13

 流地川は、目の前を静かに流れていた。

 人の気配は無い。


 死んでしまったのか。


 手が震えていた。

 首筋を汗が流れた。


 もうひとつの世界は、やはりこちらの世界とは違う場所にある。

 どんなにあちらの生活を望んでも、向こうへ行くことはできないし、どんなによく見えていたとしても、あちらの世界を変えることはできない。

 川に辿り着けば、あちらの僕を助けられるような気がしていた。

 でも、違った。


 あがった息を整えながら、上流に向かって歩いた。

 世界が朱く色づいていた。

 木々の影が地面に伸びていた。


 足がうまく動かない。

 急に走ったから、体に負担がかかったようだ。

 地面に転がっていたタイヤに腰を下ろす。


 カナカナカナ。


 胸を締めつけるヒグラシの歌。


 そこから見える景色は、先ほど見ていたものと酷似していた。

 向こう岸に流木が引っかかっており、他にも枝などがその周辺に溜まっていた。

 どうやら、流れてきたものが溜まりやすい淀んだ箇所のようだ。


 タイヤの隣には大きな木が立っている。


「まさか……」


 この木は、もしかして、さっき座っていた切り株ではないか……?


 僕は木に背を付けてその前に座った。

 目の前に見える景色が、完全にさっきのものと一致した。


 間違いなかった。この木が生えている場所は、クワガタの人形を置いたあの切り株のあった場所だ。


 カナカナカナ。


 びゅおおと風が吹いて、目の前に何かがひらひらと舞った。

 心臓をかきむしられるような感覚に陥る。

 ハナセのしおりが脳内に蘇る。


 まさかそんな……あれはあちらの世界で起きたことであって、こちらの世界は別物のはずじゃないか。

 脳があちらとこちらの世界を混同し始めているのか。


 タイヤから立ち上がり、恐る恐る何かが落ちた場所へ歩みを進める。

 そこに落ちていたのは一枚の葉っぱだった。


 安堵の息が漏れる。

 あんな衝撃的な映像を見たから、疲れてしまったのだ。

 みんなの所へ行って、早めに帰ると伝えよう。


 ふと、遠くの方から声が聞こえてきた。


 て……すけ。


 それは徐々にこちらへ接近してくる。


「助けて!」


 秋の声だった。上流に目をやると、川の中央を流される秋の姿があった。


「秋!」


 思わず出た叫び声は枯れていた。

 秋が流れていくのと併走して、向こう岸に奈美と小学生たちが、こちら側の岸に総一くんがこちらへ走ってくる。

 僕はいうことをきかない足を引きずるようにして川へ近づいた。


「その木に捕まって!」


 奈美が叫び、秋は木に打ちつけられるようにしがみつく。


「秋! 登れる!?」


 彼はつかまりやすい突起を探して腕を動かすが、木が滑るのか、掴まっているので精一杯のようだった。

 川の流れは秋を上下に揺さぶり、その手を木から引き剥がそうとする。


 助けないと。

 あちらの世界で起きたことを繰り返しては絶対にだめだ。


 向こう岸で、木の幹を伝って奈美が助けに行こうとしていた。

 しかし、そこに枝の固まりが押し寄せ、彼女はバランスを崩して後ろに倒れた。


 早く助けないと!


 あちら側から助けるのは難しそうだ。

 僕はリュックを投げ捨て、川の中へと入っていく。

 膝下くらいの水位の位置まで行き、秋と目が合う。

 川の流れが急に強くなり、足が取られそうになる。


 慌てて後ろに飛びのき、なんとか体勢を立て直す。

 秋は泣きそうだった。


 よく考えろ。これじゃあ、さっきと同じ事じゃないか。

 考えるんだ、どうすれば助けられる?


 ヤシならばどうするだろう。こんな困った時は……。困った時は……ロープ。

 崖から落ちた僕を助けてくれたヤシの言葉が蘇る。

 ロープは隊員の品だ。


「どうしよう! 秋!」


 総一くんが叫んだ。

 その腕にはペットボトルロケットが挟まれている。


「ペットボトル、ロープ……そうだ!」


 僕は息を腹一杯に吸い込んだ。


「そっちのペットボトルを飛ばして!」対岸へ届くよう、腹の底から叫んだ。「ペットボトルを打ちあげて!」


 対岸の小学生たちは困惑しながらも、用意されていたペットボトルロケットの打ちあげ準備を始める。


「そのロケットも貸して」


 総一くんからロケットを受け取ると、彼は「和馬も呼んでくる」と走って行った。

 ロケットは一・五リットルのペットボトル二つを切って繋げたものだった。


 リュックサックを開け、中から長縄を取り出す。


 プシューという音と共に、ペットボトルロケットが二機こちらへ飛ばされる。

 一つは川に落ち、もう一つは僕を飛び越えて木々の中に落ちた。

 ペットボトルが落ちたであろう木の下の辺りに行き、地面を探し回る。


 あった。


 手を伸ばし、それに触れようとしたその時、背中を悪寒が走った。

 イラガがペットボトルの表面を這いずり回っていた。


 忘れていた。

 この辺りはこいつらの巣窟なんだった。


 木の枝に引っかけて取ろう。


 木の枝が落ちていないか、近くの地面を探す。


 だめだ! こんなことをしていたら、秋が……。


 何か方法を考えろ!

