11

 神社は静寂に包まれていた。


「散歩はやっぱ気持ちいいね」

「そうだね。こっちの空気は都会と違って、吸っただけ肺が浄化されている気がするよ」


 くるみと並んで石のベンチに座る。

 ずっと前からそこに立っていたであろう木が、眠っているかのように沈黙し、しかし、たしかにそこにあった。


「昨日は、何か見つけたっていってたけど、何だったの?」


 そういえば、彼女を置き去りに猫を追いかけたのだった。

 説明しなくては。


「この前現れた猫が、もうひとつの世界で見た猫によく似ていたんだ」

「うん。それで、あの後どうなったの?」

「追いかけたんだけど、足が速すぎて追いつけなかった」 

「そっか、ざんねん」

「もうちょっと運動しなきゃな」

「頑張れ」


 くるみがにやっとする。


「でも、その後、猫の隠れ家みたいな場所を見つけたんだよ。そこもあちらの世界で見た場所だった」

「うんうん、それでそれで?」

「現実でその場所にいた時、丁度、僕も向こうでその場所を見てたんだ」

「春が目で見てる世界と、意識で見てる世界が重なったってこと?」

「そう! 最近、二つの世界が連動し始めているように思えるんだよね。だから、もしかしてパラレルワールドかもしれないなって」


 くるみは目を輝かせた。


「物語みたい」


 彼女は続きを聞きたそうに黙った。


「まあ、今わかったのはこのくらいかな」

「なるほどね。すごい進展じゃん」

「そうかな? よくわからないけど」

「また、春が見てるその世界への行き方について、ヒントが見つかったら教えてよ」


 彼女はカバンの中を探り始める。


「うん、何かあったら伝えるよ」

「ところで、ほら、こんなの持ってきたんだ」


 彼女の手には二本のラムネがあった。


「一本あげる」

「ありがとう」


 ビンの入口には青く透明なビー玉がはめ込まれていて、蓋を使ってそれを押し開ける。

 ビー玉がビンの中に落ち、プシューという音と共に、泡が吹き出して足元にこぼれた跡ができた。


「うわっ」


 慌てる僕の横でくるみがお腹を抱えて笑った。


 ラムネを口に入れると、中でぱちぱちと弾け、爽やかに喉を通り過ぎていった。


「こっちに来て、二人で色々と話せて楽しかった」


 くるみはラムネをうまく開けることができ、上機嫌だった。


「僕も楽しかった」


 彼女は髪を耳にかけながら、大樹の上の方を眺めた。


「花火大会さ、一緒に行かない?」

「……ごめん、昨日、クラスの友達と約束しちゃった」


 僕は自分のタイミングの悪さと、思考の浅さを呪った。

 くるみは、「そっか、じゃあ、来年は一緒に行こ!」と笑ったが、その目が少し寂しげに見えた。


「誘ってくれてありがとう」


 僕らは黙って、木を眺めた。


 サイダーを飲む。

 手がベトベトする。

 もう一口飲み、炭酸にむせる。


 日射にキラリとビー玉が光った。

 覗いていると吸い込まれてしまいそうなくらい透明なガラスの中に、青い海が閉じ込められている。

 そこを、赤い魚が泳いでいた。

 金魚だ。


 ゆらり、ゆらりと揺れる波に合わせて、ひらひらひれをなびかせる。

 ぽちゃん、ともう一匹、金魚が飛び込んだ。


「ああ、破れちゃった」


 横でしゃがみ込んだシゲが、破れたポイを悲しそうに見つめていた。

 僕が手にしていたポイに目をやると、それもまん中に大きな穴が空いていた。


「また、挑戦してね」


 店主に送られて、金魚すくいの屋台を離れる。


「すごいいっぱい取れたぞ」


 ヤシは得意げに金魚の入った袋を持ち上げた。


「次はあれやろう。射的」

「私もやりたい」


 ハナセが冷静な口調で言うのが、とてもチグハグに見えた。


「ハナセ、射的できるの?」


