「カヨちゃんは、なんで考えたの?」

 目的の場所に向かう道中、隣に座っていたジュンが訊いてきた。

「なんでって、自殺の理由ですか?」

「そうそう。どんな理由があって、あのサイトに登録したんかなって」

「えっと、その。会社を退職しまして」

 私がそう言いどもると、彼は顎に手を当て「うーん」と唸った。

「それって、パワハラ?」

「え…」思わずジュンの顔を見た。「お、当たりだね」と彼は腕を組む。

「どうして分かったんです?」

「どうして?」

「だって、退職だなんて聞けば、普通自分の意思で辞めたものって考えますよね」

 尋ねると、彼は「うーん」と人差し指を立てた。

「でも、自主的に辞めたんだったら、普通はこんなところにいないよね。前向きじゃない理由で、辞めざるを得なかった。加えてそれは、あまり大っぴらにできない理由だったのかなって」

 開いた口が塞がらなかった。まさか、言い当てられるなんて思ってもみなかった。彼の鋭い洞察力に舌を巻く。

「すごいです。まさに、そのとおりで」

 確かに彼の言うとおり、私は辞めたくて辞めた訳ではない。辞めるしか、選択肢がなかったのだ。

「話してみてくれよ。何があったのか。どうしてこのサイトに登録したのか」

 ジュンは柔らかな口調でそう話す。しかし私は私で、頭の中で考えを巡らせていた。

 果たして話していいものなのか。こうして聞いてくれるというのであれば遠慮は要らないが、彼にとって自分がクビになった理由なんて、いわば他人事である。そんなことを話したって。

「大丈夫。皆、わかってるから」

 彼の隣にいるスミエも、優しく声をかけてくれた。彼女の微笑みと言葉に背中を押されたのか、自分の口は自然と開き、続きを話し出した。


 ——会社に行くのが、嫌になった。


 改めて思えば、予兆は入社してすぐの段階であった。ただ、気付かないフリをしていただけなのだ。

 苦しかった。

 毎日、帰宅時刻は午前0時を超えていた。終電の車両から降りて、ふらついた足取りで帰路につくのが、お決まりのパターンだった。今日も、明日も、明々後日も。

 おつぼね社員のカワノから嫌がらせを受けるようになったきっかけを、私は覚えていなかった。

 いや、というより。そもそもそんなものは元々存在しないのかもしれない。入社した頃、私は別の部署に配属されていた。しかし当時、彼女の部下の女が、精神を病んで退職したことをあった。仕事と家庭との両立ができず、業務に支障をきたすため。そうだった。噂でしかないが、彼女の退職理由は確かそんなものだった。

 苦しかった。辛くて、苦しくて、悶え死にそうな毎日。もしかすると。彼女は私同様、カワノから同様の態度をとられていたのではないか。それが原因で辞職に追い込まれた。あり得る。事あるごとに自分を呼びつけては、「出来損ない」「使えない」と宣うカワノをみて、その疑念はあながち間違いとは言い切れなかった。

「それ、パワハラだよ」

 今から三ヶ月と少し前。いよいよ耐えきれなくなってきた私は、姉のカオルに全てを話した。

 彼女は、私達が幼い頃、両親が離婚した際に生き別れた双子の姉である。母のもとに私、父のもとにカオルが行く形となったのだが、私達二人は昔からよく会っていた。それ故に、私の身の上話であっても、彼女なら聞いてくれると思い、話をしたのだ。

 途中で涙が出てきて上手く話せない私の話を、彼女は真摯しんしに受け止めてくれた。その後、放った言葉がそれだった。

「パワハラ?」鼻水を啜り、カオルを見る。彼女はサイドテールにまとめたストレートの髪を弄りつつ、はぁと溜息をついた。「そいつにとってみれば、カヨ。あんたはストレス発散の道具ってこと」

