何はともあれ、やりたいことはほとんど終わってしまった。そろそろ本当に病院に行かなくては。日に日に不安がたまり仕事の効率もたまっている。まだ見たい映画はあったが、限界が近づいていた。

 検査の結果は三択となるだろう。すなわち「死ぬ」「手術して入院すれば治る。睾丸を失う」「特に問題なく人生が続く」そしてさらに分けると「生きる」か「死ぬ」の二択でしかない。死ぬのも怖くていやだし、生きることになっても大した未来はない。どちらにしても救いはなかった。しこりを発見する前から何も変わっていないが、しっかりと可視化されたようにも感じる。


 そういえばと一度だけ、本気で死のうと思ったことがある。

 



 自殺未遂は学生時代に一度だけしたことがあった。終着点を死に設定して、無計画で家を出て自転車で有り金の限り、ネットカフェを転々として遠くへ行く予定だった。しかし県境を二つほど越えたところで財布を落として、死ぬ予定を早める必要が出た。

 警察には一応連絡した。無人の交番に入るとそこには電話があり、受話器を持つと警察官につながるようだった。


「す、すいません財布を落としたみたいなんですが」

「では、お名前と住所を教えてもらえますか」


 白い受話器の奥から聞こえるのは、年配の男性の声だった。

 先ほど寄ったコンビニまでの距離を、地面を見ながら戻った。コンビニの店員にも財布が落ちていなかったか聞いたが、答えはNoだった。

 言われたとおりに名乗り住所を告げると、驚いた声が返ってきた。


「××市!ずいぶん遠くから来たんですね」

「ちょっと旅行中でして…」

「ホテルの場所なんかは?」

「ネットカフェを転々としています……」


 家出中というのが恥ずかしくて嘘をついた。


「そうは言いましても旅行中に財布落としたとなるとずいぶんと困るじゃないですか?」

「そうですね」

「今日は夜遅いけど、どうするおつもりですか?」

「そうですね……」


 曖昧な物言いに、電話の向こうの声が苛立ちを含んできているのがわかった。


「では、直ぐに向かうので待っててください。あと、電話番号を教えてください」


 自宅の電話番号を答え、電話を切って、怖くなって交番を後にした。これで死んだ後、財布が自宅に届いたらいいなと思った。

 財布を落としたから死ぬ。馬鹿な字面だった。しかしこの旅は終着点を死とすることで、いくらでも先へ行くという試みでもあった。つまり財布がなくなっては先へ行くことは限界があった

 小学校の頃は死ぬことが怖かった。いつか来るその現実に枕をよく濡らした。だから恐れを抱かづに死ねるということはとても幸福なことにも思えた。一時期思春期の気の迷いで死など怖くないと思うこともあったが、所詮は学生の世迷言だった。精神の波によって死への恐れは移り変わった。だからこそ今なら死ねるかもしれないと感じた。

 とりあえずその日は野宿をし、次の日は海に向かった。

 その日は雨が降っていた。当然傘などという気の利いたものなどは持っていなかったので濡れたまま進んだ。

 幸いポケットには500円玉が残っていた。その金で100円で買える1リットルの紙パックの薄いジュースとウイスキーを買った、

 やがて軽く荒れた海に到着した。泥色の海が防波堤を嬲っていた。雨は止んだが風が体温を奪っていった。

 人気のない場所でウイスキーを開けた。口に含むも、アルコール類は飲んだことがなかったですぐに吐きだしてしまった。洗剤のような味だった。口内に大量の唾液が分泌された。自分にはこのウイスキーの度数はきついようだった。よく飲み会帰りの大学生が川に飛び込んで死んだという話を聞いたので、死にやすくなるのでは、と考えたのだった。ウイスキーをジュースで割りながら少しずつ飲んでいった。遠くで汽笛のようなものが聞こえた。瓶の半分ぐらい飲んだ所で、ジュースが底をついたので、再度ストレートで飲もうとするが、また吐いただけだった。自分がどれぐらい酔っているのかはよくわからなかった。体が熱い感じはするのだが、海に飛び込んですぐに死ねるかはわからなかった。鞄の中から紙とボールペンを取り出し、遺書のようなものを書いた。


