遺書
もしかしたらあと数年で死ぬかもしれない。確かに不安で押しつぶされそうになるが、それ以上に今後のことを考えなくてよくなるという安心感も少なからずあった。安月給故普段できなかった贅沢を死ぬ間際に少しだけできるかもしれない。逆に治療費の支払いで、そんな余裕はないのかもしれない。
人と会話することが苦手だった。世の中が会話と言う不確かなもので回っているのが信じられなかった。面接と言うものが嫌いで、就職活動が嫌だった。中学に入ってから友人と呼べるものが一人もいなかった。
派遣の仕事も正直上手くいっていない。作業が一段落ついて、他にやることがないか上司に尋ねると、かなり考え込むことが週2回程度はある。30分で終わる内容を倍の時間をかけてやっても何も言われなくなった。
仕事の内容はざっくりと言うと間違い探しだ。製品の何百もの箇所を図面と照らし合わせて探す。
プライベートで遊びの「間違い探し」を見ると思わず目を背けて、絶対に解かないようにしてしまう。もし7つ程度の「間違い」も見つけられなかったら、製品のにある数十倍もの中から間違いを探すことなんかできないと確定してしまうからだ。実際出来ているとは言い難い。
派遣会社にしてもまだ三十代だから安定して仕事を紹介はしてもらえるが、あと十年後二十年後はどうなっているだろうか。
私はこれから先の人生プランを考えることができなくて不安ばかり募っていった。漠然と「ああ死にたい」と考えたことがあったが、すぐに怖くなって打ち消してしまう。
死にたくはない。死ぬのは怖い。しかし、避けられないのであれば、諦められるかもしれない。そう考えると、将来に対するはっきりとした不安は雲散していくような気がした。両親は悲しむかもしれない。ただ身内の恥は一つだけ消してやれる。
遺書はどうしようか。
なんとなくネット上の誰も見ていないようなエッセイの続きに、さりげなく差し込むというのを妄想する。ふと偶然誰かが見つけて、少しだけ驚いてくれたら嬉しい。内容はおそらく虚飾にまみれている。恥を上塗りして、言い訳に満ちていて、それでいて自虐で埋まっていて、自己弁護と自己愛で溢れているはずだ。読み手が思うような私の悪い部分を先回りして、あなたが思うようなことはすでに知っている、とでも言いたげに早口でまくしたてる。しかしさも自分の悪い部分は自分が一番わかっているかの様に書かれているが、実際は読んでいるだけで欠点がその10倍見つかる。理論武装で自分を守っているが、その薄い皮を剥がした先にあるものは何もない。さらに最近見た映画の比喩と同じように例えるなら、その皮はガラスでできているので、剥がす前から何もないことがわかっている。
そんな遺書を書くのだろう。
これもまた承認欲求なのだろうか。
自分は承認欲求が強いほうだと思っていた。これを糧にすれば、なんでもできるだろうと。だが実際の所は根が怠惰なので、少し動いたらそれ以上の行動をしようとしない。飢えているからこそ少しの認知で満足して活動を止めてしまう。そして「大したことないな私の承認欲求」と誰に言うでもなく呟く。
他人事のように、つらつらと思いが募る。他人事のように語らなければ、みっともなすぎて何も言えない。
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