「で、でも、私何もしてないんだよ」

「何もしていないのにそうしてくることが、パワハラっていうんだよ。ねえ、その会社おかしいよ。このままだとあんた、心が壊れちゃうよ。それも遠くない将来に」

 パワハラを受けていることを実感したと同時に、それまで己を責めていた自分、それからカワノに対し、激しい怒りがこみ上げてきた。

 カオルの後押しもあって、私は思い切って、このことをカワノの上役に相談した。自分がこれまでされたことを、洗いざらい伝えるつもりだった。

 しかし結果、その行動は自分の首を絞めることになる。

 相談は門前払いもいいところで、相手にもされなかった。要件は伝えたのだが、上役がそれを本気にしているのかどうかは、分からなかった。

 不安になった私は、人事にも相談した。しかし上役と同様の対応をとられた挙句、反対に「変な噂を広めるな」と叱責しっせきされた。

 早い話が、彼女に根回しをされていたのである。

 話はそれだけで終わらなかった。どうやら上役か人事がカワノにそのことを伝えたようで、嫌がらせはそれまで以上に激化した。

 会社は自分を守ってくれない。理不尽なしっぺ返しを食らった、それからは早かった。在職期間は二年と三ヶ月、結局のところ私の怒りの炎は不完全燃焼のまま消え失せた。そうして、無気力のうちに会社を退職したのだった。


 ——自分の選択は、正しかったのだろうか。


 仕事を辞めたことで、毎日カワノに会うといった陰鬱な気持ちは無くなった。しかし辞めてから今に至るまで、再就職が実を結ぶことは一度もなかった。暗雲が立ち込めるとは、まさに今のことを言うのだろう。

「二年ですか?それだと、当社にいても続かないんじゃないですか」

 ネックとなったのが、社会人経験がたった二年と少しということである。どの会社も新卒か五、六年以上社会人経験のある人間を求める。私みたく、中途半端な存在を求める会社は、早々見つかることはなかった。

「うちも口調が荒くなったり、よくするんですが。それ、パワハラって思っちゃいます?というか、耐えられます?辛いからって、また辞められたら困りますので」

 会社の人事という部署は、どのように私のことを調べているのだろう。依願退職とはいえ、上司からのパワハラが原因なんて、公にしているものでもないというのに。隠し事などできない。まるで、裸体を晒しているような恥ずかしさがあった。

 いつしか、面接に行くたびに体が震えるようにもなった。パワハラ。その単語がいつも面接官の口から飛び出してくる。それを聞くだけで、もう一生見ることがないであろう、カワノの顔が、頭に浮かぶ。頭の中で、彼女に叱責されている自分が、未だにいる。彼女とは、もう会うことはないというのに。

 俗に言う、トラウマというものなのだろう。心が休まる時が無かった。怖かった。何度も泣いた。この不安定さが面接時、態度や雰囲気に出ていたのかもしれない。

「大丈夫だよ。すぐに就職できるって」

 退職後も、カオルは私のもとに来て、しきりに励ましてくれた。

 私が前の会社で退職に追い込まれたことに、自責の念を感じているのだろう。カオルは見込みのありそうな会社を探すところまで、一緒に手伝ってくれた。

「私はカヨより全然頭もよくないけど、こうやってきちんとした会社で働けているんだし。カヨもチャンスあるよ」

 そう言って笑うカオル。しかしその励ましの言葉は、徐々に私の心を傷つけはじめた。

 一社、二社…一月も経たずに不採用が十社を超えた時、頭には「諦め」の二文字が浮かんでいた。この先、自分を採用するような企業なんて無い。私はなんの役にも立たない存在だと悲観的になっていく。転職へのやる気もまた、次第に無くなっていく。

 そうあっても、カオルは諦めずにポジティブな意見を自分にぶつけてくる。

 悪い意味で、彼女は情に熱い女だった。昔からそうだ。溌剌はつらつな姉と、無口な妹。顔は同じなのに、中身はまるで違うわね。そういつも比較され、蔑まれていた。

 正直うんざりだったし、やめて欲しかった。しかし強く言おうにも、向こうは善意からそれをしているのだ。あまり強く拒絶するのは憚られた。

 そんなもやもやとした気持ちを抱えつつ一人燻っていた、それはちょうど二ヶ月前のことだった。

 母が、亡くなった。


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