 手袋、そうだ、秋にもらったゴム手袋があるじゃないか。


 リュックをひっくり返し、中から出てきたゴム手袋を大急ぎではめる。

 気持ちの悪い汗で、なかなか手が入らなくて焦る。

 ねじ込むように手袋を装着し、再び木の棒を手にする。


 不快感はあるものの、なんとかイラガに棒をつけることができる。

 イラガは驚いたのかすごいスピードでうねうねと動いた。決死の思いでイラガを払いのける。


 川沿いから見ると、秋は疲れてきているようで、叫ぶ力も尽きたようだった。


 ペットボトルを手に取り、リュックの横へ全速力で戻る。

 縄跳びを二つのロケットに巻き付け、縛って固定する。

 カウボーイの容量で長縄を回し、秋が掴まっている流木の上流目がけてそれを投げる。


 ペットボトルはふわりと浮いて手前に落ちた。

 これでは秋に届かない。

 今度はペットボトルの中に水を少し入れる。


 総一くんが和馬を連れて帰ってきた。


「本当にごめん、こんなことになるなんて――」


 和馬がおどおどしながら、駆け寄ってくる。


「ペットボトルのキャップある!?」

「え、ああ、たしかここに」


 彼がポケットから出したそれをロケットにつけて、密閉する。

 もう一度ぐるぐると長縄を回す。

 先ほどより腕に重みが伝わってくる。

 飛んだペットボトルはそのまま川の流れに乗り、秋のつかまっている部分のすぐ横に引っかかった。


「秋! それにつかまって!」


 秋はペットボトルに抱きついた。

 長縄を力の限りに引っ張った。

 秋の姿が水面下に沈みかける度、心臓が止まりそうだった。


 必死に岸までたぐり寄せ、秋を引き上げた。

 彼は咳き込んでそのまま倒れ込んだ。


「秋! 大丈夫!?」


 秋は荒い息で、大丈夫、とこっちを見た。


「ああ、よかった。よかった」


 僕はそれ以上何も言葉が見つからなかった。

 しばらくは話すのも苦しそうな様子の秋だったが、徐々に落ち着いてきて、彼は立ち上がると服の水を絞った。


「怖かった」


 秋の頬はまだ濡れていた。


「ごめん。俺がトイレに行ったりして目を離してたから」


 和馬が土下座をしながら、謝ってきた。となりで総一くんも泣いていた。


「秋、どうして川に流されちゃったの?」

「ごめんなさい」


 彼が言うには、途中でペットボトルロケットに飽きて、川原の広い場所でトンボ号を飛ばしていたのだという。

 しかし、風に流されたトンボ号は川の中心に顔を出した岩場に落ちてしまったのだった。

 そこは川幅が狭く、見た感じ流れも緩やかだったため、深さも自分の膝ほどだろうと判断した秋は、気をつけながらトンボ号を取りに行こうとしたのだった。


 だが、岩場に辿り着く手前で、急に足元の感覚がなくなり、足をすくわれるように流されてしまったのだという。

 その部分は川底が急斜面になっていたみたいだ。


 秋は腕で目をごしごしとこすった。


「そうか、本当に生きてて良かった。ごめんね。目を離しちゃって」


 僕は秋を抱き寄せた。

 僕の胸の中で、秋は肩を震わせていた。


 秋がぐったりしていたので、僕らはすぐ家へ帰ることにした。


「もう、川の中には絶対入らない」


 秋は真剣な顔だった。


「そうだね。少なくとも、大人がいるところで入らないと危ないね」


 こっくりと、彼は何度も深く頷いた。

 頭の中に怒る与助おじさんの顔と、溺れそうになるシゲの姿が蘇った。

 これらは、今日に対する警告だったのかもしれない。


 結局、あちらの世界の僕はどうなったのだろう。こっちの僕に危険を知らせるために死んでしまったのだろうか。

 だとすれば、もう、あの世界を見ることはないのかもしれない。

 寂しかった。

 あの美しい、曖昧な世界で、友達と過ごす優しい時間が遠く離れてしまった。


「せっかくトンボ号買って貰ったのに、なくなっちゃった」

「ジェットはいつでも買ってあるげから心配しないで」


 秋は僕の手を握った。


「こっち来て。近道あるから」


 秋に手を引かれて、獣道を歩いて行く。

 しばらく山の中を歩き、なんの変哲もない場所で秋は足を止めた。


「ほら、ここを通ると集井村に近いんだよ」


 彼が指さしたところには、茂みのトンネルがあった。


「これって……」


 秋はしゃがんで躊躇なく中に入っていく。

 僕も地面に四つん這いになり、少しずつ前に進んでいく。


 間違いない、何度も通ったあのトンネルだ。


 葉の隙間から差し込む夕日が、あちらの世界へ導く灯火のようだった。


「ほら、すごいでしょ」


 言葉を失った。

 そこには自分が思っていた通りの光景があった。

 記憶にある映像は大抵、大幅な美化フィルターがかかった上で保存されているものだ。

 だから、その場所を後になって訪れると、脳内に保管されている空間に比べて劣って目に映ることが多い。


 向こうの世界も似たような感じで、こちらの世界に戻ってきて同じ場所を目にした場合――例えばそれは空き家であったり、神社であったりしたわけだが――それらはあちらの世界で見たものよりも寂れて見えていた。

