。それは表向きの理由だった。ひどく個人的な理由で、私は彼女にそのことを話したくなかった。

 その頃の私は、カオルに強い劣等感を抱いていた。彼女の人生は、何でも上手くいっている。そんな彼女と会話をするたび、励まされるたびに、自分が酷く惨めに思えてくる。だからこそ、不幸話を追加して、彼女から更に惨めな存在だと思われるのが癪でもあったのだ。

 いよいよ我慢できなくなった頃。家に来ていたカオルに「もう、会うのはやめよう」と告げると、彼女は困ったような表情をした。

「どうして。私、なんかした?」

 とぼけたような表情が、余計に腹立たしかった。

「何もないよ。でも、もうやめたいの」

「で、でも。私がいた方がカヨにとってもいいと思うんだけれど」

「なんで?」

「何でって…転職、まだできてないじゃん」

「転職は一人で頑張る。カオルにはこれ以上、迷惑をかけたくないの。今まで本当にありがとう」

 私の半ば突き放す言い方に、カオルはそれまでの焦り顔をやめ、表情に陰を落とした。

「母さんが亡くなったから?」

「え?」

「母さんだよ。あの人が亡くなったことで、あんた自暴自棄になっちゃってるんじゃないの」

「な、なんで知って…」

「一応血縁だもん。私にも、警察から話があったの」

 初耳だった。母が亡くなった時、警察は私にしか伝えていないと言っていたのに。

 どいつもこいつも嘘つきだ。

「母さんが亡くなって、カヨが受けた衝撃は並々ならないものだったと思う。…けど。それは母さんも、もちろんカヨも、運が悪かっただけなのよ。それでカヨの人生が止まっちゃうのは、私我慢ならないよ。

 今は絶望の淵にいるかもしれないけど、だからこそ頑張り時だと思うの。そして、そんなカヨに今一番必要なのは、安定した就職先だよ」

 彼女の話を聞いて、全身の血が一気に心臓に集まる感覚。沸騰したように体が熱くなった。

「ね?その方が、亡くなった母さんも安心だと…」

「うるさいな」

「え…」

「就職、就職、就職。カオルはいつも、そればっかり」

 そこで、それまで彼女に抱いていたフラストレーションが爆発した。

「どうせ、この先頑張っても私は結局駄目なままなのよ。転職なんてできっこないの。あんたみたいに、何でも上手くいく人間と違って、私は出来損ないだから」

 絶句するカオルに、私はそう吐き捨てた。もう、本当に彼女と話すことにも疲れた。もう良い。顔も見たくなかった。

「帰って」

「カヨ、そんな。私」

「帰ってよ!」

 自分がそこまで大きな声を出せるとは、と客観的に感心した程だ。その勢いに乗り、カオルを家から追い出した。私自身、この先彼女と会いたいとも思わなかった。


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