 堤防の上に上着と靴と遺書を置いた。飛び降りようと思ったが、少し高さがあって怖かったので横にあった階段から降りることにした。

 階段を降りる途中靴下を煩わしく思ったために両方とも脱いで、海に投げ捨てた。海の水が足に触れた。凍えるような冷たさだった。足で水を蹴り上げながらお海に入っていった。波に揉まれ上下を繰り返した。立ち泳ぎをしていたことに気が付き、これでは駄目だと体を強く抱きしめ、目を瞑り、潜った。すぐに息の限界は訪れてもがいた。目を開けると濁った茶色い海があるだけだった。上昇して水面に到達し、息を大きく吸った。自分に叱咤をかけ再度潜るが、耐えきれなくなりまたも海の上に顔を出した。それを何度も繰り返した。かなり長い時間それをやっていた記憶があるのだが、実際に経過したは数分にも満たなかった。濁水を口に入れようともせず、沖に向かうこともしなかった。苦しさに耐えられず、堤防の階段を目指した。しかし服の重みで思うように進まなかった。色々試す内にクロールや平泳ぎで進もうとするのではなく、立ち泳ぎで波の上下に合わせれば少しずつであれば進めることがわかった。海から上がるのであれば、靴下は必要だと思ったが、進行方向に片方があったのでそれを手にとっただけであった。立ち泳ぎでゆっくりと進み、ようやく堤防の階段にたどりついた。また雨が降り出していた。階段を上り、濡れたままで上着を着て、片方だけの靴下を履き、靴を履いた。近くの岩場に座り込んだ。そこで呼吸を整えた。

 どうせ死ぬ勇気なんてなかったのだ。


「くそったれ…」

 嗚咽のように呟いてみたが、むなしくなっただけだった。

 しばらくすると自動車が近づいてきた。そのまま通り過ぎるのかと思ったが、私の前で停車した。

 中から年配の男性が降りてきて言った。


「君、今この海で泳いでへんかったか」

「いえ、泳いでないですよ……」


 心臓の音が大きく鳴った。動揺を心の底に隠した。

 しかし彼は疑わしそうな顔でこちらを見ていた。


「ほんまにか?」

「ええ、これは雨に濡れてしまって……」


 そう言いながら、耐えられなくなってその場を後にした。

 男性が追ってくることはなかった。


 それから私はもう少しだけ自転車で進んだ後、交番に向かって両親に電話をかけてもらった。


 ■ ■ ■


 なぜこんなことを思い出しているのだろうか。また両親に迷惑をかけるかもしれないという後ろめたさだろうか。

 ただわかるのは、あの頃死んでまでなりたくなかった自分に、今なっているということだった。


 ソープから帰ってきたのち、ふと匿名掲示板の風俗スレを覗いてみた。とりあえず今日あったことを書き込んでみる。

「今日初めて行ったけど、自家発電のやりすぎで出せなかったので、とりあえず手で出してもらって惨めだった。一応これで童貞卒業ってことになる?」

 それに対して「素人童貞になっただけ」「わざわざ訪ねるってことは、自分でそう思ってないだろ」「最初の五回くらいは失敗するものと思ったほうがいい」と返ってきた。そんな中で、気になる書き込みがある。


「膣内射精障害と分かってよかったね」


 名前があるのか。

 そう考えると深刻な気がしてきた。ある意味では不妊症の一種ではある。治療法も存在し、ゆっくりとする、頻度を減らす、リハビリ用のオナニーホールもあるようだった。

 少し考えてみる。治療は必要だろうか。

 ある程度の可能性を検討したうえで、出た答えは「いらない」だった。

 もうこの先一生風俗を含めて、他人と性交できないと言われても、そこまで深刻さは感じなかった。今まで通りが続くだけだ。この先性交をするほど愛し合う相手が出来て、いざやろうとして失敗する。そんな未来を幻視しようとしたが、全くできない。何故ならそんな相手はいないからだ。ないことに対して努力をするより、いつも通りの自慰のペースを保ちたかった。

 当たり前のことにずいぶんと遠回りをしたような気がする。仮に睾丸がなくならなくても、未来は変わらなかった。質の良い自慰さえできればそれでいい。ただ「この考えに至るために風俗へ行く必要があった」という結論は出したくはない。出来ればいつも通りを続けて、この答えにたどり着きたかった。しかしもう遅い。

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