 ヤシが笑いながら聞く。


「こう見えても腕はいいんだよ」


 二人は袖をまくりながら屋台に向かっていく。

 シゲは綿あめが食べたいらしく、一緒に行こうと僕の手を引いた。


「私たち他の所を見て回りたいから、また後で合流しよ」

「わかった」

「シゲをよろしくね」


 僕はうなずき、アサヒはビックと反対方向に歩いて行った。


「シゲ、一回射的の方に行ってから、綿あめ行こうか」


 彼が頷いたので、僕らも射的の屋台へと向かう。

 ものすごい人混みだった。

 押し流されないように手を繋いで歩く。


 射的屋では、先にヤシとハナセが射撃を始めていた。

 ヤシの弾は明後日の方に飛んでいき、一方でハナセの弾は見事に百発百中だった。

 普段、静かなハナセが、的をバタバタと倒していくのは迫力があり、僕は見入ってしまった。


「おねえちゃんすごいな。ほら、一等の景品はここから好きなのを取っていきな」


 店主もその腕に感心していた。

 どれにしようか景品選びで迷っているハナセの横で、四等のチョコレートを受け取ったヤシがうなだれていた。


「他のみんなは?」


 ヤシはチョコレートを開けて食べ始める。


「アサヒとビックは別の屋台に行ってる。シゲは……」


 あれ、シゲがいない。


 手を繋いでいたはずなのに、射的を見ている内に、小さな手は消えてしまっていた。


「どうしよう。シゲがどっか行っちゃった」

「大変! この人混みの中からどうやって探そう」


 ハナセが景品の人形を手に近くを見回す。


「とりあえず、別れて探そう。見つかったらここに戻って、一周して見つからない場合も、ここに集合しよう」


 ヤシの提案に同意し、僕らは別の方向へ進んだ。


「シゲー! どこにいるの!?」


 出せる限りの大きな声で叫びながら、人混みをかき分ける。

 祭りの喧噪が、叫び声を揉み消す。


「おおい! シゲー!」


 行きたがっていた綿あめの屋台付近へ行ってみるが、シゲらしき姿は見つからない。

 いたとしても人混みに埋もれて、見つけられるとは思えなかった。


 酔っ払いにぶつかりそうになったり、足を踏まれたりしながら金魚すくいの前まで戻ってきた時、手を掴まれた。

 何もなかったような顔で、隣にシゲが立っていた。


「シゲ、どこに行ってたの? みんなで探したんだよ」

「お菓子を忘れてたから、取りに来たの」


 彼の手には先ほど、くじで当てたお菓子セットがぶら下がっていた。

 金魚すくいをする際に、置いたまま忘れてしまったらしい。


「これから、どっか行く時は先に言ってね。迷子になっちゃうから」


 シゲを見つけたから、射的屋の前に戻らなくては。

 みんなはもう帰ってきているだろうか。


 綿あめの屋台の前を通る時、シゲはそれを見つめていた。

 僕は綿あめをひとつ買ってあげた。

 シゲは目の前で、くるくるとそれができあがっていくのを何も言わず、真剣な面持ちで見ていた。

 サービスで大きめの綿あめをもらったシゲは、ご機嫌でそれを頬張り、僕にも一口分けてくれた。


「お祭り楽しいね」


 シゲがモグモグしながら言った。


「そうだね」

「また、はると遊びたい」

「うん。祭りはまだ終わらないし、明日からもいっぱい遊ぼう」


 シゲはるんるんとスキップをする。


「ずっといなくならないよね?」


 胸の奥深くにずんと沈み込む言葉だった。

 遠くから来る人があまりいないから出た言葉だろうか。

 それとも、ヤシか誰かが、僕がよく引っ越しをする家の子だと教えたのだろうか。


 きっとまた引っ越すことになるとしても、「ずっと一緒にはいられない」というのは悲しかった。

 僕は考えた。


「もう伝説を忘れちゃったの?」

「え?」


