第6話

「ばあちゃん、父さんと叔父さんとの思い出ってある?」

「そりゃあ、いっぱいあるよ。でもあんたからしてみたらそんな話、退屈やないんか?」

「退屈だと思うならこんなこと言わないよ」


 俺が返すと、桜さんは「それもそうやな」と呟いた。

 今日は将棋のレクリエーションなのだが、桜さんは将棋には疎いらしい。


 しかし将棋を指している人を見るのは好きらしく、また俺が来てくれるからといつも通り参加してくれたのだ。

 ボランティア8日目。俺は今、ボランティアの一線を越えようとしているのかもしれない。


「いちばんは、そうやな……。秀真が生まれてちょっとしたときのことやな」

 桜さんはとつとつと語り出す。


「秀真は1歳くらいの健診のとき、医師から重度の障害がある可能性が高いって言われたんよ。

 どんな子でも元気に生まれてきてくれたらええと思ってたけど、そんなことなかったみたいでな。

 この子を乳児院に預けようかって、当時まだいた夫に相談してるところを英夫が聞いたねんよ。

 英夫はそんなんあかん、僕の弟やのにそんなんせんといてって言うねんよ」


 桜さんの語りが止まり、若干白く濁った目に涙の膜が張った。


「そうやなぁ、なんで捨てようとしたんやろなぁって。秀真は元気に生まれてきてくれたのになぁ」

 当時の心境を思い出してか、声が震えていた。


 加藤さんが気になって来ようとしたが、他の人に呼び止められて足を止めた。だが視線はちらちらとこちらを向いている。

 あとで怒られてしまうのだろうか。

 それでも俺は、桜さんの話を聞きたいと思った。


「自分がそう言うたから秀真は家にいる、って意識がずっとあったんかな。英生は可哀想なくらいずっと秀真と一緒におったのよ。

 車椅子でバスに乗れんときは、英生が秀真のことをおぶったりしてね。食事の介助も、秀真はぼろぼろこぼして唾液もかかってんのに嫌な顔ひとつ見せんかったの。旦那が死んだことを言い訳にして、押し付けて。ほんまは、全部あたしがやるべきやったのにね」

「そんな……」


 桜さんはいよいよ泣き出して、聞くべきじゃなかったのかも、と良心が痛む。

 何か言うべきなのだろうか。でも、何を言えばいいのだろうか。

 たかだか17年しか生きていない俺には、このときかけるべき言葉なんて見つからない。


「ええのよ。困らせてごめんね……。

 ああ、でもね、いいこともあったのよ。後悔だけじゃないの。

 英生が秀真の手伝いをよくしてくれたおかげで、家族3人で吉野の桜を見に行けたのよ。


 私らは英生が神戸に出てくるまでは奈良に住んでて近所やってんけど、秀真は障害があるやん? やからこんなことできる日が来るなんて思いもしなくて。

 英生が行こうって言ってくれたときはほんまに嬉しかってんけど、やっぱり行ったらじろじろ見られたり、せっかくの花見を邪魔すんななんて酔っ払いに言われてね。


 やっぱり来るべきじゃなかったんかな、こんなこと言われるようなところに連れてきてごめんな、って興奮する秀真を抱きしめたらね、あの子、言葉を話したのよ」


 桜さんが、微笑んだ。

「さくら、って」

 桜さんの頬に涙が伝う。


「あの子が言葉を話したのは、その一回きり。ほんまは聞き間違いやったんかもしれへんけど、英生も秀真の『さくら』を聞いたって言ってね。それも優しい嘘やったんかもしれんけどね」


 息を深く吸う。


「でも、信じたいのよ。

 私らが『これが桜やで、綺麗やろ』『私らの名前には、みんな桜の字が入ってるんやで』って言うたの、聞こえてたんやって。そしたら、この子を産んでよかったなぁって、しみじみ思えてんよ」


 息切れを整える。

 話していて疲れたのか、その感情に圧倒されたのか。


「……それくらい、嬉しかったんよ。あのひとことは。

 あの子が私らに、声聞こえてるよ、伝わってるよって、言ってくれたことは」


 桜さんは消え入りそうな声でそう呟いてから、何度も浅く呼吸を繰り返す。


「ごめんなぁ、年取ってから話すのもしんどくなって。ほんまは、もっと話したいことあんねんけどねぇ」

「そんなの、あとでいつでも聞くよ。明日も明後日も、ここ来るから。またそのとき、話してよ。俺も聞きたいよ」

「そうかい……ありがとうねぇ。……英生に似たんかな。優しい子になってくれて、嬉しいわぁ」


 ふっと、桜さんの顔が和らいだ気がした。表情じゃない。もっと根本的なところから解放されたような、憑き物が落ちたような変化。


「俺、他の人の対局、ちょっと見てくるね」


 桜さんに微笑み返したあと、ずっと何も話さないのに隣にいるのもサボっているみたいだと思い、一旦その場から離れる。

 手を振る桜さんに振り返して、残り時間で対局を見てまわったり、戦法を教えてもらったりしていたら、あっという間に時間が過ぎた。


「シモン、じゃあね」

「また明日、ばあちゃん」


 ニコニコしてさよならの挨拶を交わして、いつものようにレクリエーション室を出る。


「本当に、ありがとうね」


 まさかそれが、桜さんと会った最後の日になるなんて、思いもしないまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る