 しかし、ここは違った。


 あちらの世界で見た記憶にも、幼少期に写真を撮った記憶にも、全く引けを取らない息を呑むような美しさが広がっていた。

 ふわふわと浮いた光る粒子の流れ、歌声のような小川のせせらぎ、周りを飛び回る蝶、そして、中心に佇む集井岩の苔に、降り注ぐ陽光が反射していた。


 僕の足は、岩へ引き寄せられた。

 岩の前に膝をつき、それと向き合う。


 名前はないだろうか。


 ぐるりと一周してみるが、それらしきものは見当たらなかった。

 結局、あちらの世界とこちらの世界は並行世界であり、それが交わることはないのかもしれない。


「何か面白いものがあるの?」


 秋が僕の顔を横から覗き込んだ。


「いや、勘違いだったみたい」


 立ち上がり、反対側のトンネルへ歩き出す。

 これは僕の中だけにある、誰にも共有できない記憶であり、感覚なのだろう。

 美しいが人に伝えることのできない、秘密の世界。

 ちょっと違うことを考えているうちに忘れてしまいそうな、脆いもう一つの世界。


「なんか、ここに模様があるね」


 秋は、岩の一部をじいっと見つめていた。

 僕は足を止めて岩の前に戻る。

 たしかに秋の指さすそこには、苔の下に数ミリの傷がついていた。それは文字のように見えた。


「まさか……」


 改めて観察すると、岩を覆う苔の面積はだいぶ広く感じた、そこはあちらの世界で見たものと少し印象が違った。

 傷の上を覆った苔を手ではがしていく。


 文字が次から次へと現れた。

 苔が剥がれる度に、僕の息は荒くなっていく。

 それぞれの字体で書かれた六つの名前が並び、僕は目を疑った。


 深沢与助

 鶴屋晴夫

 浅間信重

 浅間弘子

 山辺康司

 湯元桂子


 頭が混乱した。


 ミラクル冒険隊は実在した……?


 しかし、そこにある名前は知っている人のものばかりだ。

 与助おじさんに弘子おばさん、おじいちゃんと康司さん。

 桂子さんって押し花を教えてくれた、あの桂子さん?


 いくつもの情報が頭の中で花火のように爆発しては消えた。


「春、暗くなっちゃうからそろそろ行こう」

「あ、うん。そうだね」


 頭の整理がつかなかった。

 大きな混紡で後頭部を殴られたようだった。

 全てが夢に思える状態のまま、秋の後ろについてトンネルを抜けた。


 そのまましばらく歩くと、視界の開けた場所に出た。

 そこは集井村が見下ろせる高台のような場所だった。


「ね、近いでしょ」


 近くに墓が並んでいた。

 その中に与助おじさんが立っていた。彼は一つの墓の前に立って目をつぶっていた。


「あ、おじさんだ」


 秋が駆け寄っていく。


「おお、秋くん。それに春くんも」


 おじさんは目を開いて、優しく微笑んだ。


「おじさん、ぼく、川で溺れそうになった」

「なんだって!?」


 おじさんが血相を変えて、僕と秋を交互に見た。


「でも、春が助けてくれたんだよ。ペットボトルを投げて、縄で引っ張ってくれたの」

「ごめんなさい」僕は深く頭を下げた。「秋の周りに中学三年生の現地の子がいたし、他にも見てる子たちがたくさんいるから大丈夫かと思って、ちょっと別行動してたんです」


 与助おじさんは、そうか、とつぶやいた。


「まあ、本当に無事でよかった。これからは絶対に子どもだけで川に入っちゃだめだからね」


 おじさんの言い方はとても落ち着いた、静かなものだったが、はい、と答える秋は涙目だった。


「川は外から見れば安全でも、中には危険が潜んでいるんだ。あの流地川では、昔、おれの友達も溺れて死んでしまったんだ。子どもたちだけで川で遊んでいてな。だから、こうして、今でも墓参りをしている」


 おじさんは墓に目をやった。

 鶴谷家之墓。

 そこにはそう彫られていた。


「おじさん、そのお友達の名前は何ていうんですか?」

「名前? 鶴谷晴夫つるやはるおだが」


 晴夫。はるお。はる。


 体中が興奮して、血管が破れそうなくらいに脈打っていた。

 僕はおじさんの目を見て言った。


「あの、『集井岩』って知ってますか?」


 与助おじさんは目を大きく見開き、僕の目の奥を見ていた。

 その口は何かを言おうと動いていたが、言葉は出て来なかった。



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