 口をついたのは、すがりつくような言葉だった。


「集井岩に名前を彫ったんだから僕たちはずっと繫がってるって、さっき話したばっかりじゃん」


 そういえばそうだった、とシゲはけらけら笑った。


 その場しのぎの言葉ではなかった。

 これは僕の願いだった。




 射的屋前には、まだ、誰も到着していなかった。


「あそこにヤシがいる」


 シゲの指さす方向で、ヤシが一点を凝視していた。

 ヤシに近づいていくと、その視線の先にあるものが目に入った。


 アサヒとビックだった。

 ビックがアサヒの指におもちゃの指輪をつけていた。景品で取ったようだ。


 お返しに、アサヒがお面をビックの顔に被せようとする。

 ビックはそれをのけぞって回避しようとするが、アサヒが手を伸ばし、ビックは恥ずかしがりながらもお面をつけた。

 静かになったビックの坊主刈りの頭を、アサヒは背伸びして撫でた。


 アサヒは涙を流しながら笑っていて、本当に楽しそうだった。

 アサヒ、という名前をつけたヤシの気持ちがよくわかった。


「あ、シゲ」


 ヤシがこちらに気がついて、近づいてきた。


「シゲは忘れものを取りに戻ってたみたい」

「見つかってよかった。全然見当たらないから、焦ったよ。じゃあ、後はハナセを待つか」


 僕らはべっこう飴を買って、屋台の前で待つことにした。


「やっぱりビックって、かっこいいよな」


 ヤシはちょっと悔しそうに笑った。


「そうだね」

「背も高いし、運動も勉強もできて、性格もいいからなあ。あんな風になりたいな」

「ヤシもかっこいいよ。シゲより背高いし」


 シゲがリンゴ飴を頬張りながら褒めた。


「シゲはほんとにいい子だな。何か他に買いたいものあるか?」

「ええとね……」


 祭りの熱気に体が包まれる。

 会場である神社は音に溢れていて、僕は疲れて近くのベンチに座り込んだ。

 賑わいの間から、ジリジリと鳴く蝉の声が聞こえた。

 目の前に太い木が生えていて、そこに蝉がとまっていた。

 肩に何かの体重がかかる。

 くるみの頭だった。


 神社はすっと静まりかえった。


 くるみは肩にもたれかかって眠っていた。

 気持ちよさそうな表情。疲れていたのかもしれない。

 起こすのも何だか悪い気がして、しばらくそのままにしておくことにする。


 あちらの世界がパラレルワールドという説は確信に変わりつつあった。

 こちらの僕が神社のベンチに座っている間、僕の意識は、この神社で開催されていた祭りの中にいた。

 雰囲気はだいぶ違うが、たしかにこの場所は先ほど見ていたはずの風景と同じだ。


 二つの世界をつなぐ決定的なものが欲しかった。

 この不思議な現象が妄想の産物ではなく、実在しているという証拠が欲しかった。

 しかし、向こうではこちらのことを思い出すことができないのだから、証拠を残すことも、証拠を見つけることもできない。

 つまり、向こうで僕が存在した裏付けを、この世界で見つけ出す他に方法はない。

 何か手がかりになるものがないか、脳を回転させるが目印になるようなものは特に思い出せなかった。


 肩でくるみが動いた。

 起きたかな、と顔を覗いてみたが、まだ眠っているようだった。

 ふと、くるみが知らない人のように感じられた。

 長いこと同じ学校に通い、毎日のように会っていたはずなのに、近くでよく見ると見たことのない顔に思えた。


 もしかすると、この現実が僕の妄想なのかもしれない。

 そんな不気味な考えが、また浮かんでくる。

 くるみの顔も曖昧になって、そのうち現実だと思っているこの世界もきれいさっぱり忘れてしまったら。

 僕は身震いした。


 揺れでくるみが起きる。


「ふぁあ、寝ちゃった」


 彼女は目をこすりながら、座り直した。


「今、この神社で開かれたお祭りに行ってた。向こうの世界で」

「え、いいね。私もお祭り行きたかったな。横にいたけど、私は全然関係ない夢見てたよ」


 彼女は残念がる。


「本当に、何か密接な関係があのかもね」


 僕は彼女の言葉に頷いて、腰を上げた。


「じゃあ、そろそろ行こっか」


 僕が伸びをしていると、くるみは座ったまま手を前に出してこちらを見ていた。

 彼女の顔を正面から見る。


 そこにいたのは、やっぱり、僕の知っているくるみだった。


「どうしたの?」

「いや、何でもない」


 僕は彼女の手を引っ張り上げ、立たせた。


 神社の鳥居をくぐり、家への道を行く。

 振り返って見てみるが、境内に祭りの気配は残っていなかった。


          *


「いい夏休みの始まりだったなあ」


 くるみたちは、朝のうちに出発するということだった。


「昨日の神社散歩楽しかったな。あと、バーベキューとか」

「ね、楽しかったね」


 荷物の積み込みも終わり、康司さんはもう車に乗っていた。


「そろそろかな」


 くるみが振り返る。

 僕はまだ花火大会の誘いを断わってしまったことを引きずっていた。

 せっかく誘ってくれたのに行けないなんて。


 考えてみれば、どうしても花火大会に行きたいわけではない。

 きっと、くるみと行けば他の場所だって楽しいだろう。

 だけれども、「どこか行こうよ」の一言があとちょっとで出てこない。

 他の友達と遊びの約束なんてほとんどしないし、くるみと遊びにいったのだって最後はずっと前だ。


 どんな風に切り出せばいいのかわからない。

 迷惑だと思われるんじゃないか、という気持ちが言葉を押さえつける。


「それじゃ、またあっちで」


 くるみは手のひらを広げて、顔の横にあげた。


「あのさ」

「うん」


 彼女は手を下ろした。


 ヤシのことを思い出した。ヤシはいつも思ったことを口にしていた。

 そんな彼が、僕は好きだ。


 シゲのことを思いだした。シゲは、僕と一緒にいたいと伝えてくれた。

 その時、僕は迷惑だっただろうか。

 そんなことはない。すごくうれしかったじゃないか。

 その気持ちは、こちらの世界に戻ってきた今でもはっきりと思い出せる。


 言うんだ。

 思ったことをそのまま。


「また、帰ったらさ、二人でどこか行こうよ。花火大会じゃなくても、他に行きたいところとか」


 くるみは口角を上げ、頷いていた。


「もし、他の用事とかで忙しかったりしたら、全然、遠慮せずそっちを優先させていいから――」

「行こう!」


 くるみは満面の笑みではっきりと言った。


「無理とかしてないから心配しないで。逆に、春が忙しそうで、誘いたくても誘えなかったんだ。誘うタイミングもつかめなかったし」

「そうだったんだ」

「うん。それにしても、春と遊びの約束なんていつぶりだろう。楽しみにしてる!」


 僕らは笑顔で手を振り合い、そして別れた。

 山辺家の車が小さくなっていくのを見送り、僕は家に戻った。

 朗らかな気持ちで玄関に入ると、ちょうど秋が靴を履いていた。


「どこか行くの?」

「うん、学校。長縄の練習するの」


 小学校で会ったメンバーとの遊びのようだ。

 秋は立ち上がると僕の顔を見上げた。


「長縄を回す役、春がやってくれない?」

「え、僕?」

「そう。回せる人が足りなくて、必要なんだ」


 あまり運動は得意じゃないから気は進まなかったが、回すくらいだったらできるか。


「いいよ、じゃあちょっと準備してくるから待っててね」


 僕はリュックを背負い、秋について外へ出た。



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